考え事 幸せの評価


 自分が幸せになるためには、自分の幸せがたくさんあり、それらから十分に幸福感を得られることが重要です。幸せに対する考え方や評価が大きく影響します。そのために、幸せの数を制限してしまったり、幸せの価値をディスカウントしてしまいます。

 幸せってすごいもの・めったにないもの、大きな幸せ以外は幸せではない、多くの人から評価されなければ価値がない、人に誇れるものでなければならない、美しい幸せ(例えば、無償の愛)のみに価値がある、など。
 これらは、自分の幸せの数を制限してしまう考え方です。
 また、「○○なければ、幸せになれない」のような「一事が万事」の考え方も、自分の幸せの数を減らしてしまいます。

「自分の幸せはたくさんあると思える人ほど、幸せになりやすい」

 自分が感じた幸せを疑う(本当に価値があるんだろうか?)、過去の自分の幸せを大した幸せじゃないと考える、人との比較により自分の幸せを評価する、一時の幸せは虚しいと考える、など。
 これらは、自分の幸せの価値をディスカウントし、幸せを感じにくくしてしまいます。

「自分が幸せだと感じたことだけが、確かな自分の幸せ」

 自分の幸せがなかなか見つからない人は、自分の幸せがないのではなくて、自分の幸せに気づく能力が足りないだけ。
 幸せなものから、たいして幸せを感じられないのは、その幸せの価値が低いからより、幸せを十分に感じる能力が低いから。

 また、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)のような「完全主義」の考え方も、自分の幸せを減らしてしまいます。
 「少しでも不幸な部分があったら、幸せではない」と考えるのも同様です。
 「百点満点じゃなきゃイヤだ」と考えるのと、「とれた点数分だけ幸せ」と考えるのでは、大きな違いです。

「減点法でなく、加点法」
「不幸を数えて暮らすより、幸せを数えて暮らそう」

 少し長い目で考えれば、少しずつ点数(平均点)が上がっていくのがいちばん幸せだと思います。
 人生における幸せは、そのようにできます。
 自分の幸せになる能力を育てていけば、少しずつ幸せになれる。その上、幸せに関しては満点はなく、努力すればするほど幸せになれる、と私は信じています。

 自分の幸せに関しては、ヘタな評価をするのはやめましょう。自分が感じる幸せを信じましょう。自分の幸せを疑うことは、幸せをなるためには禁物です。




幸せを意識すること

「幸せを意識していない時が、幸せなんだ」という考えがある。
 その一方、
「どんなに幸せそうに見える人でも、本人が幸せだと思っていなければ、
 その人は幸せではない」という考えもある。
 幸せの意識は必要ないのか。幸せの自覚なくして幸せと言えるのか。

 前者の考えの裏には、
「幸せを求めても、得られないと不幸になる」という恐れがある。
そして、自分には得られない幸せが現実にたくさんある。
だから、幸せをあまり求めないほうがいい。
ましてや、努力して得られなかったらもっとつらい。

ただ単に、「面倒だ、恥ずかしい」と言う人は、幸せになりたくないのか。

「幸せを意識していない時が、幸せなんだ」にも一理ある。
 無意識のために幸せを見過ごすのは損だが、無意識に幸せを感じることができたら、それは理想的だ。
 無意識の時には人は習慣に従っている。だから、幸せを感じる習慣を持てばいい。幸せを感じる習慣を持つためには、はじめは意識し、実践し、継続する必要がある。それなりの努力がいる。しかし、一度習慣になれば意識も努力もしないで幸せを感じることができるようになる。

 私の経験では、幸せを感じる習慣は徐々に作ることができる。ただし、あくまでも徐々にだ。生活の中での一つひとつの幸せを感じる工夫が実を結ぶ。正直に言えば、その努力に終わりはないと思う。幸せを感じる習慣に限りはない。だから、幸せを意識しないでいい時は来ないのかもしれない。しかし、幸せを意識することにも慣れがある。だんだんラクにできるようになる。はじめに挫折しなければ、幸せを意識することを習慣にするにはそれほど時間はかからないと思う。
 幸せを感じる習慣を持つ努力は、幸せに生きる手段であり、かつ、生きる目的の達成でもある。仕事もお金も夢も愛も家庭も子供もすべてのことは、幸せに生きる手段である。本来の幸せという目的を忘れ、手段自体を目的と思い込み固執しすぎると不幸になる。
 私は、幸せを意識して生きることをお勧めしたい。でも、多くの時間幸せを意識できる人はほとんどいない。どうしてだろうか。それが今の私の課題でもある。




