名言について

96/ 9/ 1 人間は考える葦である【幸せ】
96/ 9/11 汝自身を知れ【自分を知る】
96/ 9/21 我思う、ゆえに我あり
96/10/ 1 これを知る者は・・・cool!
96/10/11 禍や福のよる所、福や禍の伏す所なり
96/10/21 彼を知り己れを知れば、百戦してあやうからず
96/11/ 1 馬鹿な者は・・・useful!
96/11/11 災難に逢う時節には・・・warm!
96/11/21 世に生を得るは事を成すにあるuseful!
96/12/ 1 渡る世間に鬼はない
96/12/ 9 習うより慣れよ【幸せを感じる習慣】
96/12/16 なせばなる【幸せへの意志】
96/12/23 ものは考えようuseful!
96/12/30 なるようになる




















人間は考える葦である

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。
「パンセ」(パスカル/訳=前田陽一・由木康/中公文庫)

人間は幸せと考える葦である

 人間だけがものを考えるとは思えません。人間以外の動物でも、ものを考えているのではないかと思われることがよくあります。しかし、自分が幸せだと考えられるのは人間だけでしょう。他の動物には”おいしい”や”うれしい”のような感情がありそうなことは想像できますが、幸せを自覚することは想像できません。
 だから、「人間は幸せと考える葦である」
もしくは、「人間は自分が幸せだと考えることができる動物である」と言いたい。
そして幸せなことに、私たちはその人間に生まれたのです。



汝自身を知れ

ギリシャ・デルフォイの神殿にきざまれた言葉


 ソクラテスの言葉じゃなかった。でも、ソクラテスのように道行く人に問いかけてみたい気もする。

汝自身の幸せを知れ

 「自分のやりたいことがわからない」や「自分の幸せって何か知らない」という人がたくさんいる。幸せに暮らすためには自分の幸せを知らなければ話にならない。幸せになりたいと思っても、何をやったらいいか途方にくれるだけだ。でもみんな本気で自分の幸せを探しているのだろうか?
 だから、幸せになりたい人はまず、「汝自身の幸せを知れ」と言いたい。



我思う、ゆえに我あり

デカルト


我幸せと思う、ゆえに我在る価値有り

 「自分は生きている価値があるのだろうか?」と考える人がいる。
 私はこう考える。

過去に幸せを感じたことがあるなら、今まで生きてきた価値はある。
将来に幸せを感じる可能性があるなら、これから行きていく価値はある。
 過去にも現在にも将来にも幸せはたくさんある。それを知らないのは自分が未熟なだけ。でも、誰でも努力すれば必ず、それを知ることができるようになる。



子の日わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。
      これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

孔子・「論語」金谷治訳注・岩波文庫
                [如(し)かず=及ばない]

幸せを知る者は幸せを好む者に如かず。
 幸せを好む者は幸せを楽しむ者に如かず。


 哲学者や作家には自殺した人が多い。幸せや人生についてよく知っているはずなのだが。幸せを楽しんでいる人は自殺はしないだろう。
 私は、幸せを知り、かつ幸せを好み、かつ幸せを楽しむ人になりたい。



禍や福のよる所、福や禍の伏す所なり

             [禍(わざわい)]

  「不運なとき、そこには幸運がよりそっており、
   幸運なとき、そこには不運がひそんでいる」
老子・小川環樹訳注・中公文庫

 不幸なときそこには幸せもある。その幸せを見つけ、一時の不幸を人生の幸せと変えることが、「不幸を幸せに変える」こと(幸せになる方法の5番目)である。
 幸せなときに潜んでいる不幸には気づかなければそれでいい。もし、出会ってしまったら、その不幸を幸せに変えればいい。

不幸なとき、そこには必ず幸せがよりそっており、
 幸せなとき、そこには幸せによりそわれた不幸があるかもしれない。




彼を知り己れを知れば、百戦してあやうからず(『孫子』・謀攻編)

