考え事

97/ 2/10 わからない
97/ 2/17 人の心はわからない
97/ 2/24 どうしたら・・・?
97/ 3/ 3 「感謝する」新たな気づき
97/ 3/10 「受け入れる」
97/ 3/17 繰り返し想う
97/ 3/24 同情・共感・同感
97/ 4/ 3 いいように考える
97/ 4/12 文体
97/ 4/17 忘れられない
97/ 4/28 幸せを意識すること
97/ 5/14 なぜ幸せを求めて生活しないのか
97/ 5/22 幸せを求めると、得られないと不幸になる?
97/ 5/30 幸せを求めれば、必ず幸せは得られるか?
97/ 6/ 6 「やりたいことをやればいい」と言うけれど
97/ 6/14 「本当の幸せ」?
97/ 6/22 基本的に幸せ
97/10/31 「完全な幸せ」?
97/11/ 5 このホームページを読む時の幸せになる考え方
97/11/15 「幸せになる」って?
97/11/21 幸せの評価
97/11/29 言葉との出会い
97/12/ 5 人を幸せにすることはできるか?
97/12/13 幸せは星の数ほどある
97/12/28 幸せの中にポツンポツンと不幸があるのと、
         不幸の中にポツンポツンと幸せがあるのと、どっちがいい?
98/ 1/17 幸せな結末
98/ 2/ 7 もうひとりの自分
98/ 2/20 「ハオハオ」の秘密
98/ 3/11 強い人

幸せのホームページ

















考え事 「わからない」

 私は難しいご質問をいただいたときに「わからない」と答えることがあります。正直に答えているつもりです。

 「わからない」という言葉から、私は「論語」の一節を思い出す。「これを知るをこれを知ると為し、これを知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」よく知りもしないことを知っている振りをするな、というようなことです。いわゆる「しったか(ぶり)」の諌め。別に君子ぶるつもりはない。私は聖人にも君子にもなりたくない。本人が楽しそうな気がしないから。

 先日、「人を幸せにすると自分が幸せになれるのはなぜか?」というご質問をいただいた。わたしは、「わかりません。わからないといけないですか?ただ人を幸せにすることをして幸せを感じるだけでは」と答えた。冷たい答えかもしれない。私はそれを考える人がいていいと思う。でもそれをわからずに使ってもいいとも思う。自動車の動く理由をすべて知らなくても、自動車を運転して役に立つように。もちろん、自動車の動くしくみを考え工夫する人たちの存在は必要だし、尊敬に値する。

 私は「幸せ」について考えるが、一生かかっても少ししかわからないと思う。今わかっていないという認識があるから、さらに考えようと思う。自分は「わかった」と思ってしまうとそこで思考は停止してしまう。人の考えにも耳をかさなくなるかもしれない。「わかった」ということにはそういう危険性がある。
 「わからない」という判断にも危険性はある。その一言であきらめてしまうことだ。「どうせ私は頭が悪いから」などと同様に、それを言い訳にして自らの前進を止めてしまう可能性がある。
 「わからない」からわかろうとする。そういう姿勢を大事にしたい。

 最後に私の本音を少し。私が「わからない」という場合に、上記の他にいくつかの理由が自分でわかっている場合がある。「今はわからない」「今はその問題は考えたくない」「その問題は私には何とも言えない」「議論はしたくない」「ほかにやりたいことがある」など。
 例えば「いじめ」の問題などは難しい。私はいじめられた経験がない、いじめたという認識もない、私には子どもがいない、教育に携わっていない、実際に自分のまわりにそういう現実がない。だからといって無関心な訳ではない。その種の本やテレビ番組を見て考えることはある。たぶん私には私なりの取り組み方があるのではないかとは考える。しかし、今は多くを語ることはできない。質問を受けても「わからない」と答えることが多いと思う。

 「わからない」と答えることに若干の心残りがある。



人の心はわからない

 私は人の意図や考えや気持ちについてはわからないと思う。河合隼雄さんも「やればやるほどわからなくなる」と言っていた。だから、国語の試験問題で「この登場人物は何を考えていたか?」や「作者の意図は?」に正解があるのが不思議だった。

 私は自分のやっていることだって理由なくやっていることが多い。すくなくとも理由を考えながら行動していない場合が多い。後から理由を考えれば推測できないこともないが、それが真実だという自信はない。だから自分の心もわからない。ましてや人の心がわかるわけはない。

