幸福論を読む 『幸福論』アラン


『幸福論』(アラン/神谷幹夫訳)より


 幸福を欲する

 自力の幸福

 平凡で穏やかで安定した生活

 幸福を自分に求める

 ひとつひとつを大切に

 上機嫌の効用

 笑う健康法

 楽しませるべし

 楽しみを味わいなさい

 幸福になるのはむずかしい?

 情念の説得力

 自分の気分に無関心になる

 意志と自己克服

 適当な運動

 我が身を引っ掻く

 物事を刈り込む

 不幸を大きくするのは

 現在のことを考えよ

 暇になると悪い気分の理由を見つける

 遠くをごらんなさい

 幸せであるための努力

 辛抱強く求める

 好きでやる仕事は幸福

 二種類の富

 そう思うとそうなる

 苦労して生きて行く

 自分とけんかしない

 愛によって行う

 優雅な物腰

 幸福になる方法を教える



ラッセルの「幸福論」

ヒルティの「幸福論」

幸福論のページ







 アランの『幸福論』を読みながら「幸せ」についてのヒントを探し、私なりに考えたことを書こうと思っています。

名馬ブケファロス / 悲しいマリー
神経衰弱 / ふさぎの虫
想像力について / 精神の病い
気で病む男 / 微笑
野心家たちへ / 忘却の力
大草原について / 家庭の平和
私生活について / 倦怠
賭け / 期待
行動する / 王は退屈する
アリストテレス / 労働
遠くを見よ / 短刀の曲芸
憐れみについて / 他人の不幸
まぬけな男 / 雨のなか
エピクテトス / ストイシズム
汝みずからを知れ / 上機嫌
ある療法 / 新年 /  幸福は美徳
勝利 /  医者プラトン
幸福は寛大なもの / 幸福である法
幸福たるべき義務 / 誓うべし

 私が読んでいるアランの「幸福論」は、串田孫一・中村雄二郎訳の白水社のものですが、文庫でも出版されています。

☆『幸福論のページ



 アランの『幸福論(amazon.co.jp)

   

ラッセルの「幸福論」

ヒルティの「幸福論」

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名馬ブケファロス

  「情念の本当の原因を知らないかぎり、われわれは情念に対してまったく無力
  「人間の性格はこうこうなどと言ってはならぬ。ピンをさがすことだ」(アランの『幸福論』より)

 ここで情念とは、イヤな感情のこと。ピンとは、イヤな感情の本当の原因。
 本当の原因とは何だろうか。
(1)自分がイヤな感情を持つきっかけを作った、起きた事や何かをした人のことだろうか。
(2)「こういうことは自分にあってはいけない、信じられない」「人はこんなことをしてはならない、許せない」などという自分の観念のことだろうか。
(3)すぐにイヤな感情になる自分の性格をつくった親や環境のことだろうか。
 アランは(3)の性格については言ってはならぬと言っている。
 すでに起こってしまった事や、イヤなことをする人を変えることはできない。ならば自分にできるのは、イヤな感情を引き起こす元となった観念や考え方を変えることだろう。
 ところが人間には、「わかっちゃいるけど、やめられない」ということがある。そこが難しいところだ。


悲しいマリー

  「幸福というもののなかには、人が考えるよりも意志の力が働いている」(アランの『幸福論』より)

