アランの『幸福論』(amazon.co.jp) ラッセルの「幸福論」 ヒルティの「幸福論」 本のページ 幸せ雑記 ホームページ |
「大げさな言葉はやめて、事柄を理解しようとつとめることだ。悩むと苦しいのは考えすぎるからだ。いくら考えたからといっても、わからないことや、すぐには解決しないことや、どうにもならないこともたくさんある。きまじめな人は答えが出ないといらだち苦しむ。もし苦しくなるまで考えたのなら、そこで「ストップ」するべきだ。「まぁ、いいか」や「しょうがない」とあきらめるのも時には必要だ。「少し時間をおいてから考え直そう」などと棚上げするのもいい。
きみのようなことはだれにだってある。
ただきみは不幸にしてものが分かりすぎるのだ。
あまり自分のことを考えすぎ、なぜうれしくなったり悲しくなったりするのか、その理由を知りたがる。そうして自分に対して苛立つ。
それというのもきみのよろこびや悲しみが、きみの知っている理由ではうまく説明がつかないからだ」
「実際には、幸福であったり不幸であったりする理由はたいしたことではない。
いっさいはわれわれの肉体とその働きにかかっている」アランの『幸福論』の「神経衰弱」より
「出来事としいうものは、どんなに悪い出来事であっても、良い点をもっている」
「死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を心に感ずるのは幸福な人たちのみである」(アランの『幸福論』より)
「微笑は、気分に対してはなんらなすところがなく、効果もないように見える」
「微笑というものは、あくび同様深く下のほうまで降り下り、
次々と喉や肺や心臓をゆったりとさせる」(アランの『幸福論』より)
「気分に対してたたかうのは、判断力の役割ではない。気分がよくない時に、犯人探しや自責などの思考よりも、自ら身体を動かすことで気分の回復をはかるほうがいい場合が多い。
そうではなく、姿勢をかえて適当な運動をやってみる必要がある」
「微笑したり首をすくめたりすることは、心配事に対する対策として知られている」
「人は随意に伸びをしたり、あくびをしたりすることができる。
これは不安や焦燥に対する最良の体操である」(アランの『幸福論』より)
「だれでも、求める物は得られる。当然のことだが、山に登ろうとしない人がいる。
青年時代にはこの点を考え違いして、柵ぼた式に得られるのを待ち望むことしか知らない。ところが、ぼた餅は落ちてこない。
われわれが欲するものはすべて、ちょうど山と同じで、われわれを待っており、逃げていきはしない。だが、よじ登らなければならない」(アランの『幸福論』より)
「社会は、なにも要求しない人には、なにひとつ与えはしない。当り前のことだが、社会に要求しない人がいる。
ここで要求することは、たえず要求することの意味だ」(アランの『幸福論』より)
「すべては、やがて忘れられる。現在というものには、いつも力と若さがある。それには、現在のことに興味を抱き、現在を楽しむ必要がある。
そして、人は確実な動きをもって現在に順応する」(アランの『幸福論』より)
「幸福と不幸との本当の原因について深く考える人々は、確かに、お金や地位や快楽などの欲を無くせ、と書く人は多い。それが幸せになる方法だと。
富を警戒し、権力を警戒し、快楽を警戒し、
だれも欲しないような地味な運命を背負ってゆくことになろう」
「一般に情念は目につき、愛情は見えにくい。そのとおりだと思う。この場合、情念とは怒りなどの人のよくない部分。
そしてこのことは、親密であればあるほど、いっそう避けがたい」(アランの『幸福論』より)
「これを理解しない人間は、間違いなく不幸なのだ」(アランの『幸福論』より)不幸かどうかはわからないが、幸せではありにくい。
「家庭内では、とりわけお互いの胸襟がひらかれている場合には、だれにも気がねしないし、だれも仮面をかぶらない。それゆえ、母親は子供に対して、自分がよい母親であることを見せてやろうなどとけっして考えないだろう。もしそんなことを考えるとすれば、それは子供が凶暴なまでに性質が悪いときのことだ。そこで、よい子はときに遠慮なく扱われることを覚悟すべきである。これがまさしく彼に与えられた報酬なのだ。礼儀というものは無関心な人たちに対して向けられるものであり、機嫌というものは、上機嫌にせよ不機嫌にせよ、愛する人たちに対して向けられるものである」(アランの『幸福論』より)このように考えられればいいのだが・・・
「互いに愛し合うことの効果のひとつは、不機嫌がすなおに交換されることだ」(アランの『幸福論』より)互いに愛し合っている時にはいいが、愛がなくなった時には、相手の不機嫌はたまったものではない。
「自分の商売や出世のためだったら、だれでもけんめいになっている。商売や出世は幸せのためにしているのではないだろうか?
