読書ノート 『竜馬がゆく』

 『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)は私の愛読書です。ほぼ毎年1回読んでいます。15年くらいは続いています。たぶん、20回ちかく読んでいるでしょう。
 とにかく読んでいて楽しい。そして、学べることが多い。私の生き方に大きな影響を与えた本です。
 今回は「幸せ」をテーマとして読んで、思ったことを書きたいと思います。

はじめに / 自分を育てる秘訣
好きこそ幸せの源なり / 相手の身になる
感じる心 / 人を見る目
竜馬語録 / 一番こわいこと
聞き上手 / 何が幸いするかわからない
勉学に励む / わがままな生き方
大事のなせる人 / 人間としての魅力
人を動かす / 最高の師との出会い
喜ばせ上手 / 奇策家
独創性 / 人の動きは気の発作
喜びを分かち合う / 私心のない人
「世に生を得るは事を成すにあり」
「意地を通せば、道理引っ込む」
死生観 / 恋愛観・結婚観
困ったと言わない / 人に賭ける
君子豹変性 / 時勢論・時運論
自己犠牲 / 行き届いた親切
「事を成す」には


 『竜馬がゆく』を20代半ばに読んだ時に「夢をもって生きよう」と決意しました。
 そして、会社をやめて独立しパソコンソフトを作り、「幸せになる方法」という本を出版し、「幸せのホームページ」を始めました。すべては、『竜馬がゆく』から始まったと思っています。

 竜馬がゆく〈1〉(Amazon.co.jp)

   

竜馬がゆくから

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はじめに
 「竜馬がゆく」は、竜馬が19歳で江戸へ剣術修行に出かける前日から話が始まります。そして、子どもの頃の竜馬の話の中には、次のような形容詞が使われています。
 愚鈍、薄のろ、気弱、泣き虫、はなたれ、寝小便たれ、あいさつもできない。
 塾の師匠からも「手に負えない」と見放された落ちこぼれの竜馬が、どのように人間として成長していったか?
 竜馬のまわりには、個性的だが本質的にいい人ばかりが集まる。どうしてか?
 夢にかけた竜馬の生き方とは?
 そして、何よりも竜馬のいるところ、幸せそうな雰囲気がする。その要因は?

 「幸せ」をテーマに読んでいきたいと思っています。
 1つことわっておきます。私が取り挙げる竜馬は、歴史上の人物・坂本龍馬ではなく、歴史小説「竜馬がゆく」の主人公・坂本竜馬です。

自分を育てる秘訣

「竜馬が15歳のころ、当時若侍のあいだではやっていた座禅を軽蔑し、
 すわるより歩けばよいではないか。
 とひそかに考えた。
 禅寺に行って、半刻、一刻の座禅をするよりも、むしろそのつもりになって歩けばよい。いつ、頭上から岩石がふってきても、平然と死ねる工夫をしながら、ひたすらにそのつもりで歩く」
 ここで、竜馬のすごいところ。
   常識・流行にとらわれず、独自の工夫をする。
   死の恐怖の克服という発想。
     死を恐れなければ、何も恐いものはない。
     夢に向かって思い切ってチャレンジできる。
   約3年間続けたこと。考えるだけならできる人はいる。
 問題発見、工夫や発想、実践、この習慣こそが自分を育てる一番の秘訣だ。

好きこそ幸せの源なり
 竜馬は江戸への剣術修行へ向かう途中、阿波(徳島)の岡崎ノ浦から大阪まで船に乗る。
 竜馬は、船のともで潮風に吹かれながら、梶をとっている老人の姿を、子供のような熱心さで見つめていた。老人があきれて、
「旦那、よっぽど船がおすきとみえますな」
「ああ、好きだな」
 竜馬は、梶取に弟子入りしてしまった。
 竜馬は船が好きだった。それも子供のように好きだった。だから、梶取の老人にも気に入られ、弟子入りできた。楽しめた。船のことも覚えられた。
 同じものを好きな者同士はすぐに仲よくなれる。子供のような純真さは人に好かれる。真剣に教えを請う人は粗末には扱われない。

 好きなこと、好きなもの、好きな人と多く関わることは幸せなことです。
「好きこそ幸せの源なり」
 自分がやりたいことがわからない人は、まず自分の好きなことの周辺を探すべし。でなければ、好きになれそうなことを探すべし。

相手の身になる
 竜馬は、大阪で出会った岡田以蔵の話を聞き、金をやった。そして、伏見へ向かう船の中で偶然話しかけた泥棒・寝待ちの藤兵衛から次のような話を聞いた。
「旦那、あんたはだまされたね。あの岡田以蔵さんという人はわるいお方じゃなさそうだし、お父つぁんが死んだために江戸から国へ帰るというのもうそじゃなさそうだが、路用がなくなってやむなく辻斬りをしたというのは、あれは下手なうそだ」
「ほう」
「大阪島之内の丁字風呂清兵衛という名高い家がある。そこの娼妓でひなづる。おんなの名などどうでもいいが、その女のもとでいつづけして路用をつかいはたしたはずなんだ。あっしが見ただけでも、五日は丁字風呂にいた。だから、旦那にもらった金で、いまごろは豪勢に風呂酒をあそんでるだろう」
「ほんとうか」
「うそじゃねえ」
「以蔵め、そいつは面白かったろうな」
 以蔵の身になって笑いだした。竜馬はうまれつき明るいはなしがすきな男だから、足軽以蔵の陰気な話がやりきれなかったのだが、いまの藤兵衛のはなしで救われたような気がした。妙な性分である。腹が立つよりも自分までが風呂酒を飲んで陽気にさわいでいるような気分になってくる」
 「こんなヤツいるか!」とは思う。ふつうの人はだまされたと腹を立てるのが当然だ。しかし、怒ってイヤな気分になるのと、相手の身になって愉快な気分になるのと、どっちが幸せだろうか。

 ものは考えよう。自分の幸せになる考え方を探す習慣があれば、できるかもしれない。
 相手の身になるということを、相手のためでなく、自分が幸せに過ごすためと考えてみてはどうだろうか。