 幸せを感じるのは自然のことだから意識するほうがおかしい、と言う人がいる。
 私の経験では、幸せを感じようという意志は、幸福感に影響する。


「神経衰弱」
「大げさな言葉はやめて、事柄を理解しようとつとめることだ。
 きみのようなことはだれにだってある。
 ただきみは不幸にしてものが分かりすぎるのだ。
 あまり自分のことを考えすぎ、なぜうれしくなったり悲しくなったりするのか、その理由を知りたがる。そうして自分に対して苛立つ。
 それというのもきみのよろこびや悲しみが、きみの知っている理由ではうまく説明がつかないからだ」
「実際には、幸福であったり不幸であったりする理由はたいしたことではない。
 いっさいはわれわれの肉体とその働きにかかっている」
                 アランの『幸福論』の「神経衰弱」より
 悩むと苦しいのは考えすぎるからだ。いくら考えたからといっても、わからないことや、すぐには解決しないことや、どうにもならないこともたくさんある。きまじめな人は答えが出ないといらだち苦しむ。もし苦しくなるまで考えたのなら、そこで「ストップ」するべきだ。「まぁ、いいか」や「しょうがない」とあきらめるのも時には必要だ。「少し時間をおいてから考え直そう」などと棚上げするのもいい。
 また、不幸になる考えは気分が悪い時にしがちだ。気分はその日にあった出来事や、体調、天気などに左右される。満月と新月の時、夕暮れ時に人は情緒が不安定になるという。落ち込んだりするのは、そのきっかけよりもその時の気分が強い原因のことも多い。それを、きっかけとなった出来事や人に原因を求めても、明らかな答えはでない。
 また、悩んで部屋に閉じこもれば、体調も悪くなり、頭の回転もよくなくなる。その時に出てくる答えは悲惨なものになりがちだ。外に出て体を動かしたり、ぐっすりと眠ってから、考え直したほうがいい。ただし、ふつうの人は眠りすぎると、身体も頭も不活発になる。
 自分の気分を良く保つと、幸せな思考を生み、幸せな行動へとつながる。悩んで苦しくなったら、まず気分を良くしてから、考え直すようにしよう。できれば、常に気分よく過ごせるように心がけよう。


「ふさぎの虫」
 アランは腎臓結石の友人を見舞って、こう言った。
「この病気は気を滅入らせるということをきみは承知なのだから、
 滅入ることに驚いたり不機嫌になったりしてはいけない」
 きっとちょっとコミカルに言ったのだろう。意表をついていて、ユーモアがあり、効果的な達人の言葉だと思う。

「抑うつ病者と呼ばれる患者たちのことを考察してみよう。
 すると、彼らはどんな考えのなかでも悲しい理由を見いだすすべを知っている」
 幸せになる能力が高い人は、どんなことからも幸せな理由を見いだすすべを知っている。そういう人になることが私の夢の1つだ。そのために自分を育てようと努めている。

「悲しみとは病気にすぎず、いろいろ理屈や理由を考えたりしないで、
 病気としてがまんしなければならぬ」
 アランは「祈りというものが目ざしたのはそれであった」と言う。熱心に祈ることで、考えすぎたり、不幸になる考え方をしなくてすむ。不幸になる考えで精神を痛めつけるのを防ぎ、やすらぎの時間に精神の回復をはかる。
 悩みや不幸を思考によって克服しようとするよりも、心安らかな時を保ち自然回復するのを待つ。人間には心の自然治癒力もある。

 私は幸せになる考え方を奨励している。その中には、「まぁ、いいか」「また、後で考えよう」「もっと楽しいことを考えよう」などの考え方も入っている。不幸になる考え方を防ぐためだ。
 悩みには必要以上には考えてもしかたないものがある。すでに起こってしまった過去の出来事、自分ではどうしようもない現実、あるかないかわからない将来の心配など。これらについて、ある程度考えることは悪いことではない。過去の出来事からは教訓を学び、現実からは世の中や人間についてを知り、将来の不安からは対策を考えることができる。
 しかし、考えすぎは禁物だ。苦しくなる。世の中には、どうしようもないこと、すぐには答えが出ないことも多い。そういうことを考えすぎて不幸になるのを避けなければならない。いい答えが得られないからと苛立ったり、落ち込んだりとイヤな気分になったら、自らそれに気づき「ストップ」するべきだ。それが幸せになる考え方だ。


「想像力について」

  「想像力の働きには思考ではうちかてない」
  「知恵の考える道理は明白であり、だれにも容易に理解できる。
   が、この理屈は出来事に対してはなんらなすところがない。
   ラム酒のほうがずっと説得力がある」(アランの『幸福論』より)

