「世に生を得るは事を成すにあり」これが「竜馬の持論で、かれはつねづね友人に語っていた」と、『竜馬がゆく』の中にあります。きっと、竜馬がずっと思い続けていたことで、それが竜馬の生き方につながったんじゃないか、と思います。
「事を成すにあたっては、人の真似をしちゃいかん」
「人の一生というのはたかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ」
「死を怖れては大事はなせぬ」竜馬は、自分の弱さをよく知っていたのではないか、それを克服していくためにいろんなことを自分に繰り返し言い聞かせていたのではないか、と思うのです。
「恥といふことを打ち捨てて世のことは成る可し」
「(事をおこすには)薄情の道、不人情の道わするるなかれ」
この時代の「学問」というのは、こんにちの学問、つまり、人文科学とか自然科学とかいったものと、言葉の内容がちがう。哲学、という意味である。というより、倫理、宗教にちかい、要するに、儒教である。教養の中心は、人間の道の探求と、それをまもることにあるのだ。孔子を教祖とし、それに中国、日本の先哲がのこした名言を学ぶ。学ぶだけでなく、踏みおこなう。このような「学問」、よりよく生きるための学問が今の時代にももう少しあったほうがいいんじゃないかと思います。さらに言えば、幸せになるための学問です。
道中で船に乗るごとにいろんな船知識を仕入れているし、藩の船手組の水夫から操法などもきき、また、この当時、船頭の必読書といわれた、日本船路細見記や、日本汐路之記、廻船安乗録、なども諳(そら)んずるほど読んでいて、下手な船頭などよりもはるかに物知りになっていた。自育をテーマに読んでみて、これらのことを改めて考えてみると、すごい熱意と努力だと感心してしまいました。
船舶をほとんど独習したといっていい竜馬は、この男なりに勉強法を工夫していた。軍艦奉行並勝海舟の手もとにある各艦船の航海日誌を、かたっぱしから読んだのである。
竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。こういう男だが、この点だけは執念深い。恋に似ている、などという程度のものではない。男子の志は、簡明直截であるべきだと、竜馬は信じている。竜馬は「船」が大好きだったのですが、その前に「海」が好きだったんだと思います。海から続く広い世界、その中に広げられる夢や可能性に強く惹かれていたんじゃないか、などと考えてしまいます。
船。
これのみが、生涯の念願である。船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその偉力を背景に、幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。
勝の江戸召喚や、塾の解散、練習艦の取りあげなどから来る衝撃、今後のこと、たとえば塾生の始末、薩摩藩とのかけあい、浪人会社の設立など、竜馬の胸中をうずまくおもいが、未整理のまま、混沌としていた。そして、竜馬は一歩一歩歩きながら考え、「海援隊」を創り、船を手に入れ、倒幕・新国家建設という夢の扉を開けたのでした。
(どうすればよいか)
竜馬は、行動しつつ考えようとしている。その行動の直前であった。
この若者は、物おじせずひとの家の客間に入りこむ名人といってよかった。相手もまた、この若者に魅かれた。ひかれて、なんとかこの若者を育てたいと思い、知っているかぎりのことを話そうという衝動にかられた。さて、今回私がはじめて注目したのは「取材能力」という言葉でした。
幕臣の勝海舟もそうだし、大久保一翁もそうだった。熊本にすむけたはずれに合理主義的な政治思想家の横井小楠もそうだったし、越前福井藩の大殿様の松平春嶽もそうだった。かれらは、
「竜馬愛すべし」
といって、さまざまなことを教えた。竜馬には、それをさせる独特の愛嬌があった。どんな無口な男でも、坂本竜馬という訪客の前では情熱的な雄弁家になる、といわれていた。
ことばをかえていえば竜馬は、異常な取材能力をもっていたといい。
世の中のこれは竜馬が十代のときにつくった歌である、と『竜馬がゆく』にありました。
人は何とも云えばいへ
わがなすことは
われのみぞ知る
(まあ、時期を待つんじゃ。いまにみていろ)これらは、あせる気もちを押さえるために、自分に言い聞かせていたのではないかと思うのです。
(いまは迂遠の道を通るが、やがてみろ、日本をおれが一変させてみせてくれるぞ)
「おれは奇策家ではないぞ。おれは着実に物事を一つずつきずきあげてゆく。現実にあわぬことはやらぬ。それだけだ」
成らぬことは成らぬ、と竜馬は思った。成るには時の勢いというものが要る。
(いまは、力を培養するときだ。その時機を辛抱できぬのは男ではない)
いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。と、道中で死ねばいい、と覚悟を決めました。
竜馬が、武市の予言した、「偏に竜の名に恥じず」といった活動を開始するにいたるのは、三十を越えてからのことである。満32歳の誕生日に竜馬は暗殺されたのです。でも竜馬は事を成しました。短期間に事を成したのではないと思います。その前の自分を育てる時間・1つずつ築いたことがあったからです。
なるほど日本の危険をすくうために徳川幕府は倒したい。しかし、そのあとに樹立される革命政権の親玉になるなどは、竜馬はまっぴらである。西郷(隆盛)さんが「窮屈な役人にならずに、お前さァは何バしなはる」と聞いた時、「世界の海援隊でもやりましょうかな」と竜馬が言った意味のヒントを今回読んで見つけることができました。
「おれにはもっと大きな志がある」
「日本の乱が片づけばこの国を去り、太平洋と大西洋に船団をうかべて世界を相手に大仕事がしてみたい」
「私は乙女姉さんに育てられたんだが、あのひとは気のつよい女人でしてね。──人の命は事を成すためにある、といった。また、死を怖れては大事は成せぬ、牛裂きに逢うて死するも、磔(はりつけ)にあうもまたは席上にて楽しく死するも、その死するにおいては異ることなし、されば武士は英大ことを思うべし、と申しました。──いや、女だてらにあらっぽいことを弟に教えたもんだ」なんと竜馬の人生観は、乙女に教えられたものだったという。
竜馬は、毎日、剣術防具をかついで築屋敷から本町一丁目の屋敷にもどってくると、姉の乙女が待っている。剣術も乙女が育てたようです。習ったことをおさらい(復習)し繰り返すことは物事を身につけるいちばんの方法だと思います。
「庭へ出なさい」(中略)「竜馬、おさらい。──」
今日ならったとおりに打ちこめという。
筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件というものを考えたかった。それを坂本竜馬という、田舎うまれの、地位も学問もなく、ただ一片の志のみをもっていた若者にもとめた。この一片の志とは、「世に生を得るは事を成すにある」という人生観だと思います。
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