1 愛は技術である 2 愛されるために 3 愛の対象 4 恋と愛 5 愛の技術習得法 6 愛は能動的な活動 7 愛の基本的な要素 8 幼稚な愛? 成熟した愛? 9 自己愛 10 愛の実践の基本 11 意識して努力する 12 集中と忍耐 13 本気になってやる 14 一人でいられる 15 自分に敏感になる 16 謙虚さと客観性を備えた理性 17 信じる 18 信念と勇気 19 愛のパワー 20 愛は幸福に生きる技術 21 自分を愛することと他人を愛すること 22 自己愛 23 一体化 24 ナルシシズムの克服 25 信じる 26 愛の技術を習得する 27 性格の発達 28 生命力の表現 29 与える人が豊かな人 30 愛とは愛を生む力 |
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愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし、今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。愛は心の中にあるだけでは、ほとんど幸せを生まないし、相手にも伝わりません。愛の行為が必要なのです。行為には技術が必要です。
誰もが愛に飢えている。(中略)なるほど、「誰もが幸せになりたいと思っている。ところが、幸せについて学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない」とそのまま置き換えることができそうです。
ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
まず第一に、たいていの人は愛の問題を、「愛する」という問題、愛する能力の問題としてではなく、「愛される」という問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。確かにそうだと思います。私も以前はそうでした。
愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある第二の原則は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることはむずかしい──人びとはそんなふうに考えている。愛する人がいない理由として、「いい人がいない」「いい出会いがない」と言う人がいます。そういう人は対象の問題だと考えているわけです。
愛について学ぶべきことは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛の中に「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。「恋」と「愛」の違いについては、いろんな人がいろんな所でいろんなことを言ったり書いたりしています。
技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。一つは理論に精通すること、いま一つはその習練に励むことである。愛の技術(私的には、人を幸せにする方法)はたくさんあるのだと思います。
しかし、理論学習と習練のほかに、どんな技術をマスターする際にも必要な第三の要素がある。それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心事にならなければならない、ということである。
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。受動的(人任せ)では、いつ幸せになれるかわかりません。能動的なら、自分しだいで幸せになれるのです。
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。さて、あなたの愛は幼稚でしょうか?成熟しているでしょうか?
利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。利己主義、我利我利亡者の人は、何か心が飢えているような気がして、幸せそうな感じがしません。
(中略)
自分自身をあまりに愛しすぎているかのように見えるが、実際には、真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。
愛は自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。これが「愛」を実践する際の基本のような気がします。
まず第一に、技術の習練には規律が必要である。規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。「愛は技術である」「技術を習得するためには習練が必要」ということで、愛の技術を習得するための習練には「規律」が必要ということのようです。
集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。いま何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。集中するためには、今を大切にし、余計なことは考えないことが大事だと思います。
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。
集中力を身につけるための習練は、最初のうちはひじょうにむずかしい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、いうまでもないことだが、忍耐力が必要である。
最後にもう一つ。技術の習得に最高の関心を抱くことも、技術を身につけるための必要条件の一つである。もしその技術がいちばん重要なものでないとしたら、その技術を身につけようとしても、絶対に身につかないだろう。「愛の技術を習得する」「くよくよ(イライラ)しない自分になる」「幸せに暮らせるようになる(幸せになる能力を向上させる)」
一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。「心の自立」ということでしょうか。
自分にたいして敏感にならなければ、集中力は身につかない。「自分に敏感になる」って、すごく大切なことだと思います。
(中略)
人は自分にたいして敏感になることができる。たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。同じように、なんとなくいらいらしたり、腹が立ったり、また白昼夢にふけるとか、その他の逃避的な活動にふけったりしたときにも、それに気づいたら、自問するのだ。
客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性をはたらかせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。人を愛する(幸せにする)ためには「相手本位」に考えることが重要です。自分勝手な考えに基づいた愛の行為は、相手を幸せにできないし、ありがた迷惑や余計なおせっかいになってしまうこともあります。
このことを、私たちが論じている愛の技術の習練にあてはめてみると、こういうことになる。人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性を備えた理性を育てなければいけない。
愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのである。人を愛することで重要なのは「相手を信じること」です。
他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。
他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。(中略)つまり、人を愛するとか、幸福になるとか、理性を使うとかいったことにたいする可能性、あるいは芸術的才能のようなもっと特殊な可能性である。この可能性は、いわば種子であり、もしその発達を促すような条件が整えば成長するし、そうした条件がなければ枯れてしまう。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。愛の可能性を信じられない人、愛(する能力)に自信がない人は、愛に対して臆病になってしまいます。信じようと努力することも大切だと思いますが、やはり経験によって自信をつけていくしかないのかもしれません。
信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして、そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。人に愛の行為を実践しようと思っても、その習慣がない人は、意識しなければできません。意識するのはけっこうたいへんなことです。慣れていないことをやる時には、集中しなければできません。その上、心身ともに余計なところに力が入ってしまうものです。だから、パワーを使い、疲れます。
愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。最高かどうかはわかりませんが、「愛(人を幸せにすること)」が幸せになる方法の大きな1つであることは間違いないと思います。
愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。