 そのわりには、人を幸せにするために「人の身になって考える」とか「思いやり」とか書く。人の心はわからないから考えたってしょうがないとは思わない。逆にわからないからやってみようと思う。人をよろこばすことができる可能性はある。ただしそのためには、誠実に相手の幸せを考えた上でのことです。少しくらいの失敗はあとで十分にとり返すことはできます。ほんとうに相手のことを考えたのなら、きっとその気持ちが相手に伝わるのではないかと思います。

 人間はみんな人の目を気にして生活している。人の目を気にし過ぎて苦しむ人も多い。人の目は自分が頭の中で創り出したものでしかない。ましてや人の心はわからない。そんなもののために自分が苦しむのは損だ。

 人の心は不思議なものだ。ちょっとしたことで幸せになったり、不幸になったりする。人の心はわからない。だから私は人の心を考える。どうしたら幸せになれるだろうかと。



どうしたら・・・?

 5W1H法という発想法がある。
 物を考えるときに、いつ(When)どこで(Where)誰が(Who)何を(What)なぜ(Why)どのように(How)をヒントとして使う方法だ。

 私はこの6つの中でHowに一番こだわっている。
 何かをしたいときに、「どうしたら・・・できるか?」を一生懸命に考える。
「なぜできないか?」と考える方法もある。できない理由を見つけ、その原因を克服することでできるようにする方法だ。しかしその場合にも、原因を克服するときに「どうしたら克服できるだろうか?」と考える。「なぜ?」で理由がわかっても、「どうしたら?」につなげないと成果は期待できない。

「なぜ自分は不幸なんだろう?」「なぜ自分は幸せになれないんだろう?」と考える人は多い。そして、その理由を見つけ出す。大事なのはそれからです。そこで、嘆いたり、自己嫌悪に陥ったり、へたに納得するくらいなら、「なぜ?」などと何も考えない人の方が幸せだろう。「ではどうしたら幸せになれるだろうか?」と考えを続けたほうがいいのです。
 しかし、自分が見つけた理由が、自分ではどうにもならないことや、簡単には変えられない場合には困ってしまいます。ところが見つかるのはそういう理由ばかりなのです。自分が見つけた理由に一度つかまってしまうと、それから逃げられなくなります。しかもそれは自分が不幸な理由です。
 もし最初から、「どうしたら自分は幸せになれるのだろうか?」と考えていたとしたらどうでしょうか。もっと自由に考えられるのではないでしょうか。1つの方法が自分に合わなくても、また「どうしたら?」と次の方法を探せばいいのです。

 「わからない」のときに書いた「自動車の動く理由がわからなくても、自動車を運転して楽しめる」と同じです。「なぜ?」の答えはわからなくても「どうしたら?」がわかっていれば実行できるのです。だから私は「幸せになる方法」(How to make us happy)で、How(またはHow to)を追求しています。私は、「哲学」も「心理学」も「精神医学」も「脳科学」も「宗教」もちゃんと勉強したこともなく、「幸せになる方法」を考えます。そして、自ら実践しようと心がけています。



「感謝する」

 私は幸せを感じる方法の1つとして「感謝する」ことを挙げている。感謝することで今の幸せを感じることができる。感謝することは自らできることであり、習慣化するものだ。

 最近「感謝する」ことのもう1つの効果を実感することができた。それは実践講座第9講人を幸せにするで、「まずその人に感謝することから始め、その感謝の気持ちを相手の幸せに向ける」ということを書いたことから始まったようだ。この方法自身は「幸せになる方法」の本にも書いていることだから、新たな発見ではない。そのことが頭にあって、自分のことを考えた時に「そうなんだ」と気づいた。

 私には、仕事の上で大変にお世話になり、深く感謝している人が1人いる。私はその人に恩返しをしたいと長年考えている。今は私にはその力がなく、相手が困った状況でもない。だから、私は自分の力をつけ、できれば仕事の上でいつかは役立ちたいと願っている。もし、相手が困った状況にいると知れば、私のできる限り力になりたいと考えている。
 両親についても同じように考えている。私は自由気ままに生きさせてもらっている。けっして親孝行をしているとは言えない。しかし、もし親が困った時には全力で助けたいと思っている。ここ10年くらいは、そうしてきたつもりだ。逆に私が困ったときには助けてもらっている。93年に2ヶ月間入院した時には、親兄弟には本当に世話になった。感謝している。