なぜ幸せを求めて生活しないのか

 「幸せになりたいですか?」と聞けば、みんなが「はい」と答える。
でも、「幸せを求めて生活していますか?」には「はい」と言えない人も多い。
幸せを意識して生活していない人も多い。なぜだろうか?

 いくつかの理由を考えてみた。
(1)「幸せ」は大きいもの。
 幸せを理想の状態だと思っている。自分が思い描いている1つの大きな幸せのみが幸せだと思っている。「幸せ」という言葉の具体的なイメージがなく、漠然と大きなものだと思っている。
(2)幸せを求めると、得られないと不幸になる。
 この考えについては、次回に書きたいと思っています。
(3)現実生活に追われて、考える余裕がない。
 仕事・家事・勉強が忙しい。もっと遊びたい。
(4)自分の幸せとは何か、どうしたら幸せになれるか、わからない。
 いくら考えてもわからない。
 幸せについて考えたり努力するのは面倒くさい。
(5)幸せを求めて生活するのは、恥ずかしい、カッコ悪い。
 「幸せ」と口にするのも恥ずかしい。
 (別に人に言わなくてもいいのだが・・・)

 幸せはたくさんある。大きい幸せも小さい幸せ、努力して得られる幸せも既に自分が持っている幸せもある。
 幸せは求めれば得られる。このホームページで、そのためのヒントを提供できたらと願っています。

 幸せになりたくない人は、勝手にすればいい。
 幸せになりたい人は、幸せを求めない言い訳などしないで、幸せを求めて生きればいい。ただし、100%の幸せに固執すれば不幸になる。幸せを求めることはいいこと、幸せを求めすぎることは不幸の素。悪いのは「すぎる」ことであって、「求める」ことではない。
 「今は幸せ。でももう少し幸せになれたらいいな」くらいがいいのかもしれない。




幸せを求めると、得られないと不幸になる?

 幸せを求めて生活しない理由の1つとして、
「幸せを求めると、得られないと不幸になる」という考えがある。
 確かに、求めても得られない幸せがある。そして、得られないと自分が想った時つらい思いがする。それはしかたがない。
 でもそこで終わりにしないで、次のように考えてみてはどうだろうか。
  現実を受け入れるなら、
     「こういうことはある」「まぁ、いいか」のように言える。
  前向きに考えるのなら、「次こそは」とさらに闘志を燃やす。
  自分にやさしくするなら、とにかくやった自分をほめてあげる。
  自分の成長を重視するなら、「このことから何を学べるだろうか」や
     「これをいい経験としよう」のように考えられる。

 一時的にはつらい思いをするかもしれない。しかし、それはあくまでも一時的だ。人生の中で考えたら、小さなこと、むしろ、いい経験とすれば幸せなことにもできると思う。

 世の中で成功したと思われている人たちが、みんなすんなりと成功したと思ったら、間違いだ。みんな、失敗や挫折を経験している。大事なのはその経験を活かして成長することだ。若い時に大病を経験した人はたくさんいる。下積みの長い人もいる。成功した人は一時的にはつらい経験をすべていい経験とした人だ。
 幸せを得たいと思ったら、自分が成長させることだ。成長するためには、チャレンジをし、いろいろな経験をするのが一番だ。

 幸せは得ることが難しいものばかりではない。私たちのまわりには、ささやかな幸せやすでに持っている幸せがたくさんある。そういうものは、求める気さえあれば、すぐに得られる。
 その他にも、自分が得ることができる幸せはたくさんある。まずはそれを見つけることだ。

 大げさに考えることはない。「得られたらいいな」くらいの気持ちで幸せを求めればいい。そうすれば得られなくても、「しょうがない」ですむだろう。そして、また次の幸せを求めればいい。
 幸せを求めることを、バカにしたり、重大に考えすぎないで、ごく日常のことと考えればいい。誰もが幸せになりたいと思っているのだから、それが自然な生き方だと思う。自然に幸せを求めて生きたらどうだろうか。




幸せを求めれば、必ず幸せを得られるか?