しかし一般に、自分の家で幸福になるためにはなにひとつしない」(アランの『幸福論』より)
「考えるということは、必ずしもたいへん健康とはいえない一種の遊戯だ。「知覚し、行動すること、これが真の療法」だという。
たいていは、どうどうめぐりをして、さきへ進まない」(アランの『幸福論』より)
「少々の借金は残しておくべきだし、また借金があったところで苦にすべきではない」(アランの『幸福論』より)この文章は1913年のフランスで書かれている。借金をして暮らしている人が多かったのだろうか。現在の日本ではその日暮らしをしている人はほとんどいない。少なからず貯金がある人ばかりだ。
「期待は、実際には虚栄にほかならぬ野心から生じないばかりではない。アランの表現はシンプルでないことが多い。だから引用に苦労している。
それはむしろ、つねに行動に先立ち、
あらゆる職業の光明でありよろこびである。
あの疲れを知らない創意から生ずるのだ」(アランの『幸福論』より)
「人間はその求める苦しみの中に幸福を見いだす」幸せは考え出すものではなく、発見するものだ。発見するためには行動したほうがいい。じっとして何もしないよりも、たくさんの幸せを見つける可能性がある。
「人が欲しているのは行動すること」
「人は柵ぼた式の幸福をあまり好まない。
自分でつくり上げることを欲するのだ」(アランの『幸福論』より)
「少しは生きる苦労というものがあったほうがいいし、今の日本の若い人たちは、かわいそうかもしれない。生まれた時から、基本的に幸せだった。まわりの人もみんな幸せそうに見えるだろう。だから幸せが当り前だと思ってしまってもしかたがない。
あまり平坦な道を歩まないほうがいい」(アランの『幸福論』より)
「役に立つ仕事はそれ自体楽しみであることがわかる。私は、夢を持って生きること自体が幸せなことだと思っている。目標達成への過程を楽しむべきだ。そこから得られる利益も喜びには違いない。ただし、それは大きな喜びではあるが、一時的なものであるし必ずしも得られるとは限らない。それよりも確実で長時間得られるのは過程の幸せだ。
仕事それ自体なのであって、そこから引き出す利益によってではない」(アランの『幸福論』より)
「人間的な楽しみの最大のものは、協同でやる困難で自由な仕事であることはまちがいない」(アランの『幸福論』より)これは名言だと思う。仕事の喜びの要素を示している。
「抑うつ病にかかっている人に私の言いたいことは、たった1つしかない。"遠くを見る"にはどうしたらいいだろうか。
『遠くを見よ。』
ほとんどすべての場合、抑うつ病患者というのは、ものを読みすぎる人間だ」(アランの『幸福論』より)
「彼に与える必要があるのは、この生命の力だ。具体的にはどのようにすればいいのだろうか。
実際に、彼をあまりに憐れみすぎてはなるまい。
冷酷かつ無関心であっていいというのではない。
そうではなくて、快活な友情を示すことだ」
生命の力とは、
「自然の成り行きに期待し、未来を明るく考え、
そして生命が勝利を得ることを信ずることが必要だろう」(アランの『幸福論』より)
「一種の気違いのようになって咳の発作に身をまかせている人」たしかにそういう人はいる。どうしたらいいか。
「わが身をかきむしっては、苦痛のまじった一種の濁った快感を味わっている病人」
「自分ででっちあげた病気で苦しむ不眠症の人」
「なにか不満なことがあると、夜ばかりか昼のあいだも暇さえあればたちまち、
その問題に立ちかえる。自分の悲しみのなかにひたる。
予想しうるかぎりのあらゆる不幸を見渡す。
要するに、自分の痛いところをひっかくようにものである」(アランの『幸福論』より)
「本物の不幸もかなりあることはある。そうだとしても、人々が一種の想像力によって不幸をいっそう大きくしていることは、依然としてかわりない」アランは雨についてこう書いている。
「運命について不平を言えば、不幸は増すばかり」(アランの『幸福論』より)
「小雨が降っているとする。あなたは表にいる。傘をひろげる。それで十分だ。私は「雨が降ったら濡れればいいさ」と「雨が降れば傘をさす」と書いたことがある。
『またしてもいやな雨だ』などと言ったところで、なんの役に立とう。
雨粒も、雲も、風も、どうにもなりはしない。