 こういうことが考えられるようになったのは、相手に対する感謝を繰り返したためだ。感謝の内容は過去に(1回でも)してもらったことでいい。そのことを繰り返し感謝する。相手の存在そのものを感謝するのもいい。その人がこの世にいてくれてよかったと繰り返し想えばいい。繰り返すことが感謝の念をより確実に心に留める方法だ。そうすれば相手に対する見方も変わるし、相手の幸せも考えられるようになる。
 きっとこれを読んでいるあなたには、ここで私が言っていることが、よくわからないかもしれない。それでもいい。幸せにしたい人、人間関係をよくしたい人に感謝することが自分の幸せになる方法だということだけを覚えていてほしい。そうするといつかここで書いたことが、あなたにも実感できる日がくるのではないかと思います。

 感謝することは、今の幸せを感じる方法としてだけでなく、次の幸せになる方法を実践するための源動力になる。自分が生きていることに心から感謝できれば、「より充実した生活をしよう」「幸せに暮らそう」と思うことができる。



「受け入れる」

 前回の「感謝する」は宗教的で、今回の「受け入れる」は心理学的で、どちらも一般化していない言葉かもしれません。

 現実にあることを「ない」と言いはるのがおかしいことは、誰にでもわかると思います。ところが不幸な出来事に遭遇した時に、そういう事(人)がある(いる)のは「間違っている」「信じられない」「許せない」というような考えをしてしまいます。このような考えは個人の判断や意見として別に悪いことではありません。誰でもがしていることです。ただし、そういう考え方によって、あまりに感情が高まってしまうと、「あってはいけない」「いてはいけない」のように、あるものを「ない」と言いはるのと同様になってしまうのです。そうするとその先が前向きに考えられなくなってしまいます。そこで役に立つのが「受け入れる」ということです。

 簡単に言えば、「受け入れる」ことは、現実にあることを「ある」と認めることです。ここで勘違いしないでほしいのが、事実や存在を認めるだけで、その価値や正当性を認めることではないということです。単に「そういうことは世の中にあることだ」や「こういう人も世の中にはいる」というように考えられればいいだけです。受け入れることで少しは気分がラクになります。そしてその先が考えられるようになります。
 もう1つ注意したいことは、「受け入れる」と「あきらめる」は違うということです。この違いは現実を認めた後の考え方によります。現実を認めて「私にはどうしようもない」と考えてしまえば「あきらめ」になります。そこから前向きに考える方向性を持てることが「受け入れる」ことです。例えば、「今はダメだけど、いつかは大丈夫になる」「今はわからないけど、きっといい方法はある」「これは失ったが、まだ他のことがある」のような考え方です。

 現実を受け入れることの後に大事なことが、「明日の幸せを信じる」ことと「幸せになる考え方をする」ことです。これが「幸せになる方法」の5番めの「不幸を幸せに変える」方法です。

 私は「現実を受け入れる」のに、よく「ハオハオ」という言葉を使います。



「繰り返し想う」

 同じことを繰り返し想うことについてです。
 同じことを繰り返すことは、ものを覚えるために一番有効な方法です。

 同じことを繰り返し想うことで確信が高まります。
 夢の実現のイメージ、うまくいくイメージ、いい自己イメージをすることは、そのイメージに自己を近づけるのに役立ちます。
 同じことを繰り返し感謝することは、口先だけではない心からの感謝の念を育てます。それが自分の自然な行動に結びつきます。
 同じことを信じていると繰り返し言えば、信じる度合いは強くなります。「明日の幸せを信じます」と毎日心から言えば、本当に明日の幸せを信じられるようになれます。明日の幸せを信じられるようになると、幸せになる考え方ができるようになり、自分の幸せ(のヒントやチャンスを含む)を見つけやすいなります。

 悪い出来事、イヤな出来事を繰り返し想い出すと、その出来事は心の中でどんどん大きな不幸になってしまいます。
 人の嫌いな部分、イヤなことをされたのを繰り返し思い返すと、その人は心の中でどんどん悪人になってしまいます。
 イヤなことをふと想い出してしまうのはしかたがありません。自然のことです。想い出してまたイヤな気分になっている自分に早く気づきましょう。気づいたときには、「気分よくないから、やーめた」と言いましょう。
 できることなら、逆に幸せ探しをしてしまいましょう。
  「イヤなことの反面のいいことを探してみましょう」
  「イヤなこと以外の自分の持っている幸せを探してみましょう」
 1つ見つかればチャラ。2つ見つかれば幸せの勝ち。
 それから続けて、自分が幸せになれることをしましょう。好きな歌を口ずさむでも何でもいいのです。夢を持っている人ならその実現を考えましょう。幸せにしたい人がいればその人を幸せにすることを考えましょう。イヤなことをきっかけに、いいことを始めてしまいましょう。全部できたら、一石三鳥。