 幸せを求めて生活しない人は、幸せを求めても得られないと思っている。

 あなたは、「幸せを求めれば、必ず幸せを得られる」と思いますか?
 「得られない」と思う人へ
   あなたは、自分の幸せとして何か1つだけを思い出していませんか。
   または、幸せっていうのは凄い幸せだけだと思っていませんか。
 「得られないこともある」と思う人へ
   あなたは正しい。でも、得られる幸せもたくさんある。
 「得られる」と思う人へ
   あなたは正しい。自分が得られる幸せはたくさんある
 あなたが幸せだと思えることがたくさんあればあるだけ、幸せを感じられる機会は多くなります。
 あなたがいろいろな幸せを探してみようと思えば、幸せはたくさん見つかります。

  ささやかな幸せなんていりませんか?
  既に持っている幸せなんて過去の幸せですか?
  1つの幸せなことは、一度しか幸せを感じることはできませんか?
  夢や生きがいなんて自分には持てないと思っていますか?
  夢や目標は達成した時だけが幸せですか?
  トキメク恋愛だけが、愛の幸せですか?
  人を幸せにする幸せなんて理解できませんか?
  「一時の不幸は過去の幸せな出来事」と言えるようになるとは思えませんか?
 これらの質問の中で1つでも「いいえ」と答えた人は、幸せを求めれば幸せを感じられると思います。

 「あなたは幸せですか?」
 私の記憶が確かなら、約70%の人が「はい」と答えるでしょう。
 「はい」と答えたあなたは、幸せを求めれば必ず幸せを得られます。
   「私は幸せだ」と心から言えばいいのです。

[ちょっと、うさん臭いページになっちゃったかな?
 既に幸せに暮らそうとしている人には、ちょっと五月蝿かったですね。]




「本当の幸せ」?

 本当の幸せ、絶体の幸せ、崩れない幸せなどというものがあるのだろうか?
 いくつかの視点で考えてみました。

視点1.過去に私が考えてきたことの中から探してみる。

 誰もが持っている幸福がある。生きている幸せ、呼吸のできる幸せ、考えることのできる幸せなど。
 自分の持っている幸せを常に感じることができれば、それは絶対の幸せだろうか?
 私は週に2・3回は生きていて幸せだと思う。しかし、それは一時だ。それを持続できる能力を身につければいいのだろうか?
 でも私はそれを望まない。幸せは他にもたくさんあるのだ。もっといろいろな幸せを味わいたいのだ。

 「幸せを感じる習慣こそ、本当の『青い鳥』ではないか、と思う」を、ホームページの「今日のひと言」の中に入れている。幸せを感じる習慣を完全にして、いつでも幸せを感じられるようになれれば、それが本当の幸せかもしれない。
 私は徐々にではあるが、幸せを感じる習慣が身についてきている。1日に感じる幸せの回数も時間も、平均して増えてきている。これは死ぬまで伸ばしていきたいと思っている。

視点2.常に幸せでいるためには、不幸にならないという考え方ができる

 1つの方法は「欲を無くせ」というようなものだ。「欲があるから不幸になる」という考えがある。
 私は「欲を無くす」という感じが好きではない。幸せを求め、やりたいことをやり、夢を持って生きよう、などと考えたい。

 もう1つの方法は「不動心」のようなものを身につけることだ。どんなことにも動じない、不幸にならない心の強さを養う。そのためにはどんな修行をすればいいのだろうか?
 私は現実生活から離れたような修行はしたくない。また、無感動な人間にもなりたくない。
 私は人生相談を読むことを習慣にしている。このホームページではいろいろな問題について考えている。もちろん自分の生活の中でもいろいろと考える。幸せになる考え方のようなものが少しずつできるようになっている。

 私は不幸にならないだけの考え方は好きではない。幸せになる考え方をしたい。また、不幸は絶対にあってはならないとも思わない。もちろん自ら不幸を求める気はない。でも幸せを求めた結果、一時的に不幸になってもしかたがない。それは人生の中でのいい経験のような幸せに変えることができると考えている。