そんなことを言うくらいなら、『ああ、結構なおしめりだ』と言わないのか」(アランの『幸福論』より)
「どんな恐怖に対しても、どんな横暴な感情に対しても、療法は同じである。「あるがまま」、これがキーワードだ。
まっすぐに事態のところへ行って、あるがままに見ることが必要だ」(アランの『幸福論』より)
「幸福の秘訣のひとつは自分自身の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。
相手にしないでいれば、不機嫌などというものは、犬が犬小屋に帰っていくように、動物的な生命のなかにおちこんでしまうものだ」
「自分の過去、自分の悔恨、反省によるあらゆるみじめさから身をひきはなすことだ」(アランの『幸福論』より)
「自分自身のこと、自分の過去、自分の失敗、自分の疲労、自分の胃袋のことを考えない」私はその時どきに、今の幸せを感じること、自分の夢に関すること、人を幸せにすることのうちの1つを考え・行動すればいい、と思っている。
「自分の欲すること、周囲や人々のことをまじめに、またはっきりと考える」(アランの『幸福論』より)
「私は義務の第一位に上機嫌をもってくるにちがいない」
「他人に対しても自分に対しても親切であること。
ひとの生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること。
これこそ真の思いやりである。親切はよろこびだ。愛はよろこびだ」(アランの『幸福論』より)
「すべての不運や、つまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうことである」(アランの『幸福論』より)ふつう機嫌なんてものは、成り行きで変わるもので、自ら変えるようなものではない、と思われている。しかし、それが意外に簡単にできるのだ。自分が上機嫌なつもりになればいい。すると、現実の物事が上機嫌をもたらすような成り行きになる。
「幸福が未来のなかにあるように思われるときには、よく考えてみるがいい。私は、夢は幸福の予感を得られるもの、夢を持って生きている今が幸せ、と言っている。
それはつまり、あなたがすでに幸福をもっているということなのだ。
期待をもつということ、これは幸福であるということである」(アランの『幸福論』より)
「規則正しい努力と、勝利につぐ勝利、これこそ疑いもなく幸福の公式である」(アランの『幸福論』より)勝利とは実際に幸せを感じることである。何をしても、何をしてもらっても、何を得ても、実際に幸せを感じられなければ勝利ではない。規則正しい努力をするとそれは習慣になる。幸せを感じる習慣こそ、幸せの公式なのだ。
「体操と音楽とが、医者としてのプラトンの二大療法であった」(アランの『幸福論』より)プラトンが医者かどうかは知らないが、体操と音楽が身体と心にいいのは間違いない。
「幸福たろうと欲し、それに身を入れることが必要である」大賛成。一番の親孝行は自分が幸せになることだ。
「われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最良のことは
やはり自分が幸福になることだ」(アランの『幸福論』より)
「子供たちに幸福である法をしっかり教えるべきであろう。自分の不幸を過去の幸せな出来事に自分の心の中で変えてから話そう。
頭上に不幸がふりかかるときに幸福である法ではない。
周囲の状況がそう悪くもなく、人生の苦しみが些細な心配事や不快事にとどまるような場合に幸福である法だ」
「第一の規則は、現在のものにせよ過去のものにせよ、
自分の不幸の話をけっして他人に話さないことだろう」(アランの『幸福論』より)
「私にとってとりわけ明瞭だと思われるのは、幸福であることが自分に対して大事であることは言うまでもない。
幸福たらんと欲しなければ絶対に幸福にはなれぬということだ」
「幸福であることが他人に対しても義務である」(アランの『幸福論』より)
「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。私は、幸福たることを誓います。
およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ」
「幸福たることを誓わなければならぬ」(アランの『幸福論』より)