しあわせ日記 「人を信じる」
11月11日(日)人を信じる
「人を信じること」について考えてみようと思います。
「信じること」については以前に書いたことがありますが、今回は「人」を信じることを中心にいろいろ考え直してみたいと思います。
信じることができずに、人を疑ってみたり、詮索したり束縛しようとしたり、嫉妬したり、裏切られるのではないかと怖れたり、・・・。人を信じられないだけのために、イヤな思いをしてしまうことがあります。
また、人間や社会に対する不信が不安となり、幸せに暮らせない原因になってしまうこともあります。
そもそも「信じる」とはどういうことでしょうか?
「本当に信じる」ことは可能なのでしょうか?
どうしたら信じることができるのでしょうか?
このようなことも何か考えられたら、と思っています。
11月12日(月)疑うこと
「人を信じられない」ことは「疑う」ことにつながることが多いと思います。
裏切られた経験から、人を疑いやすくなった、人づきあいに慎重になった、人との関わりに臆病ったというような人もいます。
このようなことは自分にとってけしていいことではないと思います。
疑うことでダマされないというメリットはあるのかもしれません。でも、それは頭のほんの片隅にあれば役に立つのではないでしょうか。
疑うことのデメリットのほうが大きいような気がします。まず、疑うことでイヤな気もちになります。人を疑う自分に嫌悪感をもってしまう人もいます。
疑うことで関係がよくなるということはないんじゃないでしょうか。強い疑念は自分の言動に何かしら現れ、つきあいに消極的になったり、対応がぎくしゃくしたりすることもあるでしょう。そういうものが相手にも伝わり、関係が悪くなる可能性のほうが高いと思います。
露骨な表現をしてしまえば、相手も疑われていることを感じてしまいます。疑われた相手がどういう気もちになるか、自分が疑われた場合を考えてみればわかると思います。
ふと人を疑うことを考えてしまうのはしかたがないと思います。そんな時には、「いいことある?」と自問してみるといいと思います。そして、「そんなことない」と自分の疑念をうち消すか、「(そうかもしれないけど)信じよう」と心に決めるかすればいいのだと思います。
また、「裏切られた」という言葉は使わないほうがいいと思います。
「疑う」のと「信じる」のと、どちらのほうが自分にとって幸せなのでしょうか?
大切にしたい相手・関係なら、信じたほうがいいのではないでしょうか。
「信じること」の1つの意味は、「疑わない(疑い続けない)」ということだと思います。
11月13日(火)不安をエネルギーに
現実には特に何もないのに、信じられないと不安になって、「嫌われたら(心変わりしたら)どうしよう」「浮気するかもしれない」「裏切られるんじゃないか」などと、つい考えてしまいがちです。不安が大きくなり、怖れにもなりかねません。その気もちが相手に対して干渉や束縛になってでてしまうこともあります。
ただ不安になるだけなら、しないほうがいい。
「××したらどうしよう」などと、余計なことを考えるから不安が大きくなる。
「なんになる?」 なんにもならない。
そう気づいたら、そこでそのことを考えるのをストップすればいい。
「そんなことは頭ではわかっても、不安の感情が抑えられない」という人が多いのではないでしょうか。
では、その感情のエネルギーをいいことに使ってみてはどうでしょうか。
不安を感じたら、「(信じたい相手がいる)今の幸せを感じよう」。
余計なことを考えるより、「相手の幸せを考えよう」。(人の幸せを考える)
このように考えたほうが、相手との関係もよくなるし、何よりも自分の心が幸せでいられるのではないでしょうか。
ところで、「相手を幸せにする」というのは「相手につくす」ということなのでしょうか?