 ヘタに考えすぎて苦しむよりも、考える以外のことが有効な時がある。
 簡単なものでは、深呼吸、ストレッチング(体操)、好きな歌をうたう、好きなビデオを観る、散歩にでる、スポーツをする、など。
 こういうものを現実逃避の一時しのぎと言われるかもしれないが、その一時しのぎが必要な時もある。精神を回復困難まで痛めつけないように。また、とにかく時がたてば自然に問題が小さくなることも多い。

 通常私たちの想像はなりゆき任せなところがある。実は習慣に従っている。しかし、意志の力で想像をある方向へ導くことはできる。少なくとも、否定的な想像をストップするくらいの能力は身につけたい。
 不幸になる想像はよくないが、幸せになる想像は非常に有効だ。幸せになる想像を心がけよう。


「精神の病い」
「出来事としいうものは、どんなに悪い出来事であっても、良い点をもっている」
「死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を心に感ずるのは幸福な人たちのみである」(アランの『幸福論』より)

「気で病む男」
「微笑は、気分に対してはなんらなすところがなく、効果もないように見える」
「微笑というものは、あくび同様深く下のほうまで降り下り、
 次々と喉や肺や心臓をゆったりとさせる」(アランの『幸福論』より)

「微笑」

   「不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある」(アランの『幸福論』より)

 そのとおりだ。不機嫌は次の不機嫌を誘導する。反対に、少しでも機嫌をよくすることは、次の不機嫌を防止し、上機嫌への一歩となる。
「気分に対してたたかうのは、判断力の役割ではない。
 そうではなく、姿勢をかえて適当な運動をやってみる必要がある」
「微笑したり首をすくめたりすることは、心配事に対する対策として知られている」
「人は随意に伸びをしたり、あくびをしたりすることができる。
 これは不安や焦燥に対する最良の体操である」(アランの『幸福論』より)
 気分がよくない時に、犯人探しや自責などの思考よりも、自ら身体を動かすことで気分の回復をはかるほうがいい場合が多い。
 方法はたくさんある。微笑む、笑う、背伸び、深呼吸、ストレッチング、体操、顔や手を洗う、シャワーを浴びる、歯を磨く、お茶などを飲む、好きな歌をうたう、音楽を聴く、テレビやビデオを観る、友達に電話をする、ゲームをする、絵を描く、散歩、スポーツなど。気分転換の方法とその習慣は、気分よく生活するために役立つ。


「野心家たちへ」
「だれでも、求める物は得られる。
 青年時代にはこの点を考え違いして、柵ぼた式に得られるのを待ち望むことしか知らない。ところが、ぼた餅は落ちてこない。
 われわれが欲するものはすべて、ちょうど山と同じで、われわれを待っており、逃げていきはしない。だが、よじ登らなければならない」(アランの『幸福論』より)
 当然のことだが、山に登ろうとしない人がいる。
「社会は、なにも要求しない人には、なにひとつ与えはしない。
 ここで要求することは、たえず要求することの意味だ」(アランの『幸福論』より)
 当り前のことだが、社会に要求しない人がいる。
 考えているだけのこと、自分ひとりでやっているだけのこと、(目標に関係のない)友達に話すだけのこと、では社会に要求していることにはならない。

「忘却の力」
「すべては、やがて忘れられる。現在というものには、いつも力と若さがある。
 そして、人は確実な動きをもって現在に順応する」(アランの『幸福論』より)
 それには、現在のことに興味を抱き、現在を楽しむ必要がある。
 過去のイヤなことを思い出すのは、現在が楽しくない時だ。


「大草原にて」
 アランの文章を要約する。
「幸福と不幸との本当の原因について深く考える人々は、
 富を警戒し、権力を警戒し、快楽を警戒し、
 だれも欲しないような地味な運命を背負ってゆくことになろう」
 確かに、お金や地位や快楽などの欲を無くせ、と書く人は多い。それが幸せになる方法だと。
 私は、お金も地位も快楽も、幸せの種子だと思う。


