しあわせ日記 「力を抜く」

3月11日(日)いい加減?
 「まぁいいか」「なるようになる」「ハオハオ」とか、こういう言葉を私はよく使います。ちょっといいかげんな感じもしますが、そのほうがいいことも多いような気がします。
 小さいこと、どうにもならないこと、いくら考えてもわからないことなどは、ひと言でかたづけることができたら、と思います。

 もちろん、大切な事はいいかげんに放っておくわけにもいきません。やるべきこと・やったほうがいいことはちゃんとやったほうがいいに決まっています。
 でも、「○○はいいこと、○○すぎるのはよくないこと」ということもあります。○○過ぎで不幸になってしまうこともよくあります。
 どこかで「○○過ぎ」と判断して、力を抜くようなことも必要ではないかと思うのです。

 「いいかげん」と「いい(良い)加減」のニュアンスの違いはわかると思います。
 その「いい加減」の判断と力を抜く方法について、考えてみようと思います。



3月12日(月)力を抜いてやる
 重労働をすれば疲れるのは当たり前ですが、力の入れ過ぎで疲れるというのもけっこうあると思います。また、力の入れ過ぎがうまくできない原因になることもあります。
 必要以上に疲れると感じた時、一生懸命にやっているのにうまくいかない時、「力を抜く」ことを考えてみてどうでしょうか。
 「力を抜く」ということは「その事をしない」とか「いいかげんにやる」ということではなく、「少し力を抜いてその事をやる」のがいい、ということです。

 力の入り過ぎで大きいのは、余計な所に力が入っていることではないか、と思います。その分、疲れるし、力が分散しちゃうし、本来必要な働きの足を引っ張ってしまうこともあると思います。
 余計なことを考えない、ということが大事なんじゃないかと思います。人から悪く思われるんじゃないかとか、失敗したらどうしようとか、・・・いろいろあると思います。そういうことを気にし過ぎると、肩(余計な所)に力が入ってしまうのではないでしょうか。

 また、力が入り過ぎると柔軟な考え方できなくなってしまいがちです。「○○でなきゃならない」「ちゃんとできなくちゃいけない」「これがダメなら終わりだ」などと、無意識に思い込んでいるような場合があると思います。そのために、(すぐにはどうにもならない)現実に抵抗して苦しみ・疲れてしまいます。

 私も以前は力が入り過ぎることが多かった、と今はそう思うことができます。ちゃんと(うまく/早く/たくさん・・・)やらなくちゃと思い過ぎたり、人の目を気にし過ぎたり。
 最近は、けっこう力を抜いてやれることが多くなったような気がします。(ちょっと抜き過ぎかな?)

 やっぱり、力の抜き過ぎもよくないのでしょう。
 「手を抜く」は、よくないイメージですね。
 でも最近の私は、ちょっとぐらい手を抜く時があってもいいんじゃないか(まぁいいか、ハオハオ)、などと思ってしまいます。

 考えてみると、「力を抜く」判断も抜き方もその加減はけっこう難しいようです。
 でも、「力みすぎかな?」「ちょっと力を抜いてやってみよう」などと考えられれば、それだけでもちょっとは力が抜けていいんじゃないかと思います。
 「力を抜こう」より「愉しもう」と考えられたほうがいいような気もしますが、もう少し「力を抜く」ことを考えてみようと思います。



3月13日(火)力を抜くべき時
 生きていくためにはやらなくてはならないことがあります。よりよく生きるために大切にしたほうがいいこともあります。仕事・勉強、家庭生活、恋愛・人づきあい、夢・目標・やりたいこと・・・。
 でも、なかなか思うようにならないことも多く、そのために悩みや問題を抱えてしまいます。悩みや問題があってもそれなりに幸せに暮らせればいいのですが、悩みが元で生活に支障がでてしまう場合もあります。さらに、心身の健康を損ねてしまうこともあります。
 そうはならないように、少しでもそうなりそうになったら、「力を抜く」ことを本気で考えるべきだと思うのです。