感じる心
 竜馬は江戸へ向かって、寝待ちの藤兵衛と旅をする。そして、生まれてはじめて富士山を見た。
「藤兵衛、この景色を見ろ」
「へい」 藤兵衛はつまらなそうにまわりをみた。
「気のない顔だなあ」「藤兵衛、一向に驚かぬな」
「見なれておりますんで」
「若いころ、はじめてみたときはおどろいたろう。
 それともあまり驚かなんだか」
「へい」 藤兵衛は、にが笑いしている。
「だからお前は盗賊になったんだ。血の気の熱いころにこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。そこが真人間と泥棒の違いだなあ」
「おっしゃいますねぇ。それなら旦那は、この眺望をみて、なにをお思いになりました」
「日本一の男になりたいと思った」
 竜馬のような、感じる心、向上心、大きなことを考えられる心、夢見る心、こういうものを大切にしたい。
 そして、幸せになるためには、感じる心が欠かせない。

人を見る目
 坂本竜馬と桂小五郎の初対面。
 小五郎と竜馬がこの相州の山中であったときは、かれが二十二、竜馬が二十歳である。
 竜馬はもともと感心癖のある男だが、この桂小五郎にははらの底から感心してしまった。
「お前はえらい男じゃなあ」「えらいもんじゃ」「お前、えらいぞ」
 あまりほめそやすものだから、小五郎はなんとなくばつのわるそうな顔つきになってきたが、竜馬は大まじめである。
 人のえらいところ、いいところを見る。それが本来、人を見るということだと思う。私たちは、ともすると人の欠点探しをしてしまう。それでは幸せな人間関係は生まれにくい。ましてや竜馬のように、初対面で本人をほめまくるような人はなかなかいない。

 対する桂小五郎もただものではない。
「あんたには、英雄の風貌がある。」
「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ。私にはそれがとぼしい、しかしあなたにはそれがある、と私はみた。人どころか、山でさえ、あなたの一言で動きそうな思いがする」
 それにしても、これが二十二歳と二十歳とは・・・
 まさか、現代日本の営業マンのようなお世辞の言い合いでもあるまい。

 そんなえらい桂と出会って、竜馬はどうしたか。
(桂は桂、おれはおれだ。桂とちがってもともと晩稲の俺はまだまだ学ぶべきことが一ぱいある。とりあえず、剣術だ)とおもった。
(強くなろう)とも思った。
 自分を強くし、他人に負けない自分を作りあげてからでなければ、天下の大事は成せまい。
 人を知り、己を知り、道理を知っている。

竜馬語録
 「竜馬がゆく」に『竜馬語録』として記されている言葉。
−人に会ふとき、もし臆するならば、その相手が夫人とふざけるさまは如何ならんと思へ。たいていの相手は論ずるに足らぬやうに見ゆるものなり。
−義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。
−恥といふことを打ち捨てて世のことは成る可し。
 なぜ竜馬はこんなことを言ったのか。しかも、繰り返し言っているに違いない。
 それは竜馬が元来、こういうことができない質(たち)だったからだろう。
   人と会った時に、よくドギマギと臆したのだろう。
   義理に流されて、つい自分のやりたいようにできなかったのだろう。
   恥ずかしがりだったのだろう。
 そうでなければ、こんなことをわざわざ言う必要はない。竜馬の語録は弱い自分を変えるための工夫だ。それを繰り返し口にするのは、身につける努力だ。こういう工夫と努力の積み重ねが自分を強くするのだ。

 私は幸せになる工夫や方法を考え、それを実践できるように努力を続けている。なぜなら私は元来、幸せ下手なのだ。頭でっかち、効率優先、表情に乏しい、現実的、自己中心、悩みやすい・・・
 だから、人一倍幸せになる努力が必要なのだ。
 その成果は着実に出てきている。

一番こわいこと
「おれはずぼら者で仕様のない男だが、一番肝腎なたった一つの事だけは痩せようが枯れようが我慢する修業を心掛けてきた。それがなければおれは骨なしのくらげのような男で、だれにも相手にされなくばかりか、一番こわいことは、自分が自分に愛想をつかすようになる。おれはもともと、そんな危険性のある男だ」
 確かに一番こわいことは、自分が自分に愛想をつかすことかもしれない。自分(の人生)の主は自分だ。誰に何と思われようが、自分さえ自分を信じ、自分を大事にしていれば、それでいい。
 そのためには、なりたくない自分になってしまうことは我慢し、なりたい自分になれることは我慢しないでやることだ。そのために生じる悪い結果は我慢しなければならない。不幸にならないように我慢し、幸せになるために不要の我慢をしないで、幸せになるためには必要な我慢もする。

 一番こわいのは、我慢ばかりでやりたことを1つもしなかった、と死ぬ前に気づくことではないだろうか。死ぬ前に、あれをやってよかった、と想い出すことがあればいいと思う。
 死ぬ前でなければ、やりたいことをしなかった、と気づいたら、そのときに自分にできるやりたいことをとりあえず1つやればいい。

聞き上手
 お田鶴(たず)さまという人がいる。土佐藩家老・福岡宮内の娘。福岡家は坂本家の主筋にあたる。江戸修業から一時帰国した竜馬をお田鶴さまが訪ねた。お田鶴さまは聞き上手である。
 竜馬は、妙なことにこのお田鶴さまと話をしていると、つい多弁になる。お田鶴さまの相槌の打ちかたが絶妙なのだ。
(中略)
 お田鶴さまにひきだされるままにしゃべっていると、竜馬は、自分でもいままで考えてもいなかった考えがつぎつぎに湧いてきて、
(おや、おれは、こんなことをかんがえていたのか)
とおどろいてしまう。
 聞き上手は、オールマイティな会話上手。
 聞き上手は、人に好かれる。
 聞き上手は、人を幸せにできる人。
 聞き上手は、幸せになれる人。

何が幸いするかわからない
 竜馬と岩崎弥太郎の出会いは、弥太郎が牢に入っているのを竜馬が訪ねた。弥太郎は同じ牢に入っている太助を師匠と呼ぶ。
「師匠はキコリであらるる。うらは江戸で天下高名の学者の門をほうぼう叩いたが、この牢の中でこのお方に学んだことのほうがはるかに大きい」
「その太助どんに何を習うたのじゃ」
「算術と商法の道よ」
 それまで学問武芸しか知らなかった岩崎弥太郎が、はじめて算用の道を学んだのは、このときであった。将来、商業によって大をなそうと考えたのも、このときである。
 岩崎弥太郎は明治維新後、竜馬の夢の一部を引き継ぐように商社を興す。そして、三菱財閥を築き上げる。
 人生、何が幸いするかわからない。大病、大きな挫折、浪人、左遷、入牢などの経験をバネに飛躍した人は多い。でも、苦境からどんどん落ち込んでしまう人もいる。
 一時の不幸を人生の幸せに変えよう、という気持ちが大事だと思う。