「家庭の平和」
「一般に情念は目につき、愛情は見えにくい。
 そしてこのことは、親密であればあるほど、いっそう避けがたい」(アランの『幸福論』より)
 そのとおりだと思う。この場合、情念とは怒りなどの人のよくない部分。
 アランはさらにこう続ける。
「これを理解しない人間は、間違いなく不幸なのだ」(アランの『幸福論』より)
 不幸かどうかはわからないが、幸せではありにくい。
 しかも、多くの人は理解していない。
「家庭内では、とりわけお互いの胸襟がひらかれている場合には、だれにも気がねしないし、だれも仮面をかぶらない。それゆえ、母親は子供に対して、自分がよい母親であることを見せてやろうなどとけっして考えないだろう。もしそんなことを考えるとすれば、それは子供が凶暴なまでに性質が悪いときのことだ。そこで、よい子はときに遠慮なく扱われることを覚悟すべきである。これがまさしく彼に与えられた報酬なのだ。礼儀というものは無関心な人たちに対して向けられるものであり、機嫌というものは、上機嫌にせよ不機嫌にせよ、愛する人たちに対して向けられるものである」(アランの『幸福論』より)
 このように考えられればいいのだが・・・
 親の不機嫌による無遠慮な扱いで、子供(特に、繊細なよい子)が傷つけられることがある。
「互いに愛し合うことの効果のひとつは、不機嫌がすなおに交換されることだ」(アランの『幸福論』より)
 互いに愛し合っている時にはいいが、愛がなくなった時には、相手の不機嫌はたまったものではない。
 相手を幸せにしたいと考えることが愛だとしたら、自分の不機嫌を相手に素直にぶつけることは愛だろうか?


「私生活について」
「自分の商売や出世のためだったら、だれでもけんめいになっている。
 しかし一般に、自分の家で幸福になるためにはなにひとつしない」(アランの『幸福論』より)
 商売や出世は幸せのためにしているのではないだろうか?
 生きているのは幸せを味わうためではないのだろうか?
 なぜ、幸せになるために何もしない人がいるのか?
 まぁ、いい。本当に幸せになりたい人が幸せになればいい。


「倦怠」

 倦怠、退屈が人を不幸な考えに誘う。
「考えるということは、必ずしもたいへん健康とはいえない一種の遊戯だ。
 たいていは、どうどうめぐりをして、さきへ進まない」(アランの『幸福論』より)
 「知覚し、行動すること、これが真の療法」だという。
 仕事などのやるべきことがある人は、その意味では幸せと言える。
 厳しい言い方をすると、小さなことでクヨクヨする人はヒマな人だ。忙しい人にはそんなヒマはない。何かに夢中になっている人も余計なことは考えない。


「賭け」
「少々の借金は残しておくべきだし、また借金があったところで苦にすべきではない」(アランの『幸福論』より)
 この文章は1913年のフランスで書かれている。借金をして暮らしている人が多かったのだろうか。現在の日本ではその日暮らしをしている人はほとんどいない。少なからず貯金がある人ばかりだ。
 現在に日本に生まれたことは幸せだと思う。

 人はワクワク・ドキドキしたいと思っている。その1つが賭けだ。
 どうせ賭けるのなら、自分の夢に賭けてみたい。


「期待」
「期待は、実際には虚栄にほかならぬ野心から生じないばかりではない。
 それはむしろ、つねに行動に先立ち、
 あらゆる職業の光明でありよろこびである。
 あの疲れを知らない創意から生ずるのだ」(アランの『幸福論』より)
 アランの表現はシンプルでないことが多い。だから引用に苦労している。
でも、独特な雰囲気と説得力を持っている。そのために、よく読まなくてはならない。