 同じ幸せを何度でも同じ様に幸せに感じられるのも、幸せになる能力だと思う。それが「自分は幸せだ」「自分の人生は幸せだった」と確信を持って言えるようになる方法かもしれない。



同情・共感・同感

 私には「同情」と「共感」の違いがよくわからなかった。カウンセリングに関する本を読むと、よく「共感しなさい」と書いてある。「同情でなく共感」のような表現もあったような気がする。辞書を引いたりしながら考えてみた。

「同情されるのはイヤだけど、共感してもらえるとうれしい」と言う人がいてもよさそうだ。どうも同情には、"あわれみ"の意味があるらしい。でも同情には"思いやり"の意味もある。だから、「同情している方は思いやっているつもりだが、同情された方はあわれみを受けたと考える」ことが生じるようだ。
 カウンセラーは「共感」がいいのだろうが、友達は「共感」では冷たいような気がする。思いやりの同情と、それをありがたいと思える素直な心。こういう関係が友達には望ましい。いや、人間として理想のような気がする。とすれば、「同情された」と受け取る方がひねくれているのだろうか。実際には哀れみやカッコだけで同情している人もいるかもしれない。でも人の心はわからない。いいように取った方が自分の(幸せの)ためにいいと思う。

「同感」は「共感」の同義語として書いた辞書があった。同感には"考え"が同じという意味が入ってくる。
 私のところに来るメールで、「ここは同感です」や「同じ考え方です」のようなご意見がよくある。私もそのようなメールを出すことがある。ところが、かつて私は自分と同じ考えに出会ったときに、「こんなのわかっている」「目新しい考えではない」「得るものはない」などと考えた頃があった。今は、「私と同じ考えの人がいてうれしい」「やっぱりこういう考え方をする人はいる」「私の考えはいい線いっている」などと考えるようになっている。同感することで、よろこび、確信を高めている。以前より幸せな考え方だと思う。



いいように考える

「ものは考えよう」などとも言われます。どんなことでも考え方しだいでは受け取り方が違います。それによって、イヤな感じがするか、何も感じないか、幸せを感じるかが変わります。
 自分がいいように考えられたら、と思います。

 事が起きた時にいいように考える。例えば簡単な話、雨が降ったら、「イヤだ」と思うのと「雨は雨でいいか」と考えるのでは、その日の気分が違ってしまいます。朝の気分がその日の幸せに影響することはおおいに考えられます。また深刻な話では、入院、浪人、左遷、失業などの一時の挫折も、そこで落ち込んでしまえばその先は暗いものになってしまいます。「これも自分に与えられた試練だ」や「今は力を蓄える時だ」や「時間がなければできないこと、今だからできることをやってみよう」などと考えられれば、永い人生の中では、返って大きな財産になるかもしれません。

 人のこともいいように考えた方がいいと思います。人が自分にイヤな感じをさせた場合に、「意地悪している」、「私を嫌っている」などと思うことがありますが、それはあくまでも推測です。また、人は何もしていないのに「人に嫌われるのではないか」「人に変だと思われたらイヤだ」などと、人の目を恐れるのも同様です。悪いように悪いように考えています。
 多くの場合、人は自分のことなどほとんど関心を持っていません。だから、気になることをする人も、単に不注意だったり、鈍感な人の場合が多い。中には性格としてまたは習慣的に意地悪な人もいますが、そういう人に対しても「この人には何か事情があるに違いない」「過去の経験がこういう人にしてしまったのではないか」などと考えることができれば、自分の気分はずっと落ち着くと思います。少なくとも「世の中にはこういう人もいる」と存在を受け入れるだけでもいいと思います。これらを「人のためにいいように考える」のではなくて、「自分のためにいいように考える」ことにしよう。何が正しいか間違っているか、どちらが良いか悪いかよりも、自分の幸せためにはどう考えるのがいいか、と考えてみよう。

 自分のことを悪く考えるのがいちばんよくないと思います。自分の失敗や欠点を責めてもつらいだけです。また、「どうせ自分は××だから」や「自分には○○はできっこない」などと、自分のことをあきらめるのもよくありません。自分は自分の考えた通りの人になるようです。「今は××だけどいつかは○○」や「ここは××だけと、他に○○のところがある」などと、いいように考えたほうがいいと思います。自分をなぐさめ、励ます自分でありたいと思います。