視点3.天国や極楽というものを想像してみる。
 私は天国や極楽があるかどうかは知らないが、それを完全に幸せな世界として想像してみる。

 お花畑かどこかわからないが、えも言われぬ美しい景色。
 心のやさしい人しかいない。もちろん争いやいさかいもない。
 競争はあっていいのだろうか。負ける人が不幸になるから、あってはいけないのか? 負けても不幸にならない人ばかりだったら、(公正な)競争はあってもいいと思う。
 食べ物はあるのだろうか? 霞を食べて生きたり、食べなくてもいいというのでは、食べる楽しみがないから、おいしいものが食べたいだけ食べられるのがいいかもしれない。もちろん、食べすぎても、太ったり、病気になったりしない。
 そうなるとやはり不老不死ということになる。1人だけ不老不死になると不幸になるかもしれないが、みんなが不老不死ならいいのかもしれない。
 ところで容姿は? 自分のベストの容姿を選択できるとしても、他の人がいれば比較することになり、優劣で不幸が生じる。そうならないためにはまず、鏡とか自分の姿を見る方法をなくす。あとは、すべてやさしい人だから、人の容姿についてイヤなことを言う人はいないから大丈夫。
 こんなふうに、何でも自分の思いどおりになる世界があったら、完全な幸せだろうか?

 ちょっと不まじめになってしまっただろうか。もちろん現実世界ではこんなことはありえない。それでは想像の世界、精神世界ではありうるのだろうか。確かに人は想像からも幸福感を得ることができる。しかし、想像の世界だけでは人は生きてはいけない。

 私は「本当の幸せ」というものを知らない。でも、幸せを感じられることがたくさんあることは知っている。だから、いろいろな幸せを感じて暮らそうと心がけ、実際に幸せを感じて生活できるようになりつつある。

 ここに書いたことは、幸せの中でも極端なことだと思う。でもその中には幸せの大きなヒントがあると考えている。またさらに考えてみたいと思っています。




基本的に幸せ

 「あなたは幸せですか?」に「はい」と答える人は多い(このホームページのアンケートでは、約70%)。何をもって幸せと言うかは、人それぞれだと思います。「なんとなく」や「不幸でないから」や「生活に困らないから」のような理由もあるでしょう。

 私は「あなたは幸せですか?」に「はい」と答える人の多くは、基本的に幸せなのだと思います。
 今、日本に暮らす人はみんな基本的に幸せなのかもしれません。
 あなたは、現在基本的には幸せだと思いませんか?

 人が生きていく中では、悩みや問題を抱えます。でも基本的な幸せは変わりません。
 時には不幸な出来事も起こります。でも基本的な幸せを失うことはめったにありません。
 「一部問題はあるけれど、基本的には幸せ」
 「一時不幸になることもあるけれど、基本的には幸せ」
 こんなふうに自ら考えることができたら、落ち込むことも少なくなるのでないかと思います。

 私は、なんとなく気分が落ち込みぎみの時には、次のように心の中でよく言います。
「今は幸せ。将来もなるようになる。自分には夢がある。人の幸せに少しでも役立てたらと思っている。どんなことも幸せに変えることができる」
 これだけでたいていは気分が立ち直ります。あとは、続けて幸せになることを考えます。今幸せを感じられること、自分の夢や目標について、人を幸せにすること、など。

 もし、あなたが基本的には幸せだ、と思っているのなら、いつでも次のような言葉で少しは幸せになれると思います。
「今は基本的に幸せ。将来もたぶん基本的に幸せ。自分には夢がある。自分には幸せにしたい人がいる。どんなこともいつかは思い出になる」(人によって一部省略可)
 あなたなりの文章を考えてみてください。あなたに合った、その時に合った言葉を生み出してみてください。自分の心の中から生み出した言葉には、力があります。あとは、少しよくなった気分に乗って、楽しいこと・やりたいこと・夢・好きな人のことなど、あなたが幸せになれることを考えればいい。


考え事 「完全な幸せ」?