 私は期待について、「期待と幸福感」を書いたことがある。
 幸せになる期待をするためには想像力が必要だ、と私も思う。


「行動する」
「人間はその求める苦しみの中に幸福を見いだす」
「人が欲しているのは行動すること」
「人は柵ぼた式の幸福をあまり好まない。
 自分でつくり上げることを欲するのだ」(アランの『幸福論』より)
 幸せは考え出すものではなく、発見するものだ。発見するためには行動したほうがいい。じっとして何もしないよりも、たくさんの幸せを見つける可能性がある。
 簡単なことよりも、少なからず困難なほうが得られる幸せも大きい。幸せを求めてする苦しみは不幸ではない。苦しみイコール不幸ではないのだ。幸せが先に見える苦しみは、幸せの価値を高めてくれる。柵ぼた式の幸せよりも、苦労して得た幸せのほうが価値があるのだ。だから、苦労をしたくない人には、大きな幸せを得ることはまずない。
 幸せを得たければ、幸せを求めて行動することだ。


「王は退屈する」
「少しは生きる苦労というものがあったほうがいいし、
 あまり平坦な道を歩まないほうがいい」(アランの『幸福論』より)
 今の日本の若い人たちは、かわいそうかもしれない。生まれた時から、基本的に幸せだった。まわりの人もみんな幸せそうに見えるだろう。だから幸せが当り前だと思ってしまってもしかたがない。
 ところが現実にはいろいろな問題が起こる。悩み、苦しむ。幸せが当り前だと思っているから、不幸に出会うと狼狽してしまう。まわりの人がみんな幸せにそうに見えることにより、いっそう耐え難くなる。

 王は退屈する。「退屈のあまり途方もないことをしでかす」


「アリストテレス」

 アリストテレスの言葉。
  「真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治家とは政治を楽しむ人である」
  「楽しみとは能力のあらわれである」

 孔子の言葉を想い出す。
  「これを知る者はこれを好む者に如かず。
   これを好む者はこれを楽しむ者に如かず


「労働」
「役に立つ仕事はそれ自体楽しみであることがわかる。
 仕事それ自体なのであって、そこから引き出す利益によってではない」(アランの『幸福論』より)
 私は、夢を持って生きること自体が幸せなことだと思っている。目標達成への過程を楽しむべきだ。そこから得られる利益も喜びには違いない。ただし、それは大きな喜びではあるが、一時的なものであるし必ずしも得られるとは限らない。それよりも確実で長時間得られるのは過程の幸せだ。
「人間的な楽しみの最大のものは、協同でやる困難で自由な仕事であることはまちがいない」(アランの『幸福論』より)
 これは名言だと思う。仕事の喜びの要素を示している。
「協同(仲間といっしょにやる)」「困難(やりがいがある)」「自由(やりたいからやる)」の3つだ。


「遠くを見よ」
「抑うつ病にかかっている人に私の言いたいことは、たった1つしかない。
 『遠くを見よ。』
 ほとんどすべての場合、抑うつ病患者というのは、ものを読みすぎる人間だ」(アランの『幸福論』より)
 "遠くを見る"にはどうしたらいいだろうか。
(1)1つの問題を考えすぎるな。
  1つのことを長時間考えすぎてはいけない。
  ふつうの生活を大事にしろ。今を大切に。
(2)長い眼で考えろ
  人生という長い眼で考える。
  たいていのことは、一時のこと、それほど大きいことではない。
  いい経験、何かを始めるきっかけ、自分を成長させる材料になる。
(3)自分のことだけを考えるな。
  自己中心になるな。まわりの人のことも考えてみろ。
  人を幸せにすることに一生懸命になれ。


「短刀の曲芸」
 ストア主義者がこう言ったそうな。
「われわれが耐え忍ばねばならぬのは現在だけだ。
 過去も未来もわれわれを苦しめることはできぬ。
 過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しないからだ」
 みんな頭では理解できる。でも、過去や未来のために人は悩む。どうしたらいいのだろうか。