 3月31日読売新聞夕刊の(マラソンで活躍された)増田明美さんのコラムに、こんなことが書いてありました。
 折り返しを過ぎて、第3集団から遅れはじめた私に、沿道から「増田、お前の時代は終わったんだ」という声が飛び込んできたのだ。
 あまりのショックに足が止まり、しばらく歩いた。「何のための、この4年間だったのか?」。自問し、かっとうし、その時は泣きながらゴールインした。ひどい人がいる、と恨みもした。
 だが、数年たって、あの言葉は私を試してくれたのだと受け止めることができるようになった。
 そして最近の話として、あるシンポジウムにパネリストとして参加した時に、質疑応答コーナーで「あなたは、話している時に、足を開いているのがみっともない」と言われ、泣きたい気持ちをぐっと抑えたそうだ。本当にひどい人がいるものだ。
 しかし、コラムの最後には、
 今回のことも、私に足りない何かを与えてくれたのだろう。今は「このやろう〜」の気分だが、いつかきっとあの男性に感謝できる日が来ると思う。
 と締めくくった。私はきっと、コラムに書けたことでその日が来たのではないか、と思います。

 いいように考えよう、自分の幸せのために。



文体

 私の書いている文体について何かお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。これでも私なりに考えているんです。いろいろな文体を使っているのは事実です。自分では使い分けているつもりなのですが、不統一と言われれば返す言葉がありません。

 私は基本的には「です」「ます」調が多い。そのためか、いまいち押しが弱い。良く言えば優しい感じがする。

 私の文章の中には、「〜と思う」「〜だろう」「〜かもしれない」などが多い。本来なら自分の意見として断定すべきなのだろう。(またやった)自信がない、批判を恐れていると思われてもしかたがない。私はどちらかというと「人の考え」より「自分の考え」を恐れている。「わからない」ことはわからない。私には「わからない」ことがたくさんある。それをわかったつもりになることには危険性がある。
 しかし、説得力という点では減点だ。(ここは言い切った)

 そうかと思うと、私の文章の中には「〜しよう」という前向きな呼びかけがたくさん出てくる。だから、「元気になれる」や「励まされる」というご感想をいただくことがある。
 私が「〜しよう」という文体を使うのには、もう1つ意味がある。それは読者が自分の言葉としてそのまま「〜しよう」と使ってほしいと願っている。「〜しよう」は人に呼びかける時だけでなく、自分で「〜しよう」というかけ声になる。人から「〜しよう」と言われても、素直に耳に入るかどうかわからない。でも、自分で「〜しよう」と言った時には、自分を動かすことができる。(この段落は自信があるのか、言い切っている)

 私は文体以外にも、漢字の使い方、口調なども場所によって変えている。自分としては、その文章全体の雰囲気も少しは考えているつもりだ。そのために、つまらない冗談や軽薄なことも書く。まじめ過ぎるかなと思うと、「なんちゃって」みたいなこともする。いろいろな意味で不統一な文章と言える。
 ホームページとしてはこれでいいと思っている。
 1冊の本としては、もっと考えなくてはならないだろう。「幸せになる方法」は4・5年前に書いたのだが、反省点は多々ある。ただし、基本的な考え方は間違っていなかったと、このホームページをやりながら確認できたのは大きい。実は、「幸せになる方法」は読者をある程度想定して書いた。年齢、性別、性格など。それなりの反響は感じた。このホームページでもそれは生き続けている。

 いろいろ考えているように書いたが、実際はその場その場の雰囲気で書いています。ただし、たまには考え直すようにしているので、無意識には考えていると思います。多重人格的、変人な私ですが、いいところだけを見て、いいように考えてもらえるといいな、と思います。あなたのために。
 でも苦情、反論は大歓迎です。よろしくお願いします。

 また、文体が不統一な文章を書いてしまった??(これが「なんちゃって」)




忘れられない

 ここでいう「忘れられない」とは、ふと想い出してしまって、イヤな気持ちになるようなことです。

 ふつうこの手の問題の対策は、忘れられない対象に代わる新しい対象を見つけることです。別れた元恋人が忘れられない人は、新しい恋人を見つける。1つの夢に挫折した人は、はやく新しい夢を見つける。過去の不幸な出来事には、新たな幸せを見いだす。このような対策です。

 しかし、代わるものができてもなお想い出してしまったり、さらに新しいものと比較してしまう人もいます。新しい対象を探すことでは、うまくいかない場合があります。また、新しい対象を探すのに時間がかかることがあります。それまでずっと忘れられないでイヤな気分を繰り返すのはつらいことです。

 一番いい方法は、過去の不幸を幸せに変えることです。失ったことやイヤな経験を、人生の中でのいい経験と思えるようになれれば、想い出してもイヤな気分にならずに済むようになれます。しかし、不幸を幸せに変えることができない人や、時間がかかってしまう場合には、やはり困ります。