「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)

「自分だけが幸せでは、完全に幸せではない」(瀬戸内寂聴)

 これらは理想的な考え方ではある。
 現実としては、世界全体・すべての人を幸せにすることはできない。

 これらの考え方には、幸せでない人を幸せにしたい、という美しい思いがある。
 私は、「人を幸せにする自分の幸せを知り、それを行う人は幸せになれる」
 でも、「人を幸せにする自分の幸せを知らず、それを行わない人も、
                  他の方法で幸せになれる」と考えている。
 幸せは無数にある。より多くの自分の幸せを持つ人は、より幸せになれる。
 自分の幸せとして、人を幸せにする幸せは、質・量とも一番おすすめの幸せです。

 人間には、「忘れる」という素晴らしい能力がある。
 「世の中には不幸な人がいる」と知っていても、自分が幸せな時には、それを忘れて、幸せになれる。だから、不幸な人がいても、(目の前に明らかに不幸な人がいなければ、)人は幸せになれる。

 不幸な人がいるということは、自分が幸せにできる人がいる、と考えることもできる。ということは、不幸な人がいるということは、人を幸せにする幸せを得るチャンスがあるということ。それは幸せなことだ、と考えることもできる。
 人の不幸を自分の幸せと考えることは、不謹慎なことかもしれない。でも、不幸な人を幸せにすることは善いこと。

 私は、自分が幸せにしたいと思えない人を幸せにしようとはしないし、イヤイヤながら無理をしてまで人を幸せにしようとも思わない。
 自分が幸せにしたいと思った人を、喜んで幸せにしたいと思う。
 でも私は、時折、「みんなが幸せになりますように」と祈ることがある。



考え事 「幸せになる」って?


「あなたにとって、幸せってなんですか?」

  夢や目標の達成、愛の獲得、何かを経験すること、何かを手に入れること、
  何かの存在、幸せな状態、幸せな生き方、不幸でないこと、その他。

  「幸せだなぁ」のように思えること。

 前者は、幸せの対象。後者は、幸福感(を得られること)。
 ふつう「幸せ」というと、この2つのいずれかを指しています。

「幸せになる」というのは、
  幸せの対象を手に入れる・経験する・保持すること。
  または、(幸せの対象によって)幸福感を得ること。

 私は、幸せの対象があっても、幸福感を得られなければ意味がないと思っています。できれば、より長い時間、より強い幸福感を味わえたらいいな。

 幸福感を伴う「幸せになる」は、一時的なものです。1つの幸福感を保持し続けることはできません。
 幸せの対象として保持できるものはあります。例えば、夢や生きがい、愛する人、自分が持っている幸せ、等々。しかし、それらから途切れることなく幸せを感じ続けることは不可能です。

 私は、「幸せになる」ということを、幸福感の合計(トータル)のようにも考えます。1日の合計、1年の合計、一生の合計のように考えてもいいと思います。
 それゆえ、「だんだん幸せになれる」「少しずつ幸せに暮らせるようになれる」などと書きます。

 トータルに幸せになるためには、幸福感を多数積み重ねることです。理想的には、次から次へと切れ間なく幸せをつなげられるように。
 そのためには、たくさんの様々な幸せ(の対象)があったほうがいい。人間には慣れや飽きもありますから。
 また、保持している幸せ(の対象)から、何度も幸せを感じられるといい。
 多くの時間と回数、幸せを感じるためには、小さな幸せを大切にしたほうがいい。でも、たまには大きな幸せがあったらいいな。

 より多く、より強く幸せを感じるためには、幸せを感じる習慣や幸せになる能力が必要。それらは、意識的に努力することで向上させることができる。
 だから、「幸せになるためには、自分の幸せになる能力を育てればいい」
  とか、「本当の幸せの青い鳥は、幸せに暮らす習慣だと思う」などと、
私はよく書きます。
 そして、そのための方法を考え、自ら実践しています。
 「私は、だんだん幸せになっている」と実感しています。


考え事

人を幸せにすることはできるか?

 人を幸せにすることを考えると、いくつかの否定的な考えが浮かんできます。

(1)本当に幸せにできるのか?
 相手を自分が幸せにすることはできるのだろうか? できないんじゃないだろうか? 自分の考えたことで相手は本当に幸せになれるのだろうか? もしかしたら迷惑じゃないだろうか? 余計なおせっかいではなかろうか? 相手が幸せになったかどうか本当にわかるのか? 相手の反応がなかったら? 相手は喜んだフリをするだけではないだろうか? 本心から幸せになったのだろうか?

