1 人間の3つの根本規定 2 主観と客観 3 人柄のもつ絶対的な価値 4 富は心に積む 5 心の朗らかさ 6 陰気と陽気 7 苦痛と退屈 8 自分がいちばん大事 9 足るを知る 10 不幸でない幸せ 11 汝自身を知れ 12 現在・過去・未来を生き分ける 13 反省を重ねる 14 持っているものの価値を知る 15 自分を活かす活動 16 知恵と勇気 17 幸福のありか |
『幸福について―人生論』(amazon.co.jp) ラッセルの「幸福論」 ヒルティの「幸福論」 本のページ 幸せ雑記 ホームページ |
1.人のあり方「幸せ」は何によるか、ということです。
すなわち最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこのなかには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成が含まれている。
2.人の有するもの
すなわちあらゆる意味での所有物。
3.人の印象の与え方
印象の与え方というのは、ご承知のとおり、他人のいだく印象に映じた人のあり方、すなわち結局他人にどういう印象をいだかれるか、という意味である。したがってその帰するところは人に対する他人の思惑であり、名誉と位階と名声とに分けられる。
幸福がわれわれのあり方すなわち個性によってはなはだしく左右されることが明らかである。ところが大抵はわれわれの運命すなわちわれわれの有するものあるいはわれわれの印象の与え方ばかりを計算に入れている。
およそ現実というものが、主観と客観という二つの反面から成っているということによるのである。だから客観的な反面が全く同じでも、主観的な反面が異なれば、現在の現実が全く別なものになってしまう。客観的な現実が同じでも、自分の受けとめ方・考え方が異なれば、自分にとっての現実(の幸不幸感)は違うものになる。受けとめ方・考え方によって、(幸不幸の)方向性は別れる。
現在および現実の客観的な反面は運命の手に握られている。したがって可変的なものである。主観的な反面はほかならぬわれわれ自身である。したがって根本的には不変的なものである。だから人間各自の生き方は、いかに外部からの変化があっても、終始一貫同じ性格を帯び、同一主題をめぐる幾つかの変奏曲にも譬(たと)えられる。
人生の幸福にとっては、われわれのあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。早い話が、人柄というものはどんな状況にあっても絶えず活動する力をもっているという理由からだけでも、その重要性が肯かれるが、なおそのうえに、先に揚げた他の二つの見出しに属する財宝とは違って、人柄は運命に隷属したものでなく、したがってわれわれの手から奪い取られることがない。その意味で、他の二種の財宝が単に相対的な価値をもつに反して、人柄のもつ価値は絶対的な価値だということができる。幸せになる能力は一旦身につければ、以降の人生の中でずっと自分の役に立ちます。使い続ける限り、技術が熟練することはあっても、失うことはない。
富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明だということも明らかである。「お金」(あるいは、収入を得るものとしての仕事)も人間の大きな幸せの一つだと、私は思います。
有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。
むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいである。
それにもかかわらず、人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。
種々の(主観的な)財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。なぜかといえば、このような長所は他の何ものを待つまでもなく、この長所そのものによって報いられるからだ。広辞苑によると、「朗(ほが)らか」は「心のはればれとしたさま。また、気持・性格が明るく楽しげなさま」。
ある事件の幸福な結末と不幸な結末とが五分五分の可能性をもつ場合、陰気な人間は不幸な結果を見て腹を立てたり悲しんだりするが、幸福な結末を見て喜ぶことはしない。これに反して陽気な人間は不幸な結末に対して腹を立てたり悲しんだりはせず、幸福な結末を喜ぶであろう。これを読んで「自分は陰気な人間だ」と思ってしまった人も多いのではないでしょうか。
陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これと逆の場合にも、一の成功でみずからを慰め、自分を明朗な気分にするコツを心得ている。