 そこで、私が最近使っている方法は「ストップ」という言葉です。自分がイヤな気分になるようなことを考えているのに気づいたら、即座に自分で「ストップ」と言う方法です。これは以前に本の中で見つけた方法です(たぶんアメリカの人が書いた本だと思いますが、覚えていません)。でもその時には役に立つ方法だとは思いませんでした。「ストップ」と言っても、次の瞬間に想い出してしまうのです。そこで工夫したのは「ストップ」と繰り返して言う方法です。いつまで繰り返すかと言うと、愉しい考えが浮かんでくるか、バカバカしくなるまでです。「ストップ、ストップ、・・・」と繰り返すのは実際にバカバカしいのです。でも、イヤな気分になるよりはましです。自分で過去の詳細を想い出したり、悪い想像をすることによって、イヤな気分は倍増します。忘れられない、自分は弱いなどと自分を責めたり、落ち込んだりするのも禁物です。「ストップ」と繰り返し言うことで、そういう否定的な考えをしなくて済みます。イヤな気分を最小で止めることができます。
 「ストップ」の回数は次の時には減ります。3回くらいで済むようになったら、もう大丈夫です。そして1回のときには、私は「やーめた」と言うことにしています。最近はそれで済んでしまうことが多いようです。
 できれば、それをきっかけに、楽しいことを始めてみましょう。ヒントは、今を楽しむこと、自分の夢のこと、幸せにしたい人のことです。想い浮かばなければ、好きな歌を口ずさむでもいいと思います。

 イヤなことを思い出したら、「忘れられない」、「私は弱い」などと、あきらめないで試してみてください。自分なりの方法も工夫してみてください。その前向きな気持ちがあれば、きっとイヤな気持ちで過ごす時間を一瞬にできるようになります。それができるようになった対象は、自然に想い出さなくなります。



「やりたいことをやればいい」と言うけれど

 自分のやりたいことがわかっていて、実際にやっていると思う人は、ここは読まなくていいです。気楽に読み流してもかまいせん。

 私は「やりたいことをやればいい」とよく書く。多くの本にもそう書いてある。
それに対して、
「やりたいことばかりやっては生活していけない」
「やりたいと思ったって、自分にはできないことがある」と言う人がいる。
 どちらも正しい。でも、「やりたいことをやればいい」に対しては言い訳でしかない。

   自分にできるやりたいことをとりあえず1つやればいい。

 自分にできないやりたいことは、本当のやりたいことではない。それは、やらない言い訳にしかならない。
 自分にできそうだと思えるやりたいことが見つかるまで探せばいい。
 「やりたいことがわからない」と言う人は、やりたいことを一生懸命に探していないと思う。そういう人は、「やりたいこと探し」にどのくらいの時間と手間をかけたか、考えてみればいい。自分が遊んだりヒマにしている時間の10分の1でも、「やりたいこと探し」を本気でしているだろうか。仕事や勉強が忙しくてそんなヒマはないと言う人は、考えてほしい。自分の幸せのためには、仕事や勉強と「やりたいこと探し」のどちらが大事か。少なくとも仕事や勉強をする時間の100分の1くらい使ってもいいのではないか。

 自分にできるやりたいことがない人は、「やりたいこと探し」をしてみよう。一生懸命に探し続ければきっと見つかるはずです。
 自分にできるやりたいことがある人は、それをやろう。それが自分の幸せになる方法の大きな1つだと思う。


考え事

このホームページを読む時の幸せになる考え方

 このホームページに書いてある内容について、いろいろな感想や思いを持たれる人がいると思います。私にメールで伝えてくださる方々もいらっしゃいます。それらの中から、幸せになる考え方を考えてみました。

(1)自分と意見が違うところがある
 当然のことです。私もどんな本を読んでも、自分の考えとは合わない部分が必ずあります。
 通常はその部分を無視すればいいと思います。
 もし、意見が違うところに関して、「では自分ならどう考えるか?」と自問し、自分の考えが確認できたり、新たな視点をつけ加えられたり、自分に合ういい答えが思いついたら、それで十分役に立ったと思ってはどうでしょうか。

(2)頭ではわかるが、自分(感情・現実)としては受け入れられない
 「書いてあることはそのとおりかもしれないが、現実に自分には・・・」こういうこともよくあります。
 「では自分に合う考え方は?」「では自分が現実にできる方法は?」「この考え方のいい部分を活かすには?」などと、そのことをヒントに、さらに自分で考えをすすめてみてはいかがでしょうか。