勉学に励む
 竜馬は約5年間の江戸剣術修業で、一流の剣客になる。
 土佐に戻ったのは24歳。それから28歳になるまで、いろいろなものを学ぶ。中国の歴史書などの本を学ぶ。オランダ語の塾で教科書として使用していた西洋の法律概論を学ぶ。西洋の政治・経済について知っている絵師・河田小竜からは、西洋の事情と今後の日本の展望などを学ぶ。武市半平太ら土佐藩内の者と語り合い、長州まで行って久坂玄瑞らともこれからについて語り合う。

 現代とは時間の流れるスピードは違うだろうが、竜馬には約3年半は純然たる「勉学」の期間があるのだ。それも社会に出ても役に立たない知識を覚えたのではない。自分の人生に役立つと思うことを求めて学んだのだ。そういう時期があったから、その後の竜馬の活躍もあったのだと思う。

わがままな生き方
 土佐藩では、武市半平太が中心になって郷士が結束する。武市は竜馬に言う。
「お前とわしとは、仲がよい。仲がよいが、人間のなりたちは、黒と白とほどに違うちょるようじゃ。なりたちがちがえば、考えもちがう。いずれは、袂(たもと)をわかつときが来るかもしれぬが、さしあたって、土佐勤王党の結成だけは賛成してくれような」
 竜馬は賛成する。しかしやがて、武市と考えを異にする。
「全藩勤王などは理想だが不可能なことだ。むかしから理想好きはお前の性分じゃ。完全を望み、理想を追いすぎる。それを現実にしようと思うから、無理な芝居を打たねばならんようになる。かならず崩れ去る」
「半平太、いっそ、こんな腐れ藩など見捨ててしまえ。藩ぐるみ勤王などはどだい無理じゃ」
 そして、竜馬は藩を見捨てて脱藩する。

 脱藩をするということは、仲のいい武市半平太との訣別を意味する。でも、竜馬は自分の考えで歩き出した。
 竜馬の親がわりの兄・権平の反対を無視して脱藩する。脱藩すると藩の犯罪者になる。家族・親類にも迷惑がかかる。それでも竜馬は自分の道を選んだ。
 一般的な考えでは、竜馬は、家族に大きな迷惑をかけ、友を裏切り、藩を見捨てた、わがままなヤツだ。

 家族を大切にする生き方もある。友を大切にする生き方もある。仕事を大切にする生き方もある。自分の夢を大切にする生き方もある。愛を大切にする生き方もある。いろいろな生き方がある。自分で選べばいい。ただし、どれかを中心に選ぶと、あきらめなくてはならない部分が出てくる。
 いずれにしても、どこかの視点からは、わがままな生き方をするしかない。

大事のなせる人
 岩崎弥太郎は竜馬のことをこう思う。
(しゃくだが、おれより人間が上品だ。あいつが、おれに優っているところが、たった1つある。妙に、人間というものに心優しいということだ。将来、竜馬のその部分を慕って、万人が竜馬をおしたてるときがくるだろう。竜馬はきっと大仕事をやる。おれにはそれがない。しょせんは、おれは、一騎駆けの武者かとおもう)

 幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる。
 竜馬は清河についてこう思う。
(たったひとつ、人間への愛情が足りない。万能があるくせに。
 ついに大事をなせぬ男だ)

 大事をなすには、人への優しさや愛情が必要なのだろうか?
 しかし、岩崎弥太郎は三菱を創業し、清河八郎も幕末の幕をあけた。

 大事にもいろいろある。大事のなし方もさまざまだ。人それぞれだろう。
 1つ共通条件があるとすれば、大事をなそうと志し、行動したことだろう。

人間としての魅力
 「竜馬がゆく」を読んでいて楽しいところの1つは、登場人物の人間性と、会話の軽妙さだと思う。例えば、寺田屋騒動の直後に、竜馬が寺田屋を訪れた時の、女将(おかみ)のお登勢との会話。

「いったい、どうなさっていたのです。風のたよりにうかがうと脱藩なされたそうでございますな」
「そうそう。脱藩した」 にやにや笑っている。
「名も、じつは変えちょる。おれは才谷梅太郎というんじゃ」
「でも、お顔はもとのままどすえ」
 お登勢は、はらのできた女らしく、あごをくびらせて笑った。
「ふむ。顔だけは、変えようがないな」 竜馬はツルリと顔をなでた。
「きょうは、見舞にきた」
「ほんとは弥次馬はんどすやろ」
「ああ、それが本音だ。弥次馬といえば、おれは弥次馬の一番槍か」
「一番槍どす。あんまりほめたことやおへんけど」
「そのとおりじゃ」 くっくっと無邪気に笑った。

 また、その時に竜馬が作った唄が、次の2つ。

  咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る

  何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす

 唄がうまいかどうかは、私にはわからない。でもこの2つの唄が後々まで多くの人に唄われたのは、なんとなくわかるような気がする。

 竜馬の魅力はたくさんあるが、ちょっとした会話や動作に、人間としての魅力を感じる。もっともこれは、司馬遼太郎さんの力によるものだが。

人を動かす
 高知には「竜馬の居眠り堤」があるという。竜馬が18歳の頃、堤防工事に参加した。約10工区のうちの1区の責任者を任された。人夫を100人も使う。竜馬自身はほとんど松の木によりかかって膝を抱えて居眠りをしていた。ところが竜馬の区は他の区より半分の日数で仕上がってしまった。なぜか。竜馬はまず仕事をいくつかに分け、その責任者を巧みに選び、競争させた。あとは毎日でき具合を見て、できによってほうびをやった。