その答えは置いておくとして(どうでもいいので)、「こんなにつくしたのに、見返りがない/裏切られた」などと嘆く人がいます。気もちはわからないでもありませんが、嘆いてもイヤな思いをするだけです。(悲劇のヒーロー/ヒロインを演じるのは悪い気分ではないのかも?と意地悪なことを思ってしまいました)
「人を幸せにすることは自分の幸せ」と思えるかどうかが大きいような気がします。無理をして「つくす」か、喜んで「相手を幸せにする」かです。
また、「本当に相手を幸せにしていたのか?」という疑問も残ります。それが自分の考えの足りなさ・自分勝手なのか、相手がそれを受け取る能力が足りないのかわかりませんが。
不安にかられて「相手につくす」のと、(不安がきっかけでも)自分が幸せになるために「相手を愛(幸せに)する」のとでは、ずいぶん違うのではないでしょうか。
11月14日(水)裁判
タイトルを「裁判」としましたが、本物の裁判のことではありません。
現実に疑わしいことがある場合には、相手と話をしてみるのが本手ではないかと思います。話し合いの場は裁判のようなものということです。
裁判を開くためには「証拠」が必要です。たとえば浮気の場合には、現場を押えるとか探偵(調査会社)の報告書のような決定的な証拠、誰かの証言、ホテルのレシートや香水の香りのような状況証拠。本物ではありませんから、(女の?)勘のようなものを根拠に裁判を開くことも可能かもしれません。
裁判を有利にはこぶために、証拠をつかむことも考えられます。尾行をしたり手帳や携帯のメモリーを黙って調べるというようなことも可能ですが、そういう行為自体がいいことなのかは問題ありそうです。
裁判の場では、証拠を示して相手を尋問します。
それに対して、相手が認めるか否認するか。
認めた場合、相手は謝罪して「もうしない」と約束するか、「そのくらいいいじゃないか」と開き直るか、「別れよう」と逆襲するか。
否認した場合、それですむのか、きまずい関係になるのか。
判決を出すのは自分です。
許してこれからを信じるか、相手の言い分を認めるか、別れるか。
否認を信じるか、さらに追及するか、別れるか。
裁判の結果、相手を信じることができればいいのですが、疑惑が残っていても「今回は信じよう」と思えればいいのではないでしょうか。
一旦、判決を言い渡したら、しつこくするのはやめたほうがいいでしょう。
裁判を開いた結果、関係が悪くなったり、別れたりする可能性もあります。そのことも考慮して裁判を開く決断をしないと、裁判の勝ち負けに関係なく思わぬ悪い結果になってしまうことがあります。多少疑わしくても裁判を開かないという選択もあると思います。
相手にすごくいい所があるのなら、「多少のことは目をつぶる」という考えもあります。「浮気は男(芸人/大物/もてる者)の甲斐性」などと考えてしまう女性もいます。そのほうが平穏に暮らせるのかもしれません。実際に一時の浮気ですんでしまうこともあるのでしょう。
不信行為は絶対に許せない、白黒をはっきりさせる、許せない相手とはさっさと別れて次の相手を探す、というような考えの人はそれでいいと思います。
裁判はできるだけ短く済ましたほうがいいような気がします。裁判自体が両者ともに気分のいいものではないからです。
裁判を開くかどうかも、よく考えたほうがいいと思います。
こういうことを書いておいて、なんですが、どうも私には合わない感じするのは私だけでしょうか。
やっぱり、こういうことを考えるより、相手を幸せにすることを考えるほうがいいですね。
11月15日(木)嫉妬
「嫉妬」について書こうと思ったのですが、嫉妬は誰に対してするものなのかはっきりしなかったので辞書をひいてみました。広辞苑による「嫉妬」は、
(1)自分よりもすぐれた者をねたみそねむこと。
(2)自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。また、その感情。
ということで、(1)は他者に、(2)は愛する者が対象のようです。
ここでは、(2)について書きますが、(1)の場合に私なら、「そんな自分にはなりたくない」と考えます。また、私は「みんなが幸せになれますように」と(幸せの呪文のうちの1つとして)言うようになってからは、幸せそうな人を見ても嫉妬することはなくなりました。
なぜ「嫉妬」をしてしまうのでしょうか?