「自分を責めさいなんでいる人々のすべてに私は言いたい。
 現在のことを考えよ」
 この前、アランは「遠くを見よ」と言っていた。
 「遠くを見て、現在を考えよ」ということもできそうだ。


「憐れみについて」
 病んだり落ち込んだりしている人に、憐れみの言葉や元気づけの言葉はつらい場合がある、という。
「彼に与える必要があるのは、この生命の力だ。
 実際に、彼をあまりに憐れみすぎてはなるまい。
 冷酷かつ無関心であっていいというのではない。
 そうではなくて、快活な友情を示すことだ」
 生命の力とは、
「自然の成り行きに期待し、未来を明るく考え、
 そして生命が勝利を得ることを信ずることが必要だろう」(アランの『幸福論』より)
 具体的にはどのようにすればいいのだろうか。
 相手のそばに行き、黙って話を聞いてあげ、いつかは自然によくなるという事実を知らせ、いつかいっしょに楽しいことをしようと誘うことだろうか。


「他人の不幸」
 モラリスト(ラ・ロシュフーコーらしい)は言った。
「われわれはいつでも、他人の不幸に耐えるだけの力は十分もっている」
 これに対して、アランはこう書いた。
「われわれはいつでも、自分の不幸に耐えるだけの力は十分もっている」

 人は誰でもどんな不幸にも耐えられる力をもっている。実際にすべてのことは何とかなるものだ。なるようになるものだ。どんな不幸もいずれは過去の出来事になる。


「まぬけな男」
 アランはまぬけな男として、次のような人を挙げている。
「一種の気違いのようになって咳の発作に身をまかせている人」
「わが身をかきむしっては、苦痛のまじった一種の濁った快感を味わっている病人」
「自分ででっちあげた病気で苦しむ不眠症の人」
「なにか不満なことがあると、夜ばかりか昼のあいだも暇さえあればたちまち、
 その問題に立ちかえる。自分の悲しみのなかにひたる。
 予想しうるかぎりのあらゆる不幸を見渡す。
 要するに、自分の痛いところをひっかくようにものである」(アランの『幸福論』より)
 たしかにそういう人はいる。どうしたらいいか。
 我慢する。傷にさわらずに時間がたって自然に治るのを待つ。気にしない。悪い想像をしない。忘れるように努力する。


「雨のなか」
「本物の不幸もかなりあることはある。そうだとしても、人々が一種の想像力によって不幸をいっそう大きくしていることは、依然としてかわりない」
「運命について不平を言えば、不幸は増すばかり」(アランの『幸福論』より)
 アランは雨についてこう書いている。
「小雨が降っているとする。あなたは表にいる。傘をひろげる。それで十分だ。
 『またしてもいやな雨だ』などと言ったところで、なんの役に立とう。
 雨粒も、雲も、風も、どうにもなりはしない。
 そんなことを言うくらいなら、『ああ、結構なおしめりだ』と言わないのか」(アランの『幸福論』より)
 私は「雨が降ったら濡れればいいさ」と「雨が降れば傘をさす」と書いたことがある。


「エピクテトス」
 エピクテトスはこう語ったという。
「誤った意見をとりのぞくことだ。
 そうすればきみは、不幸をとりのぞくことになる」
 出来事に対して不幸になる考えをすることで、人は不幸を感じる。

 アランは書いている。
「どんな恐怖に対しても、どんな横暴な感情に対しても、療法は同じである。
 まっすぐに事態のところへ行って、あるがままに見ることが必要だ」(アランの『幸福論』より)
 「あるがまま」、これがキーワードだ。


「ストイシズム」
「幸福の秘訣のひとつは自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。
 相手にしないでいれば、不機嫌などというものは、犬が犬小屋に帰っていくように、動物的な生命のなかにおちこんでしまうものだ」
「自分の過去、自分の悔恨、反省によるあらゆるみじめさから身をひきはなすことだ」(アランの『幸福論』より)