 ここには、管理者としての人を動かす要素がいくつか含まれている。組織化、分担、リーダー、任せる、競争、ほうび。

 これと同じような話は、豊臣秀吉にも中国にもあったと記憶している。竜馬が知っていた可能性はある。しかし、実際にそれをうまくできるところは並の人ではない。

最高の師との出会い
 竜馬にとって勝海舟との出会いは大きい。
 竜馬の人生への基礎は確立した。勝に会ったことが、竜馬の、竜馬としての生涯の階段を、1段だけ、踏みあがらせた。
(人の一生には、命題があるべきものだ。おれはどうやらおれの命題のなかへ、一あしだけ踏み入れたらしい)
 このとし、竜馬二十八歳。まったく晩熟である。
 竜馬自身も大いに喜び、姉・乙女に手紙を書いている。
 そもそも人間の一生はがてん(合点)の行かぬはもとよりのこと。うん(運)のわるい者は風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬる者あり。
 それにくらべて私などは運がつよく、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず。自分で死なうと思ふても又生きねばならん事になり、今にては、日本第一の人物勝麟太郎と云ふ人の弟子になり、(中略)どうぞおんよろこび願ひ上げ候。かしく。
 竜馬にとって勝海舟ほど素晴らしい師はいなかったと思う。まず、浪人である竜馬を受け入れる資質。西洋に関する知識。竜馬の好きな船の師としても最高だ。なんといっても、かん臨丸の船長だったし、幕府の軍艦奉行。竜馬に船の実地訓練をさせてくれた。勝のもっとも素晴らしかったことは、竜馬をひきたてたことだ。大久保一翁、松平春獄、横井小楠らの有力者に紹介した。竜馬は勝から得た、知識・操船技術・人脈を駆使し、幕末に飛翔する。

 勝海舟がいなければ、幕末の坂本竜馬の活躍はなく、「竜馬がゆく」もなく、現在の私もない。

 よき師に出会えることは人生の中で大きな幸せだと思う。
 しかし、よき師に出会えなくても、人生で出会う人・物・事はすべてよき師とも言える。
 私も、よき師にめぐり逢えたらいいな、と思う。

喜ばせ上手
 勝海舟が竜馬をひきたてたのは、勝の性向によるものだが、竜馬がそうさせる部分もある。
「おい、軍艦で大阪へ連れていってやろう」
(そいつはありがたい) 竜馬は、飛びあがりそうな表情をした。
「お前さんは物喜びをするたちだねえ」 勝も感心し、
「こっちまでうれしくなるよ」といった。
 勝のみるところ、竜馬はじつにとくな人間で、平素は土佐弁でいう無愛想い(すぼこい)つらつきのくせに、いったんよろこぶとなると、相手の心にまでしみとおるようなよろこびかたをする。
「とくだよ。ついまたこっちも、また喜ばせてやろうという気になる」
 また、竜馬の勝に対する献身も相当である。
(勝先生の弟子になったとはいえ、いまさら蘭学を学ぶ気にもならん。それに先生の知遇に報ずる道もない。せめて夜警でもしよう)
 竜馬は、一見、不逞、性不覊、その男が夜警をしようというつもりになったとは、よほどのことであろう。
 また竜馬は、惚れにくいたちであった。女にも男にも。
 しかし惚れたとなれば、夜警でもやる、というところがある。
「可愛気のある奴だな」と勝は笑って捨てておいた。
 このほかにも、勝の命を守ることには、竜馬は気をつかっている。竜馬が師に対して、自分にできる大事なことだと考えたのだろう。

 確かに喜ばせたくなる人はいる。素直に喜んでくれる人だったり、確実に何かが返ってくる人だったりするが、それ以外にもその人自身の人間性によるものも大きい。

奇策家
 脱藩した竜馬が江戸の千葉道場に居候しているところへ、土佐藩でクーデターに成功した武市半平太が訪ねた。
「脱藩のことはおれが何とでも繕う。藩に戻っておれと一緒にやってくれ。お前は奇策家じゃ。いま、お前のような人物が要る」
「おれは奇策家ではないぞ。おれは着実に物事を一つずつきずきあげてゆく。現実にあわぬことはやらぬ。それだけだ。それをなぜ人は奇策家とみるのか、おれにはわからん」
 竜馬は逆に武市半平太のことを奇策家と思っている。
 所詮は、武市のやることは手品であり、あとですぐ尻の割れる「奇策」である。真の奇策とは、もっと現実的なものだ。
 が、竜馬はだまっている。
 奇策とは人が考えつかない策だ。奇策にもいろいろある。竜馬の考える真の奇策とは、人が気づいていない真実のようなものだと思う。

 昔、「地球は丸い」「地球は太陽のまわりを回っている」「空を飛ぶ器械を作る」と言った人は、「頭がおかしい」と言われた。ほとんどすべての人は、それらのことは100%信じられなかった。しかし、真実だった。

 キリスト様が言った「汝の敵をも愛せよ」や、お釈迦様が言った「諸行無常」なども、並の人には考えつかない画期的な考えだと思う。

 さて、竜馬の真の奇策は、いつでるか。

独創性
 竜馬は独創的だ。その1つが倒幕方式。
 船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその偉力を背景に、幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。
 人間、好きな道によって世界を切り拓いてゆく。
 自分らしい独創性を発揮するための1つのヒントは"好き"ということだ。

 竜馬は生きる目的をこのように言う。
「事をなすためじゃ。
ただし、事をなすにあたっては、人の真似をしちゃいかん」
 このような気概を持ち続けて、はじめて独創性がうまれるのだと思う。独創性は才能によることもあるが、人と違ったことをしたいという意志によることも多い。