  「敵を知り己れを知るならば、絶対に負ける気づかいはない」
孫子の兵法・守屋洋著・知的生き方文庫・三笠書房

 幸せの敵とは何か?幸せの味方とは何か?その両者を知れば幸せになれる。

己れの不幸を知り、己れの幸せを知れば、
  不幸に陥らず、幸せになれる


 己れの不幸を知るとは、自分が不幸になるパターンやクセを知ること。
 己れの幸せを知るとは、自分がどうしたら幸せになれるかを知ること。

   己れの不幸になる考え方のクセを知り、
     己れの幸せになる方法を知れば、
       ほとんどの時間を幸せに過ごすことができる。



馬鹿な者は、独身の間は結婚した時のよろこびを空想し、
      結婚すると独身の時のよろこびを空想する
                         武者小路実篤

 この例はわかりやすく、人ごとなら「バカだなあ」と思うかもしれない。でも似たようなことを私たちはよくしていないだろうか。ないものねだり、先のわからない将来の心配、後悔や落込み、人に対する羨望と嫉妬。
 こういうことをしている自分に気づいたら、「(自分は)バカだなあ」と言って、「幸せになることをしよう」と頭を切り替えたほうがいい。

結婚している人は家庭にある幸せを感じ、
結婚していない人は独身の幸せを愉しむ。


 今の幸せ、ここにある幸せ、自分の幸せを大切にすることが、確実な幸せになる方法だと思う。



災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
   死ぬ時節には、死ぬがよく候。
  是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。
                     良寛

          大地震の際に山田謀に宛てた手紙より
                    「良寛」・水上勉・中公文庫

なるほど、妙法。

では、こんなのはどうでしょうか。

雨が降ったら濡れればいいさ

こんなのもありますね。


雨が降れば傘をさす



世に生を得るは事を成すにあり
              坂本竜馬

 『竜馬がゆく』の中で、「事とは仕事」とある。私は竜馬の生き方から、「事とは夢」であると受け取った。まさに私の人生を変えた一言である。この世に生まれた限り何かをしたいと考えるのは前向きな考え方だ。そこには、大きな夢とか、人類への貢献とか、歴史に名を残すこととか、自分の生きた証(あかし)を残したいという考えが生まれる。こういう考えは希望とワクワクした気持ちとやる気を生んでくれる。それは幸せなことである。
 しかし、現実はそれほど甘くない。大きな夢は実現が困難である。困難を乗り越えることが大きな幸福感につながるのだ。
 自分を幸せにしてくれる夢は希望を感じられる夢である。「夢」という言葉のもつもう1つの「実現しないこと」という意味の夢は人を幸せにはしてくれない。

 「事」をもっと広くラクに考えたい。生まれたからには何かをしたい。やりたいことをしたい。そのくらいに考えたほうが現実的かもしれない。
 そこで、

   世に生を得るは幸せになる事を成すにあり


渡る世間に鬼はない
ことわざ

 「渡る世間は鬼ばかり」というドラマもありますね。
 あなたはどちらだと思いますか?


渡る世間はあなたしだい
 世間の何を見るか。
   「不幸を数えて暮らすより、幸せを数えて暮らそう」
 同じ物でもどの側面をみるか。
   すべての物・事・人にはいろいろな側面がある。
   自分の幸せのためにはどういう側面をどう見るか。
 自分の経験をどう消化するか。
   一時の不幸もいい経験となる。自分の努力でいい経験とする。
   「自分を育てる」という視点から考えるとすべての経験はいい材料。
     自分を育てる = 自分の幸せになる能力を育てる
              → 確実に幸せにつながる

 渡る世間の幸不幸はすべて自分しだい
 渡る世間の幸不幸は自分の幸せになる能力しだい


習うより慣れよ
ことわざ

 このことわざの中の2つの漢字を合わせると「習慣」になります。つまり、習ってから慣れること。はじめは人や本などから習う。そして、自ら行ない慣れる。それが身につき習慣となる。

 幸せを感じられるかどうか、幸せに暮らせるかどうかは、おもにその人の習慣による。幸せを感じる習慣、幸せに暮らす習慣が肝要である。

 「習うより慣れよ」ということわざの意味は、「人や本などから習うより、自分で実際にやってみたほうが、早く身につく」ということ。

 私は以前、多くの本を読んで幸せについて考えた。しかし、それだけでは生活の中での幸せは変わらなかった。本を読んでいる時には、「なるほど」「そうなんだ」「こんな考え方もあるんだ」などと納得できた。でも、相変わらず生活は変わらない。読んだ本の内容はすぐに忘れてしまった。
 「幸せになる方法」を考え、その実践方法を考え試すことにより、実際に幸せを感じることができるようになった。ひとつずつ幸せを感じる習慣を増やしていった。だから今は以前より幸せを感じられるようになった。まさに「習うより慣れよ」だった。


なせばなる
ことわざ?