「汝みずからを知れ」
「自分自身のこと、自分の過去、自分の失敗、自分の疲労、自分の胃袋のことを考えない」
「自分の欲すること、周囲や人々のことをまじめに、またはっきりと考える」(アランの『幸福論』より)
 私はその時どきに、今の幸せを感じること、自分の夢に関すること、人を幸せにすることのうちの1つを考え・行動すればいい、と思っている。


「上機嫌」
「私は義務の第一位に上機嫌をもってくるにちがいない」

「他人に対しても自分に対しても親切であること。
 ひとの生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること。
 これこそ真の思いやりである。親切はよろこびだ。愛はよろこびだ」(アランの『幸福論』より)

「ある療法」
 ある療法とは、アランの「幸福論」の中で有名な「上機嫌療法」のことだ。
「すべての不運や、つまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうことである」(アランの『幸福論』より)
 ふつう機嫌なんてものは、成り行きで変わるもので、自ら変えるようなものではない、と思われている。しかし、それが意外に簡単にできるのだ。自分が上機嫌なつもりになればいい。すると、現実の物事が上機嫌をもたらすような成り行きになる。
 物事の成り行きが機嫌を左右するだけでなく、自分のその時の機嫌が物事の成り行きを変えることがあるのだ。


「新年」
 アランは新年の贈り物として、
  「私は上機嫌をおすすめしたい」と言う。
  「上機嫌の波はあなたの周囲にひろがり、
   あらゆる物事を、あなた自身をも、軽やかにするだろう」(アランの『幸福論』より)


「幸福は美徳」

「うちなる幸福というものは、それ自身が美徳なのである」
「幸福を与えるためには、自分の内部に幸福をもっていなければならぬ」


「勝利」
「幸福が未来のなかにあるように思われるときには、よく考えてみるがいい。
 それはつまり、あなたがすでに幸福をもっているということなのだ。
 期待をもつということ、これは幸福であるということである」(アランの『幸福論』より)
 私は、夢は幸福の予感を得られるもの、夢を持って生きている今が幸せ、と言っている。
「規則正しい努力と、勝利につぐ勝利、これこそ疑いもなく幸福の公式である」(アランの『幸福論』より)
 勝利とは実際に幸せを感じることである。何をしても、何をしてもらっても、何を得ても、実際に幸せを感じられなければ勝利ではない。規則正しい努力をするとそれは習慣になる。幸せを感じる習慣こそ、幸せの公式なのだ。


「医者プラトン」
「体操と音楽とが、医者としてのプラトンの二大療法であった」(アランの『幸福論』より)
 プラトンが医者かどうかは知らないが、体操と音楽が身体と心にいいのは間違いない。


「幸福は寛大なもの」
「幸福たろうと欲し、それに身を入れることが必要である」

「われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最良のことは
 やはり自分が幸福になることだ」(アランの『幸福論』より)
 大賛成。一番の親孝行は自分が幸せになることだ。


「幸福である法」
「子供たちに幸福である法をしっかり教えるべきであろう。
 頭上に不幸がふりかかるときに幸福である法ではない。
 周囲の状況がそう悪くもなく、人生の苦しみが些細な心配事や不快事にとどまるような場合に幸福である法だ」
「第一の規則は、現在のものにせよ過去のものにせよ、
 自分の不幸の話をけっして他人に話さないことだろう」(アランの『幸福論』より)
 自分の不幸を過去の幸せな出来事に自分の心の中で変えてから話そう。


「幸福たるべき義務」
「私にとってとりわけ明瞭だと思われるのは、
 幸福たらんと欲しなければ絶対に幸福にはなれぬということだ」
「幸福であることが他人に対しても義務である」(アランの『幸福論』より)
 幸福であることが自分に対して大事であることは言うまでもない。


「誓うべし」
「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。
 およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ」
「幸福たることを誓わなければならぬ」(アランの『幸福論』より)
 私は、幸福たることを誓います。


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