 人と違うことをするには勇気が要る。人に何を言われるかわからない。仲間はずれにされるかもしれない。

 竜馬が十代の落ちこぼれの頃につくった歌がある。

    世の中の人は何とも云えばいへ
      わがなすことは われのみぞ知る

 こう、自分に言い聞かせていたのだろう。

人の動きは気の発作
 竜馬は京(京都)のせまい街路で新選組と出くわした。
 竜馬は、新選組巡察隊の先鋒と、あと5・6間とまできて、ひょいと首を左へねじむけた。
 そこに、子猫がいる。まだ生後三月ぐらいらしい。
 軒下の日だまりに背をまるめて、ねむっているのである。
 竜馬は、隊の前をゆうゆうと横切ってその子猫を抱きあげたのである。
 一瞬、新選組の面々に怒気が走ったが、当の大男の浪人は、
顔の前まで子猫をだきあげ、「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」
とねずみ鳴きして猫をからかいながら、なんと隊の中央を横切りはじめた。
 みな、気を呑まれた。ぼう然としているまに、
竜馬は子猫を頬ずりしながら、悠々と通りぬけてしまった。
 竜馬は言う。
「ああいう場合によくないのは、気と気でぶつかることだ。闘(や)る・闘(や)る、と双方同じ気を発すれば気がついたときには斬りあっているさ」
「では、逃げればどうなんです」
「同じことだ、闘る・逃げる、と積極、消極の差こそあれ、おなじ気だ。この場合はむこうがむしょうやたらと追ってくる。人間の動き、働き、の八割までは、そういう気の発作だよ。ああいう場合は、相手のそういう気を抜くしかない」
 人は自分の心の鏡と言う。
   自分が相手を嫌っていると、相手が自分を嫌っていると思える。
 意識して相手を無視することは、相手に伝わる。
   それは攻撃と同じ意味を持つ。

 「人の動き・働きの8割までは気の発作」というのは卓見だ。
 理論で人を説き伏せようとしても、相手を怒らすだけだったり、
どんなに正しい(効率がいい)と説得しても、「ウン」と言わなかったりする。

 人は、すべて頭で考えて動いているかと思えばそうでもない。
   人は、習慣と感情によって主に動いている。
     「わかっちゃいるけど・・・」というのがあるのが人間だ。

喜びを分かち合う
 勝海舟は神戸海軍塾を創る。塾長は竜馬だ。その海軍塾に待ちに待った練習用の船が幕府から引き渡される。竜馬はその船の引き取りに仲間を神戸から江戸に呼んだ。
(とうとう、われわれは練習艦を得た)
 このよろこびは、一人では十分に味わうことができない。同じように艦の入手を待ちこがれていた仲間たちと抱きあうことによってのみ、味わうことができる。
 仲間と喜びをわかち合うことは、自分の取り分が減るわけではない。反対に喜びが増すものだ。
 竜馬は、練習艦・観光丸の甲板上で、仲間が短艇で近づくのを待っている。それに気づいたのは菅野覚兵衛。
「おい、みんな。坂本さんが来ちょる。舷側を掻きむしっちょるぞ」
といって笑おうとしたが、ふりむいて竜馬の姿を眼にとめた漕手のたれもが笑わなかった。菅野も、泣きっ面になってしまった。
(もとは一介の剣術使いだった男だ。それが軍艦にあこがれ、とうとう軍艦を一隻手に入れてしまった)
 しかも浪人の身で。
 菅野覚兵衛は、ぽろぽろと涙をこぼした。
 私は、このくだりを読む度に、ウルウルする。私も喜びを分かち合っているようだ。

私心のない人
 西郷隆盛も魅力的な人だったらしい。
 西郷は、私心をなくすことを心がけていた。
 西郷は「敬天愛人」という言葉をこのんだが、これほど私心のない男はなかった。若いころから私心をのぞいて大事をなす、ということを自分の理想像とし、必死に自己を教育し、ついに中年にいたってそれにちかい人間ができた。
 また、西郷は二度、島流しになっている。心がけと時間が人間を作ったのではないかと思う。
 竜馬は薩摩に行き、西郷の家に泊まったことがある。
 西郷の家は、(これが世に高名な西郷の家か)
 と竜馬が内心おどろくほどみすぼらしかった。

 土佐の坂本竜馬が鹿児島に来て翁(西郷)を訪問し一泊したとき、夜半に翁は夫人となにか寝物語している。聞くとはなしにきいていると、夫人「宅は屋根が腐って雨漏りがしてこまります。お客様がおいでの時など面目がございません。どうか早く修繕してくださりませ」と訴えると翁は「いまは日本中が雨漏りしている。わが家の修繕なぞしておられんよ」とこたえられた。
 竜馬は、そういう西郷に感心した。
 西郷も竜馬について、こう言った。

   「よほど無邪気な仁じゃな。
    大事をなすには無邪気で私心がないことが肝要じゃ」

 西郷隆盛と坂本竜馬は、幕末の大物と言われる。
 また、二人とも当時としては身体が大きかったという。

   坂本竜馬 5尺8寸(175.7cm)
   西郷隆盛 5尺9寸(178.8cm)

「世に生を得るは事を成すにあり」
 竜馬の人生観。
「生死などは取りたてて考えるほどのものではない。何をするかということだけだと思っている。世に生を得るは事を成すにあり、と自分は考えている」
「事とは何ですか」
「しごとのことさ。仕事といっても、あれだな、先人の真似ごとはくだらぬと思っているな。釈迦も孔子も、人真似でない生き方をしたから、あれはあれでえらいのだろう」
「世に生を得るは事を成すにあり」
 私は20代半ばに、この言葉に出会い、やがて会社をやめ、独立した。その当時に考えていた事とは、オリジナルのコンピュータ・ソフトウェアを作ることだった。
 今私の考えている事とは、自分のライフワークだ。「人の幸せ」について考え、「幸せになる方法」を工夫し、自ら実践すること。

 ところで、竜馬は釈迦や孔子が好きなのかというと、そうでもないらしい。
 竜馬はこの支店(亀山社中の下関支店)の名を「自然堂」とつけた。この男は、釈迦も孔子も尊敬しなかったが、ただふたり、ふるい哲学者のなかでは老子と荘子を尊敬していた。なにごとも自然なるがよし、という老荘の思想にあやかって自然堂とつけた。
 自然に逆らうのは無理がある。世の中、無理はとおらない。自然に事を成すのがいいのだろうか。

 いろいろな人生観があっていい。事にも様々な事がある。
 私は夢のある事をしたいと思う。この人生は1回しかないのだから。

「意地を通せば、道理引っ込む」
 竜馬の偉業の1つは、薩長同盟を仲介したことだ。幕府を倒すには薩摩と長州が手を握ればいいと考えた人はたくさんいた。しかし、薩摩藩と長州藩は、歴史(関ヶ原で敗れた)的にも思想(尊王攘夷)的にも似ているのに、仲が悪かった。
 竜馬は、両藩の仲をとりもち、やっと秘密会談にこぎつけた。ところが竜馬が数日遅れて京に到着し、長州の桂小五郎と会うと、
 「坂本君、私は帰る」と言う。
 会談はもたれたが、肝心の薩長同盟について、どちら側からも言い出さなかったという。要するには、藩と藩の意地の張り合いなのだ。自藩からは言い出したくないという意地。