 「なせばなる なさねばならぬ なにごとも」だと私は思い込んでいる。
 当然の言葉のようだが、本当にそうだろうか?「なさねばならぬ なにごとも」に間違いはない。では「なせばなる」は正しいだろうか?
 もし、「なせばなる なにごとも」と言われたら、「世の中には思うようにならないことはたくさんある」と反論したくなる。


幸せになろうとすれば幸せになれる

 私はこのように信じている。このことに関する限り、「なせばなる」は真理だと思う。その根拠は、幸せは無数にあり、幸せになる方法もたくさんあるからだ。

 名言は手軽に使うのがいいと思う。
 「なせばなる」と希望を抱き、「なさねばならぬ なにごとも」と自分にハッパをかけよう。私ならさらに、「できたらいいな」と軽く、「なるようになる」と覚悟をきめて、「楽しんでやろう」と心がけ、結果はともあれ「いい経験としよう」のように。


ものは考えよう

 「ものは考えよう」とは、素晴らしい言葉だと思う。
 しかし、人に「(お前の考え方はよくない)ものは考えようだ」と言われても、素直に聞ける人は少ないだろう。「そんな簡単に言うな」「人ごとだと思って」「それができたら苦労しないよ」などと思いがちである。
 ところがもし、「ものは考えようだ」と自分で心の底から発することができれば、まったく違う。自分が否定的な考え方をして、イヤな感情を抱いていると気づいた時に、「ものは考えようだ」という一言が自分を救ってくれるに違いない。少なくとも幸せへの希望と前向きに考えようとする気持ちを引き起こしてくれる。それが幸せに導いてくれるだろう。

 ものの幸不幸は自分の考えよう
 「不幸な感じ、イヤな感じがするのは、自分の考え方のせいだ。どんなことでも考えようによっては、幸せだと思うことができる」
 こういう考え方って、すごく難しいことのように思えませんか?私も以前はそうでした。今でも100%言い切ることはできません。でも「ほとんどのことはそうだ」と最近は言えます。

 事・物・人に対する自分の幸不幸の感情は、自分の考え方しだい

 頭ではこう信じているつもりである。実際には必ずしもそうはできない。それはまだ自分が未熟だからだ。でも努力すれば着実に成長できることを100%私は信じている。


なるようになる

 私は「なるようになる」という言葉が好きだ。というより、そう自分に言い聞かせながら生きているのかもしれない。
 「幸せのホームページ」などという、まったくお金にならないことに時間と労力を費やしている。まともに考えれば、このまま続けていけば経済的に困ることになる。
 そこで私は「なるようになる」と言ってしまう。

 私は平成9年の1年間は、「幸せのホームページ」に専念することに決めた。少なくともその間は経済的には困ることはない。それから先はまた1年後に考えて決めればいい。それまでは先のことは気にせずに、やりたいようにやればいい。
 私はこういう考え方をここ数年繰り返してきている。年の始めにとりあえず1年間どう過ごすか決めている。実は平成8年の前半は、2冊目の本を出版すべく執筆作業をしていた。それと並行して、パーソナルなパソコンソフトの開発準備をしていた。これも私の長年の夢である。
 それが後半、インターネットにはまってしまった。そして少なくとももう1年は「幸せのホームページ」にドップリとつかるつもりだ。実は「幸せのホームページ」は「2冊目の本」と「パーソナルなソフト」を兼ねている。インターネットという新しいメディアが出版とソフトの新たな形態を生むのだと思う。「幸せのホームページ」は私の夢の実現の場だと、今は思っている。
 しかし、先行きの見通しはまったく立っていない。
 でも、「なるようになる」
 なにより、最近充実している。楽しい。幸せだ。
 とにかく、平成9年は「幸せのホームページ」に全力投球するつもりだ。

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