(3)わかっていても実践できない
 書いている私にもうまくできないことがたくさんあります。
 「できたらいいな」と思い、「どうしたらうまくできるだろうか?」と考え、実際にできた時には「ハオハオ」と喜んでいます。
 いろいろとやってみようと思って、そのうちの10分の1でもできればいいと思っています。いっぱい考えれば考えるほど、できることの数は増えると思います。
 同様に、「わかっちゃいるけど、やめられない」ということもあります。「やめられたらいいな」と思い、やめられるような工夫を続けることが大切だと思います。


考え事

言葉との出会い

 時として言葉は大きな力を持ちます。人が発した言葉しだいで、簡単に喜んだり、怒ったり、悲しんだりしてしまいます。
 頭の中にイメージされる言葉は、人の感情を大きく左右します。幸せになるには、自分の言葉を幸せなものに変えることが重要だと思います。まずは、自分の頭の中の言葉、つまり考えることから。

 言葉との出会いというものがあると思います。出会いにはタイミングがあります。出会った時の自分の状況によって、同じ言葉でも心への響き方が違ってしまいます。その時の、自分の気分・言う相手に対する気持ち・興味・抱えている問題・過去の経験などによって、受け取り方が変わります。

 よく言われるのが、「頑張れ」という言葉。言われても受け入れられないことがあります。時には腹がたったり、イヤな気分になってしまいます。でも、ひと言の「頑張れ」に励まされ、元気づけられることもあります。
 私は、受け入れられない時には無理に受け入れようとすることはないと思います。今はいい出会いの時じゃない、今の自分には合わない、と考えていいと思います。ただし、言った人のことを悪く考えないほうがいい。相手には決して悪意はない。逆に自分にそう言ってくれる気持ちはある。そのように、自分にいいように考えられたほうが幸せだと思います。

 私は、好きな本・自分にとっていい本は繰り返し読みます。「幸せになる方法」は少なくとも100回(例外?)、「竜馬がゆく」は約20回、「道は開ける」「ラッセルの幸福論」「楽天主義セラピー」「説得力」「にんげんだもの」「ブッタとシッタカブッタ」「三国志」「蒼い時」などは5回以上、3回くらい読み返した本はたくさんあります。
 自分にとっていい本は、何度読んでもいいと思います。忘れていた大事なことを思い出させてくれます。また、その時の自分によって、感じ方が違ったり、興味のある部分が変わったりします。前に読んだ時には何も感じなかったのに、大きな気づきが生まれることもあります。

 このホームページも今では大きくなり、いろいろなことが書いてあります。読んだ時に受け入れられない言葉もあると思います。それはそれでいいと思います。無視してその時の自分に合う言葉を探してみてください。1つでも見つかったら喜んでください。

 一番影響があるのは自分の発する言葉です。人から言われても受け入れられない言葉でも、自分の心の中から出た言葉には力があります。自分の心の中から「頑張ろう」と言えたら元気になれます。
 もし、いい言葉・自分に合う言葉・幸せになれる言葉に出会えたら、自分の言葉にできるようにしてみませんか? とりあえずは忘れないように紙に書いてみてはどうでしょうか。そのうちのいくつかが生活の中で心の中から出てくるようになれば、自分の力になります。

 幸せな言葉とのいい出会いがたくさんできたらいいな、と思います。


考え事 「もうひとりの自分」

 私は、「自分を好きになる」「自分を大切にする」「自分を育てる」「自分を幸せにする」などとよく書きます。「自分に○○してあげる」とも書いています。
 「自分が自分を(に)〜する」というのは、少しへんな感じがする人もいるかと思います。

 私は、"もうひとりの自分"という考え方をします。誰にも多重人格的な要素があります。その人のいろいろな側面と考えてもいいでしょう。
 私は「幸せになる方法」の中で、『自分を幸せにする自分』を"もうひとりの自分"とし、「もうひとりの自分を目覚めさせ、育てる」ということを書きました。

 人は時に、傷ついたり、感情的になりすぎたり、落ち込んだりします。それを、弱い自分、自制できない自分、不幸になりやすい自分のように、自分の中の一部と考えることができます。
 自分の中に幸せになろうとする"もうひとりの自分"がいれば、困っている自分を助けたり、沈んだり・退屈している自分を幸せに導くことができます。いつでも自分を助けられるのは、自分だけです。

 困っている人や弱者を助け、人を幸せにすることはいいことです。それを自分に対してすればいいのです。世の中で一番大事なのは自分なのですから。
 「自分を幸せにしよう!」という意識が生まれるだけでも大きな違いです。自分の不幸を嘆いたり・あきらめてしまっている自分を助けるにはどうしたらいいか、という新たな視点ができることが大きいのです。

 自分には、弱い自分もある、でも幸せになろうとする"もうひとりの自分"が常にいる。もうひとりの自分が成長すれば、どんな時でも弱い自分を助けることができます。
 もうひとりの自分を育てるということは、自分の幸せになる能力を向上させるということです。
 あなたも、もう少し自分を幸せにしてあげませんか?