相手を信じられないのか、自信がないのか、それともなければそもそも人を信じられないのか、・・・。
嫉妬と言っても、かわいい嫉妬とみにくい嫉妬がありそうです。
1つには、嫉妬のしかただと思います。嫉妬をどう表現するかです。愛する者にどのように言うか、どのような態度(詮索、干渉、束縛など)をとるかです。いずれにしても度を超えた言動は相手にイヤな思いをさせることになってしまいます。
もう1つは、愛する者の受け取り方です。相手がそれを「かわいい」と感じるかどうかです。相手に強い愛情があれば「かわいい」とか「愛されている証拠」と感じるのではないでしょうか。また、その人の心の広さにもよりそうです。
いちばんみにくいのは、愛する者の愛情が向きそうな他者をうらみ憎む場合だと思います。悪意をもって、その人(他者)を傷つけようとしたり、おとしめようとすることは最悪だと思います。そんな自分に気づいた時には、「そんな自分にはなりたくない」と考えたほうがいいと思います。
具体的な他者が存在していないのに嫉妬するのはどうかと思います。また、愛する者の視線が道行く異性に向けられる、愛する者に好きなタレントがいる、のように現実性がないことに嫉妬するのも行き過ぎではないでしょうか。そういう自分に気づいた時には、「(自分もまだまだ)未熟(子供)だなぁ」とか考えてみてはどうでしょうか。
いずれにしても、嫉妬をするのは自分が平静でいられない(幸せな気分になれない)し、過度の嫉妬をされたほうもいい気分ではありません。
嫉妬の感情が湧いてしまった時には、やはり愛する者を幸せにすることにエネルギーを向けたほうがいいのではないでしょうか。
11月16日(金)Hな男
人の価値観が「信じられない」「理解できない」「許せない」というようなことがあります。そこでこの例を出すのはどうかと思うのですが、「信じられない」という女性はけっこういるようです。というのも、私がよく読んでいる読売新聞の人生相談欄「人生案内」にけっこう出てくるのです。たとえば、「アダルトサイト好きな夫」「アダルトもの好む夫に嫌気」、「みだらな雑誌、ビデオ好む長男」、「アダルト系HPにはまる夫」。
「男はみんなHなもの」と思ってもらえればいいのですが・・・。
エッチな雑誌やビデオやHPを見ている分は問題はないと思います。誰にでも性欲はあります。それでもごく一部の人を除いては、それぞれにちゃんとコントロールしているのです。
「やめてほしい」と頼んでも、きっとやめられないでしょう。女性に「甘いものを食べるのをやめてほしい」と頼んだのと同じくらいやめられないでしょう。
「浮気をしたらどうしよう」「性犯罪にはしってしまったらどうしよう」などと考えるのは、「甘いものを食べたら糖尿病(生活習慣病)になる」と考えるのと同じようなものです。
そういう女性の気もちもわからないではありません。男は見つからないように隠れて見るというのも思いやりではないでしょうか。
女性は見て見ぬふりをしていただけたら、と思います。
(どうも、分の悪い言い訳・お願いを書いているとしか思えませんが)
価値観は人それぞれです。また、男性と女性で価値観がずいぶん違うこともけっこうあります。でもそれは一部であり、そこに目をつぶることができれば平穏に暮らせることも多いと思うのですが。
11月17日(土)怖い人
「人が怖い」と感じることがあります。路上や電車内などで「怖い人」「危ない人」が増えているような気がするのは私だけじゃないと思います。電車内でのちょっとしたことが原因で発生した殺人事件もありました。
人の迷惑をかえりみずに傍若無人の振る舞いをする人、マナーの悪い人、モラルのない人など、堂々と悪いことをする人が増えているような気がします。そういう人間をみんなでたしなめる社会になったほうがいいのかもしれませんが、自分の身の安全を考えたら関わらないようにしてしまうのもしかたないと思います。
キレやすい人も多く、そのキレ方が激しく、恐ろしい感じがします。短絡的で凶悪な犯罪も目につきます。私たちのまわりによくいる“ふつうの人”が、ちょっとしたことで凶悪な犯人になってしまう可能性があるような気がしてしまいます。
人(の理性)を信じにくい時代・社会に進んでいるのではないでしょうか。
そんな中で生きる上では、自分が気をつけることも大事です。自分の身を守るために慎重に行動したほうがいいようです。そのためにも危険を察知し、自らそういう状況を回避することはいいことです。
ただし、気にし過ぎると平穏に暮らすことができなくなってしまいます。いつもビクビクしていたら、生活を愉しむことが難しくなってしまいます。
ある程度の対策をしたら、あとは信じるしかありません。実際にはそうは起こらないものです。今までそうしてきて大丈夫だった人はこれからも大丈夫と思っていいと思います。危ない経験をした人は反省すればいいのです。
みんなが安心して暮らせる社会、信じられるやさしい人ばかりになったらいいのですが・・・。
こういうことは、政治の問題でしょうか? 教育の問題でしょうか? 宗教の問題なのでしょうか?