人間の幸福に対する二大敵手は苦痛と退屈である。幸せになれていない人には、「不幸な人」と「幸せでない人」がいます。
誰でも自分自身にとっていちばんよいもの、いちばん大事なものは自分自身であり、いちばんよいこと、いちばん大事なことをしてくれるのも自分自身である。このいちばんよくて大事なものが多ければ多いほど、したがって享楽の源泉が自分自身の内に得られれば得られるほど、それだけ幸福になる。「世界中で自分がいちばん大切」 そう考えていいと思います。
アリストテレースが「幸福はみずから足れりとする人のものである」と言っているは、全くそのとおりである。「足るを知る」というのは昔からいろんな人が言っていた、真理なのでしょう。
私はアリストテレースが『ニコマコスの倫理学』で何かの折に表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題が、およそ処世哲学の最高原則だと考える。「不幸でない幸せ」というのもあります。苦しいよりラクなほうがまだ幸せです。つらい時期に比べたら今はまだ幸せと思えることもあります。
「幸福に生きる」ということは「あまり不幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解すべきものであるということから、幸福論の教えが始まるのでなければならない。
「汝自身を知れ」(訳注 ソークラテースの言)という行き方をいささかでも心得ている必要がある。すなわち自分が真に主として何よりもまず欲するものは何か、すなわち自己の幸福にとって最も本質的なものは何か、さらにこれに次いで第二位第三位を占めるものは何かということを知る必要がある。「汝自身を知れ」という言葉についてはだいぶ前に書いたことがあります。幸せになりたい人はまず、「汝自身の幸せを知れ」ということです。
われわれの注意は一部は現在に、一部は未来に注がれるが、いずれか一方が他方を害うことのないように、両者の適正な振合いを得るということも、処世哲学の重要な点の一つである。あまりにも現在ばかり生きている人が多い。軽率な人たちがそれである。あまりにも未来にばかり生きる人もある。小心な苦労性の人たちがそれである。私は元来、小心な苦労性の人です。先の心配をすることが多く、現在を愉しむことが苦手でした。
申し分のない思慮深い生活をし、自己の経験の中からそこに含まれるすべての教訓を引き出そうとするには、幾たびとなく反省を重ね、自己の体験・行動・経験、ならびにそれに付随して感じたことを総括的に再検討し、また自己の以前の判断を現在の判断と比較し、自己の計画と努力とをその結果によって与えられた満足と比較してみることが必要である。自分の幸せになる能力を向上させ、自分の生活を幸せなものにしていくためには、自己の経験から学び一つ一つ改善していくのが何よりだと思います。
(中略)
この目的には日記というものが大変有益である。
何でも自分の持っていないものを見ると、それが自分のものだったらどんなだろうととかく考えがちで、そのために不足感が起ってくる。それよりはむしろ、自分の持っているものを、これが自分のものでなかったらどんなだろうと、たびたび問うてみるがよい。つまり、財産であろうと健康であろうと、友人や恋人や妻子であろうと、馬や犬であろうと、何であろうと、自分の持っているものを、かりに失っていたとしたら、それが自分の目にはかくかくしかじかに映ずるであろうといった角度から、時折眺めてみるように努力するがよい。大抵の場合、失ったあとではじめてものの値打ちがわかるからである。自分の持っていないものを思い、不足感/無力感/うらやましいなどの(不幸な)感じかしてしまうことは誰にでもあると思います。そういう感じがしても(ハオハオと)落ち込んだりしなければいいのです。
「生命は運動である」とアリストテレースは言っているが、明らかにそのとおりである。生きることは活動することです。実際に何かをして生きているわけで。
(中略)
だから活動ということ、すなわち何かをすること、できることなら何かを仕上げること、せめて何か覚えるということは、人間の幸福には欠くことができない。人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。
さて知恵に次いでは勇気が、われわれの幸福にとってきわめて重要な特性である。もちろん、いずれの特性も自分で手にいれることはできない。知恵は母から、勇気は父から譲り受ける。けれども意志と訓練によって、幾分かでも具わった知恵や勇気を助長することはできる。幸せになるためには、そのための「知恵」が重要です。
幸福は容易に得られるものではない。ショーペンハウエルが『幸福について』の冒頭に掲げた格言です。
幸福をわれわれのうちに見いだすのは至難であり、
他の場所に見いだすのは不可能である。
シャンフォール