 私たちの生活の中にも同じようなことがある。
 何かの誘い、プロポーズ、告白、など、人からしてもらいたいと考え、自分からはしない人がいる。
 自分からはあいさつをしないで、人があいさつもしないと怒る人がいる。
 ケンカの後に、自分からは謝りたくない、相手が謝らない、とイラ立つ人は多い。
 どちらから言い出すかにこだわって悪い関係を続けるのと、自分から言い出してすぐにいい関係になるのと、どちらが幸せだろう。
 私は、自分から(仲よくしたいと)言える人の方が、人間としてできていると思う。

 互いに仲よくしたいと思っているのに、たかが意地のためにそれができない。頭ではわかっていてもできない。そういうところがあるのも人間なのだろうが・・・

 竜馬は、さっそく西郷ら薩摩側と、桂ら長州側を集める。
 すでに歩み寄りの見込みはついている。
 あとは、感情の処理だけである。
 桂の感情は果然硬化し、席をはらって帰国しようとした。薩摩側も、なお藩の体面と威厳のために黙している。
 この段階で竜馬は西郷に、
「長州が可哀そうではないか」と叫ぶようにいった。
 当夜の竜馬の発言は、ほとんどこのひとことしかない。
 あとは、西郷を射すように見つめたまま、沈黙したからである。
 奇妙といっていい。これで薩長連合は成立した。
死生観
「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」
 竜馬の死生観には、必ず「事を成す」ことがついてくる。死だけを考えずに、常にどう生きるかを考えるべきなのだろう。
 竜馬は幕府のおたずね者だ。新選組も狙っている。
「京の一人歩きはあぶのうございますぞ」
「わしには、天がついちょる。大事をなそうとする者にはみな天がついちょるもンじゃ」

「生きるも死ぬも、物の一表現にすぎぬ。いちいちかかずらわっておれるものか。人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよいとおれは思うようになった」
 本当の夢があれば、自分の保身など考えているヒマはないのかもしれない。
 今の世の中では、さしせまって命の心配をする必要はまずない。なのに保身(金、地位、名誉、世間体、健康など)ばかり考えて暮らしている人がいる。それで幸せなのたろうか?

 竜馬は寺田屋で伏見奉行所の手の者約100人に囲まれ、踏み込まれた。いっしょにいた三吉慎蔵は、突っ込んで斬り死にしようとか、いさぎよく切腹しようとか、竜馬に言う。しかし、竜馬は、
「三吉君、逃げ路があるかないかということは天が考えることだ。おれたちはとにかく逃げることだけに専念すればいい」
 絶望するな、と竜馬はいうのであろう。
 天はまだ竜馬を呼び戻しはしなかった。
 竜馬は、身に危険がせまった時には、最後まであきらめずに一生懸命に逃げる。あとは天に任せる。

 先のわからぬことをいくら心配してもしょうがない、自分にできることはその時のベストを尽くすことだけだ。まさしく、人事を尽くして天命を待つ、しかない。
 死を恐れるより、せいいっぱい今を生きることが肝心だ。

恋愛観・結婚観
 竜馬には、3人の好きな女(ひと)がいた。
「旦那は、いってえどなたがお好きなんですえ、江戸のさな子さまか、京のお田鶴さまかそれとも伏見のおりょうさんか」
「余計なことをいうな」 竜馬は、むくれてしまった。
「みな、好きなんじゃ」

 実は、お田鶴さまが好きである。が、この身分階級でできあがっている浮世ではしょせんむりなことだ。
 江戸には、千葉さな子がいる。が、千葉家の娘にふさわしい結婚生活をあたえてやれるとはおもえない。
 やはり、おりょうである。このひろい世間に、おりょうだけは竜馬の庇護がなければ立ってゆけない女性ではないか。
 出会っても、好きになっても、結婚できない人、幸せにできない人もいる。
 竜馬の恋愛観は、
 お田鶴さま、さな子、おりょう、の三人については、いままでの関係がいちばんいい。一歩でも深めれば、泥沼になる。
(君子の交りは淡きこと水のごとし、というが)
 礼記のことばである。もっもとこれは、男同士の交友についての言葉だが、竜馬は、男女間でもできればこれでゆきたかった。
 恋愛は、心ののめりこみである。愛情の泥沼にのめりこんで精神と行動の自由をうしないたくない。
 自由と結婚、どちらを選ぶか。人それぞれで違うだろう。でもふつうの人はそれほど極端に考える必要はない。
 ここで、竜馬にヒント与えた人がいる。寺田屋のお女将のお登勢だ。
「坂本さん、おりょうさんをどうするの?」
「そこは成りゆき次第だ」
「つまり、成りゆきによっては、お嫁さんにするというの?」
「まあ、そうだ」
「本来なら、坂本さんは、嫁御寮なんかはもたぬ、ということだったでしょう。それはどうなったの」
「いまもそのつもりでいる。嫁もちで諸国を走りまわれるか」
「走りまわったらいいじゃないの」
「なるほど」 竜馬は、新鮮な表情になった。
 そして、成りゆき次第の、成りゆきが起きた。
 寺田屋で竜馬が幕吏に襲来された時、おりょうは風呂場から全裸で飛び出して竜馬に知らせた。それから、薩摩藩邸に駆け込みそのことを告げた。そして、ケガをした竜馬の看病を続けた。竜馬の命を救ったと言える。
 下世話に、「ひょんなことで」という。
男女の仲というのは、多分にこのひょんなことで出来あがる。
竜馬とおりょうの場合、あの事件が「ひょんなこと」であった。
とすれば、群がって襲来した百人の幕吏こそふたりの仲人になったわけである。
 竜馬はケガの湯治のために薩摩に行く。おりょうもいっしょだ。これで、竜馬が日本ではじめて新婚旅行をした人、と言われる。