この件に関してどうしたらいのか、今の私にはわかりません。
せめて自分だけは、自分(の感情)をコントロールできるように、人にやさしくできるようになりたいと思います。
11月18日(日)人間不信
「人間不信」と言うと大げさな感じがしますが、「信じられる人がいない」ということはかなり不幸なことなのかもしれません。
人間不信になるには、過去にそれなりの経験があったのではないかと思います。でもそれは、「そういうこともある」「そういう人もいる」ということなのではないでしょうか。
「人を信じられない」ということは誰にでもあります。人を100%信じることはできないし、すべての人を信じることもできません。
ある程度信じられればいいんです。信じられる人が一人でもいればいいんじゃないかと思います。
簡単に「人を信じられない」とあきらめて、人づきあいを避けてばかりいるのは自分のためによくないと思います。
信じられる人、自分に合う人はすぐには見つからないかもしれません。でもあきらめなければ、きっと見つかるはずです。
もう1つは、「人はハオハオ」と思えるようになること。そうすれば、自分に合うと思える人が増えるでしょう。
そして、「自分はハオハオ」と思えるようになること。たとえ信じられる人がいなくても、自分を信じられればいいんじゃないかとも思うのです。
11月19日(月)信じる努力
「信じたほうがいい」と以前に書きました。信じたほうが安心できて幸せに暮らせるのではないか、ということです。
100%信じることは難しいのではないでしょうか。信じていると思っていても、心のどこかに疑念が残っていたり、ふとした瞬間に相手を疑ってしまったりするのはしかたがないことだと思います。
信じる努力をしてもいいと思うのです。
まずは、疑わないように心がけて生活すること。実際には、つい疑うことを考えてしまっても、早めにそれに気づいて「信じよう」と疑う考えをストップすることです。
そして、信じられるような努力をすること。つまりは相手を幸せにすることを考え・実践することです。
心の中の「疑い」に従うのではなく、心の中の「愛」に従って行動することです。
愛し方については、こちらが参考になるのではないかと思います。
信じられるかどうかより、信じようとできるかどうかのほうが大事なのではないでしょうか。信じられない自分より、信じようとする自分のほうが尊いと思うのですが。
11月20日(火)信じるか信じないか
信じられない人にとっては、信じることはすごく難しいことだと思います。
信じられる人にとっては、信じることは何もしなくてもできるすごく簡単なことだと思います。
多くの人は、信じるとか信じないとか考えていないのだと思います。
信じることにこだわらないほうがいいと思います。「信じられない」と考えすぎないことです。多少気になることがあっても「そのままでもいい」と思ってしまったほうがラクです。
信じられるか信じられないかは自分の気もちの問題ですが、
信じるか信じないか(信じようとするかしないか)は自分の意思の問題だと思います。
疑った結果、悪いことが何もなかったら、イヤな思いをした分だけ丸損です。
疑った結果、裏切られた場合には、それで納得できるのでしょうか? もしかしたら、自分が疑い続けたことが裏切られた原因かもしれません。
信じた結果、何もなかったら、何も問題はありません。疑わなかった分平穏に(幸せに)暮らせたと喜んでもよさそうです。
信じた結果、裏切られたら、それはそれでしかたがないのではないでしょうか。裏切られても、自分は信じて裏切らなかったらいい、自分が裏切るよりもいいと私は思います。
『幸せになる方法』では、5つのうちの1つに「明日の幸せを信じて生きる」ことを入れています。
『くよくよしない考え方』には次のように書きました。
自分の生き方に満足していない人は、生きることにくよくよしやすいと思います。
「自分の生き方はこれでいい」と思うことが大事だと思うのです。
今の自分の生き方は「それなりにいい」はずだと思うのです。現実に則して時間をかけて自分なりの生き方をしてきているのではないでしょうか。
「自分の生き方はこれでいい」というのは、自分の思い込みでいいと思うのです。同じように見えても生き方は人それぞれで違うのです。自分に合った生き方がいいのです。
自分の生き方を「これでいい」と言い切るのは難しいかもしれませんが、「(今は)これでいい。この中でできるだけ愉しもう」と考えてみてはいかがでしょうか。同じ生き方をするにしても、「自分の生き方はこれでいい」と思ったほうが、イキイキと生きられると思うのですが。
信じるか信じないかは自由です。
大切にしたい相手なら、信じたほうがいいのではないでしょうか。
信じたいかどうか、という自分の心に従ってみるのもよさそうです。