考え事 「ハオハオ」の秘密

 タイトルに"秘密"と書きましたが、適当な言葉が思いつかなかっただけで、秘密などではありません。
 「ハオハオ」がどうして効くのか、ということを考えてみました。

 「ハオハオ」の一番いいところは、シンプルということ。これ以上簡単な幸せになる方法はないんじゃないか、と思うくらい。
 そして、オールマイティなところ。いつでもどこでも使えると思います。

 もちろん、機能もすぐれています。現実は現実、と受け入れること。
 かつ、その中のいい面(幸せなところ)を見ようとできること。
 うれしい時、ほめる時、幸せな時の「好!好!」は、本来の中国語に近い。

 ハ行は、笑いに通じます。笑うフリでも免疫力がアップし健康にいいらしいです。「笑う門には福来たる」ということわざもあります。
 「ハ」の発声は、腹式呼吸の基本形。
 私は、短く強い「ハッ」の発声は元気を、長く弱い「ハー」の発声は落ち着きを、心に生むのではないか、と考えています。

 つい最近、「ハオハオ」のアクセントは?、とメールで質問を受けました。
 基本的には、使う人の自由です。その時の使い方によって変わっていい、と思います。「うんうん」「まぁ、いいか」「しょうがない」「そうですか」「そういうこともある」「こういう人もいる」「いいですね」「うれしい」「幸せ」など、その時の気分を「ハオハオ」の言い方で表現してみてください。

 「ハオハオ」と、「ハオ」を2回繰り返すところがミソ。
 私の場合には、「そういうこともある」という感じでゆっくりめに「ハオ、ハオ」と言うと、少し落ち着いた感じがします。「うれしい!」という感じで強く短めに切って「ハオ!ハオ!」と言うと、うれしい感じがしてきます。
 「ハオハオ」の語感がなんとなくいい心のイメージを形成するような感じがします。なんでも「ハオハオ」で、口グセにしてしまえばいいのです。

 単なるこじつけ・私の思い込みによるあやしい内容でしたか?(だから、"秘密"にしたかったのかな?) でも、こんなふうに信じられると、「ハオハオ」の効果は高まると思います。

 「ハオハオ」のちゃんとした話は、おすすめの幸せになる方法を読んでください。


考え事 強い人

 "強い人"って、どんな人か考えてみました。

(1)しっかりした人、堅固である人
 負荷に耐えられる人。簡単に弱らない、丈夫。
 物事に動じない人。とりみださない、肝がすわっている。
 自立している人。人に依存しない、人に流されない、人の目を気にしすぎない、人と自分を比較して不幸にならない、自分の考えで生きている。

(2)しなやかな人、柔軟性がある人
 受け流すことができる人。完全主義に陥らない、ポッキリと折れない。
 立ち直れる人。絶望しない、希望を失わない。
 やわらかい発想ができる人。なんとかできる、現実を切りひらける。

(3)ゆとりがある人、余裕がある人
 懐がひろい人。一時が万事ではない、一段高い観点がある。
 自分で責任がとれる人。悪い結果を受け入れられる。
 楽しめる人。幸せを感じられる心。

(4)やさしい人、思いやりのある人
 人の心の大切さがわかる人。人の気もちを思いやれる。
 人(自分も含めて)を許せる人。存在を尊重できる、過失を受け入れられる。
 人(と自分)の幸せを考えられる人。

(5)きびしい人、向上心のある人
 目標をもって努力できる人。苦労を覚悟で幸せの追求ができる。
 困難からも何かを学べる人。逃げてばかりいない、不幸を幸せに変えられる。
 自分を育てることを心がけている人。

 正直言って、みんなそんなに強くありません。自分の弱さを人には見せないようにしているのです。強そうに見える人が、突然倒れてしまうことがあります。
 しっかりと、しなやかに、ゆとりを持って、やさしく、時にきびしくできる強い人になれたら、と思います。強くなれば、より幸せになれるのです。そのためには、自分を育てることを心がけて生活するのがいいと思います。