 竜馬の恋愛観・結婚観は、ふつうの人の参考にはまったくならない。でも、私には影響大である。

困ったと言わない
 幕末の長州に高杉晋作という天才児、英雄児がいた。
 奇才・高杉の秘術のタネは1つだという。
 高杉晋作は平素、同藩の同志に、「おれは父からそう教えられた、男子は決して困った、という言葉を吐くなと」と語っていた。どんな事でも周到に考えぬいたすえに行動し、困らぬようにしておく。それでなおかつ窮地におちた場合でも、
「こまった」とはいわない。困った、といったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。
「そうなれば窮地が死地になる。活路が見出されなくなる」

「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし死地におちいればそれでおしまいだ。だからおれは困ったの一言は吐かない」
 どんなにきびしい状態になっても絶望してはいけない。私は「困った」くらいは言ってもいいと思うが、簡単にあきらめてはいけないと思う。常に希望を持って生きたほうが幸せだと思う。

人に賭ける
 長崎の商人・小曾根英四郎は、竜馬とその事業に賭けていた。
「石炭代のかたしろに薪をいただこうなんて、料簡はもっておりませんですよ。坂本様というお人に賭けているつもりでございますが、どうもそこのところが、まだわかっていただけないようだ」
「いや、甘えてはならぬと思うだけだ」
「もっと甘えていただきます。人に賭けるというのは、商人のしごとのなかでもいちばん度胸の要ることなんでございますが、わたくしはうまれてはじめてそれをやっている。坂本様もそのおつもりになって、私をいい気持ちにしてくださらないといけません」
「ありがたい」
 人に賭けるなんて金持ちの道楽かと思うと、そうでもない。
 竜馬は、幕府が長州征伐をした際に、長州に味方し、海戦に参加し、助けた。しかし、その後船を失い、商売ができずに、亀山社中の解散を考えていた。
 それを聞きつけ、亀山社中が傭っていた水夫・火夫が押しかけてきた。
「解散じゃということでござりますげな」と不平ったらしくいった。
「それに反対か」
「反対でござりまするぞ。われら一同、たかが水夫火夫風情(ふぜい)でも、坂本様のお下知で馬関の砲火をくぐった者でござりまするぞ。情(つれ)なきことを申されますな」
「払ってやる賃銀がないのだ」と、竜馬は、袖を振った。
「食わせられん」 ぽつんと言い、言いおわると、
われながら情けなくなって、ポロポロ涙がこぼれた。
「みな、よい所へ口を預けい(就職しろ)」
 が、甚吉老人は怒気をふくみ、
「われら一同、はらをくくりましてござりまする。坂本様がなんと申されましょうとも、坂本様から離れませぬぞ。船が御手に入るまで、われらは市中で食い代を稼ぎながら待ちまするわい。われらのことはお構いくだされますな」と畳をたたいていった。
 竜馬は、生涯のうちで何度か激しく感動した男だが、このときほど感激したことはなかったであろう。
 私は、このくだりを読むたびに涙があふれてくる。今もこれを書きながら、涙ぐんでいる。私も人に賭けてみたいな、と思う。そういう人に出会えればだが・・・
 それまでは、自分に勢いっぱい賭けようと思う。

君子豹変性
 二度も脱藩した竜馬に、土佐藩の重役・後藤象二郎が会いたいと言い、竜馬と会見する。
(後藤は)竜馬の論にうなずきつづけて、ついに、
「わしも竜馬の党になる」といった。
竜馬が拍子ぬけするほどけろりとした転身ぶりである。
(会見後)
「溝渕のおんちゃんよ、参政後藤象二郎なる人物は、ありゃなんじゃ」
と、竜馬は笑いながらきいた。
溝渕にも竜馬のいう意味がわかる。変わり身の早さを指しているのだろう。
「しかし、それにしても」と、竜馬は笑いだした。
「おれもむかし、千葉重太郎と二人で勝先生を斬るために赤坂氷川下のお屋敷にゆき、その場で論破されて開国論者になった。後藤の転身を笑えた義理ではないか」とくすくす笑っている。
 竜馬は人のことは言えない。剣で一流になったのにあっさり捨てる。土佐勤王党に参加しながら脱藩してしまう。勝海舟への入門。このあと土佐藩と手を組む。コロコロと変わっているのだ。

 6月23日の読売新聞にNEC会長・関本忠弘さんのインタビュー記事があった。「リーダーとしての条件は、先見性、実行力、持続力、君子豹変性(柔軟性)の4つあると思う」

 竜馬は決して気まぐれな人間ではない。日本のため、国民のため、自分の夢のためなどの考えは、ずっと変わっていない。しかし、時が移れば、人も変われば、状況も変わり、自分も成長する。その時々に一段高い見地に立って、最善の方法を考えていけば、とる策も変わって当然だ。
 自分の所属、1つの考え、古い計画などにとらわれていては、広い視野でものが見えなくなる。そういう人には、柔軟な発想すら豹変に見えてしまう。

 そして、竜馬はこの後も豹変する。

時勢論・時運論
 時勢は変わる。かつて禁門の変では、長州と七卿が失脚した。
 時勢が、たった一年で変転し、暗転し、討幕気運は急速に冷えた。
「腫物(ねぶと)も膿まずば針を立てられず」
 という竜馬の時勢観は、そこである。幕府という腫物(しゅもつ)は、はれあがっているばかりで膿みきってはいない。
 竜馬はよく時勢・時運を口にする。

「時勢は利によって動くものだ」
「時勢も歴史も、筒井順慶できまるものだぞ」
「双方、下心があってのことさ。後藤もわしを利用とする。わしも後藤を利用とする。そういう必要が生じてきたというのは、時運というものだな」

 薩長連合がなり、朝廷工作がすすみ、武力の準備も整い、いよいよ討幕の機運は高まった。ここにおいて竜馬が打ち出したのが大政奉還という奇策だった。
「ものには時機がある。この案を数カ月前に投ずれば世の嘲笑を買うだけだろうし、また数カ月後に提(ひっさ)げて出ればもはやそこは砲煙のなかでなにもかも後の祭りになる。いまだけが、この案の光るときだ」
 時勢に乗って成功する人はいる。日本ではアメリカン・ドリームのようなケースは少ないが、パソコン・ブームに乗って成功した人もいる。インターネット・ブームに乗って成功する人もまだこれからでるだろう。