 時によって、このような考えが生じることがあるかもしれません。
 もちろん、「百パーセント人を幸せにすることができる」とは言えない。すべての人を、いつでも、確かに、すごく、幸せにすることはできない。
 幸せは人それぞれ。人も時と場合で変わる。人の心はわからない。相手が本当に幸せを感じたかどうかも本人以外にはわからない。

 でも逆にわからないから、やってみる価値がある。幸せにできる可能性はあるのだ。
 自分が相手の幸せを誠意をもって考えたことなら、相手が不幸なほど迷惑にはならないと思う。
 また、人間関係は一発勝負ではない。取り返しのつかないことはめったにない。相手を幸せにするチャンスはまだまだある。
 相手と自分を信じて、人を幸せにすればいい。

(2)幸せにしたいという気持ちはあっても実践できない
 恥ずかしい、うまくいかなかったらどうしよう、いざとなるとできない、などと実際に行動できないことは多い。
 だからといって、すぐに自分にはできないとあきらめるのはよそう。ずっと幸せにしたいと思っていれば、いいチャンスやきっかけはきっとある。
 また、人を幸せにすることをすごいことと考えることはない。人を幸せにする小さな方法がたくさんある。小さなことの積み重ねこそ、本当の愛だと思う。
 時には勇気を出して、人を幸せにすることを実践してみよう。小さなことから。

(3)人からどう言われるか、なんと思われるか
 人から、「偽善者!」「どうせ自分のタメだ!」などと言われるのではないか? 実際にそのようなことを言う人がいても、気にしなければいい。
 問題なのは人がどう思うかを気にすることだ。それは実は自分の中のもうひとりの自分の考えのような気がする。自分の人を幸せにする行為は純粋なものだろうか、と。

 私は、人を幸せにすることは自分の幸せ、と考える。
 また、人を幸せにする理由が、人のためでも、自分のためでも、わからなくても、どうでもいいと思う。考えなくていいと思う。結果として、人が喜んでくれ、自分が幸せを感じられれば、それでいい。


 正直言って、私の中でも、人を幸せにすることは難しい。私の人を幸せにする能力はまだまだ未熟だと思っている。これからの人生の中でもいちばんの課題だと思う。
 私は、人の幸せを考えること自体を幸せなことと考えています。
 そして、たくさん人を幸せにすることを考え、そのうちの一部が実践できればいい。そしてそのことで人が、少しでも幸せになってくれたらいいな、と思っています。



考え事 「幸せは星の数ほどある」

 「幸せは星の数ほどある」というフレーズを気に入ってよく使っています。
 使い始めたきっかけは、こどもの詩でした。
 美しいし、いろいろと想像をふくらませることができる言葉だと思います。この言葉から考えたことを書いてみます。

 星が数えきれないほど存在することは事実です。私たちの銀河だけでも4000億の星があるそうです。
 私の幸せに関する考えの根本は、「幸せは無数にある」です。

 空を見上げない人は、星が輝いていても気づけません。
 幸せを探せば、幸せはきっと見つかります。
 自分が求めるものを探さがしてみよう。

 空模様によっては、星が見えない時もあります。
 心模様によっては、幸せが見えない時もあります。

 でも昼間は、星は絶対に見えない?
 太陽は星の1つです。
 私たちにとってダントツにいちばん明るい星。なくてはならない星。
 太陽のような幸せはあるのでしょうか?

 夜空をずっと見つめていると、だんだん星が見つかるようになります。
 幸せ探しもだんだん慣れ、上達もします。
 心の天体望遠鏡はあるのでしょうか?

 星の位置(関係)を知っていれば、すぐに見つけることができます。
 自分の幸せのありかを知れば、すぐに見つけることができます。
 星や宇宙について書かれた本やホームページがあります。
 幸せについて書いてある本やホームページもあります。

 夜空を見上げながら、いろいろな想像をして楽しむことができます。昔の人は星座を考え出しました。
 想像力を働かせることで、より幸せを感じることができます。
 雲があっても、昼間でも、想像力があれば、星の存在を感じることができます。天気が悪くても、昼間でも、星の存在は変わりません。

 星には光があり、夢や憧れを感じます。
 光は世界を照らします。
 幸せは人の心を照らし明るくします。
 自分の存在(価値)も幸せを得ることで確かめられます。
 「我、幸せと思う。ゆえに、我在る価値有り」

 私たちは、宇宙の限界を知りません。
 「幸せにも宇宙と同じように私たちにははかり知れない無限の可能性がある」
と私は信じています。

  「幸せがたくさんあると思える人は、それだけ幸せになりやすい




考え事 「幸せの中にポツンポツンと不幸があるのと、
      不幸の中にポツンポツンと幸せがあるのと、
                どっちがいい?」

 あなたは、どっちがいい?

 これは、「29歳のクリスマス」の中のセリフです。このドラマ(脚本・鎌田敏夫)はフジテレビで12月に再放送されました。
 ドラマの中では、「不幸の中にポツンポツンと幸せがあるほうがいい」と答えています。なんとなくわかるような気がします。

 日常的な幸せと非日常的な幸せがあります。

「日常的な幸せの中にポツンポツンと非日常的な不幸があるのと、
 日常的な不幸の中にポツンポツンと非日常的な幸せがあるのと、
 どっちがいい?」
 この質問だったら、どっちがいいでしょうか?

 日常的な幸せと不幸は、慣れてしまえば大したことはなくなるが、
 非日常的な幸せと不幸は、インパクトが強い。
 だから、人は、
   非日常的な幸せに憧れ、非日常的な不幸を恐れる。

 日常的な幸せも大切にすることが、幸せになる近道です。
 そして、私は、
  「日々小さな幸せをたくさん感じ、時々中くらいの幸せを感じ、
        たまに大きな幸せを感じられる可能性がある人生
 こんな生き方をしたいと思っています。

 ところで、あなたの現実は、
   幸せの中にポツンポツンと不幸がありますか?
   不幸の中にポツンポツンと幸せがありますか?
   それとも、幸せと不幸が半分ずつくらいですか?

 実は、"あなたの現実"には、2種類あります。主観的な現実と客観的な現実です。主観的な現実は、あなたが感じていること(幸せと不幸)です。

 私は、幸せの原則は主観的・現在・自覚だと考えています。
 客観的な現実がどうあれ、幸せになるためには、

  「不幸を数えて暮らすより、幸せを数えて暮らそう



考え事 「幸せな結末」

 「幸せな結末」がヒットしています。「ラブジェネレーション」の主題歌でした。作詞・作曲・歌は、大滝詠一さん(元ハッピーエンド?=細野晴臣さん(元YMO・ローソンのCMの森高千里さんのダンナ役)がいたフォークグループ)。

 「幸せな結末」って、ハッピーエンド。

ハッピーエンドで幸せを感じられるのは、その瞬間だけではない。
  例えば、恋愛のハッピーエンドを結婚と考えたとすると、
  恋愛中にもたくさん幸せはあるし、結婚してからもたくさん幸せはある。

ハッピーエンドでなければ幸せはない、ということはない。
  夢が実現しなくても、夢を持って幸せに生きられる時間はある。

ハッピーエンドは、永遠に続くとは限らない。

「終わり良ければ、すべて良し」?
  それまでのすべての過程・経験があったから、今の幸せがある。
  ということは、つらかったことも幸せへのステップだった。
  このように考えることができる。

人生のハッピーエンドって、どんなこと?
  幸せな死に方? 暖かい家族に囲まれ、畳の上で、苦しまずに、・・・
  人生を振り返って、「幸せな人生だった」と言えること?
  幸せな老後生活のこと?
  幸せに暮らせる自分になること?

ハッピーエンドを目指すのはいいことだけど、     
  それまでの過程でも幸せを感じ、         
    自分が得た(持っている)幸せも忘れずに、  
      いつまでもハッピー(エンド)を目指そう。

 私の心が生きている限り、幸せを目指すことの終わりはない、と私は思っています。
 私の「幸せの旅」のハッピーエンドは・・・