 歴史の流れとしては、薩長を中心とした討幕軍と幕府軍による、日本を真っ二つに分けた戦争になって当然だった。多くの人が死に、不幸になっただろう。現在の朝鮮やベトナムのように、東日本国と西日本国が誕生していたかもしれない。悪くすれば日本が西洋の国の植民地になっていた可能性だってあった。

 ところが日本はそうならなかった。大政奉還がなされたからだ。
 大政奉還のアイデアは勝海舟などによるものだろう。だが、時勢を読み、推進し、成し遂げた中心は竜馬だ。そして、もう1人の主役が・・・

自己犠牲
 大政奉還とは、「将軍慶喜が、家康いらい十五代三百年の政権をなげだし、朝廷にかえし奉る」ことだ。そんなことができるのだろうか。
(はたして政権を慶喜はなげだすかどうか)
 この一瞬、幕府は消滅し、徳川家は単に一諸侯の列にさがるのである。そういう自己否定の道を、慶喜はとれるかどうか。
(人間、自分で自分の革命をおこすということは不可能にちかいものだ。将軍がみずから将軍でなくなってしまうことを、自分でやるかどうか)
 人情、おそらくそうではあるまい。
 たとえ慶喜が個人としてそういう心境になったとしても、慶喜をとりまく幕府官僚がそれをゆるさないであろう。
(しかし)と、竜馬は繰りかえしおもった。
 日本を革命の戦火からすくうのはその一手しかないのである。
 人間、自分の持っているものを手放すことは難しい。それが大きいものであればあるほど。ましてや先祖伝来のものは。

 しかし、徳川慶喜は手放した。慶喜の大英断を聞いた竜馬は。
 「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」
 と声をふるわせつついった。竜馬は自分の体内に動く感激のために、ついには姿勢をささえていられぬ様子であった。
 この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。
 日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。
 いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でたった二人の同志であった。
 徳川慶喜は決してできの悪い、小心な殿様ではない。日本のためを考えて、決断したのだと思う。慶喜の自己犠牲によって、日本の多くの人が不幸にならずにすんだ。

 愛は人を幸せにする。愛は自己犠牲を含むことが多い。愛のための自己犠牲は不幸なことではないと思う。自分の自己犠牲によって人を幸せにすることができら、それは自分の幸せだと思う。

行き届いた親切
 大政奉還の提案とともに、竜馬が書いたのが船中八策だ。
「あすから朝廷に政権を」といったところで、おどろくのは朝廷自身であろう。「その方法をつくらねばならない」竜馬はいった。
大政奉還の案だけを天下に投ずるのは不親切というものであろう。
「おぬしゃ、行き届いちょるな」 後藤が感心した。
竜馬といえばどこか粗放な感じがあるから、後藤は意外におもったらしい。
「あたりまえではないか」 竜馬は卓上の懐中時計を指さした。
「人に時計をくれてやっても、その使い方を教えてやらねばなにもならぬ」
「八策ある」と竜馬はいった。
 船中八策には、議会政治、人材登用、外交、軍事、財政について書かれている。討幕を考えた人は多かっただろうが、新政府の政治について考えた人は竜馬の他にはほとんどいなかっただろう。
 明治維新に出された「五箇条の御誓文」に竜馬の船中八策はこだましている。

 私は「人に時計をあげても、その使い方を教えなければ不親切だ」という言葉が好きだ。だから、「幸せになる方法」の本にもホームページにも、実践方法の工夫をしている。「読んで納得はできるが、何をしたらいいかわからない」ということのないようにしたいと思っている。実践方法を納得してもらうことはもっと難しいことではあるが・・・

 大政奉還が決まった後も、竜馬は新政府案を作り、その人事の案まで出している。それに沿って明治維新政府は組織される。
 そして驚くことに、その人事案には・・・

「事を成す」には
 竜馬が書いた新政府役人表(案)の中には、なんと竜馬の名前はなかった。竜馬の考えは、次のようなものだ。

「すべて西郷らにゆずってしまう」
「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」
「こういう心境でなければ大事業というものはできない。おれが平素そういう心境でいたからこそ、一介の処士にすぎぬおれの意見を世の人々も傾聴してきてくれた。大事をなしとげえたのも、そのおかげである」
「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。八分までが困難の道である。あとの二分はだれでも出来る。その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう。それでなければ大事業というものはできない」

 竜馬の目標は、「事を成す」ことであり、出世することではない。「事を成す」ことを第一に考え、そのために自分さえ切り捨てる。

 新政府役人表を読んだ西郷隆盛は竜馬に言う。
「坂本さぁ。この表を拝見すると、当然土州から出る尊兄の名が見あたらんが、どぎゃンしたかの」
「わしの名が?」「わしゃ、出ませんぜ」
「あれは、きらいでな」「窮屈な役人がさ」といった。
「窮屈な役人にならず、お前さァは何バしなはる」
「世界の海援隊でもやりましょうかな」
 その場にいた陸奥陽之助(のちの宗光)は、「このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のように思われた」といった。

 竜馬にはもっと大きな夢があったのだろう。
 しかし、この10日後、慶応3年11月15日、満32歳の誕生日、竜馬は暗殺される。竜馬が言っていた通り、大きな夢の道中で死んでいった。
 もし竜馬が暗殺されなかったら、その後何をしてくれたのだろう。想像するだけでワクワクする。
 竜馬は、死などは天に任せて、前に向かってゆく。天はこの時点で竜馬を呼び戻した。
 司馬遼太郎さんは、「竜馬がゆく」を書いてくれた。私は、「竜馬がゆく」を読み、人生が変わった。すべては、天に与えられた巡り合わせだろうか。

 ちなみに、今日(7月3日)は私の誕生日だ。竜馬よりも9年も長く生きてこられ、さらに現在の幸せな世の中で生きていける。とても幸せなことです。

 「読書ノート」・「竜馬がゆく」は、これで終わりです。あらためて読み直してみると、やはり私の人生は「竜馬がゆく」に大きく影響を受けています。人生の中での大きな幸せな出会いの1つだと思います。
 私の年中行事に長らくおつきあいいただき、ありがとうございました。


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