 不幸になりやすい人は力を抜くことがなかなかできないんじゃないか、と思います。何か悪いことがあると、どんどん自分を追い込んで、疲れて、気分を悪くして、不幸になることや不幸になる考え方をしてしまう。その悪循環に陥ってしまうような気がします。
 どこかで(できれば早めに)力を抜いて、休み、心身を回復させて、落ち着いてラクに考えることができれば、もっと軽く済ませることができるのではないかと思います。

 私は、「幸せに暮らす」ことを生活目標にしています。もし、それができないような状況になりそうだったら、力を抜きたいと思います。仕事でも家庭生活でも人づきあいでも自分の夢でもです。そのために多少の問題が出てもいい、と覚悟します。と言っても「少し力を抜いてやる」のなら、そんなに問題はないはずです。

 と、幸せオタクの私は特別でしょうが、あんまり無理して苦しい生活を続けるより、大切な事でもちょっと力や手を抜いてラクになることがあってもいい、と思うのです。

 根が真面目・完璧主義の人には、「力を抜く」とか「手を抜く」とかがなかなかできないこともわかります。私も元来そうですから。でも私は真面目に真剣に「幸せに暮らそう」というほうが今は強いので、そのためだったら多少は力も手も抜きます(まわりの人たち、ごめんなさい)。

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3月14日(水)積極的に休む
 体(の部分)も心も力を入れっぱなしだと、きつくなってくるし、疲労も溜まってしまいます。頑張り過ぎて疲れ切ってしまっては、幸せに暮らすことは到底できません。
 (思いっきり)力を抜く時も必要です。「休む」ことですね。

 きついことを長く続けるためには休み休みやるとか、1日の疲れはしっかり休んでできるだけ次の日に残さないとか、当たり前のことのようですが、実際にはなかなかできないことも多いのではないでしょうか。特に、悩みや問題を抱えている時の精神的な疲れに関しては。
 重い問題は休み休み考える幸せな気分で眠りにつくのようなことができれば、と思います。
 悩みや問題がある時にはなおさら幸せに過ごすくらいの気もちがあったほうがいいと思います。

 「休み」の質も問題です。
 休息や睡眠は必要以上にとっても効果はありません。とり過ぎるとよくないこともあります。どのくらい必要かの判断は難しいと思いますが、疲れが100%とれないことがあっても、ある程度の時間休んだら動き出したほうがいいように思います。
 心が疲れた時には(重傷でなければ)、じっとしているよりも気もちがよくなれることをするほうがいいのです。幸せを感じることが心の休息にも栄養にもなるのだと思います。

 疲れ切ってしまう前に、自ら「休もう」と考えられることが大事ではないかと思います。
 疲れぎみの生活が続いている人は、生活の質を向上させるために「積極的に休む」ことを考えてみてはどうでしょうか。



3月15日(木)やる時はやる
 力を抜いたり休んだりすることがなかなかできない人もいると思います。

 力を抜くこと・休むことを考えられない人もいます。それが悪いことだと思い込んでいるような△△まじめな人もいます。
 そのために苦しい思いをして過ごしていいのでしょうか。幸せに過ごせなくていいのでしょうか。

 まわりの人がどう思うかを気にしてしまう人もいます。人から悪く思われたくない・よく思われたいという思いが強い過ぎる人がいます。
 人がどう思うかより自分の気もちのほうが大切ではないでしょうか。

 力を抜いたり休んだりすると、うまくできなかったり悪い結果を心配してしまう人もいます。もしここで力を抜くと後悔することになるのではないか、のように考える人もいます。
 ちょっと力を抜いたりうまく休みを入れたほうがいい結果につながるのではないでしょうか。ちょっと休んだくらいでうまくいかなくなることはめったになく、うまくいかない原因は他にあるのではないでしょうか。

 などと、書いた“こういう人もいる”というのは、以前の私のことです。
 今でもそういう傾向はありますが、力を抜いたり休んだりすることも意識してできるようになりました。その替わり、やる時はちゃんと一生懸命にやります。

 力を抜くこと・積極的に休むことを意識するようになると、「やる時はやる」ことも 意識できるようになるような気がします。



3月16日(金)やめる
 いくら一生懸命にやってもうまくいかない、力を抜いたり休んだりしても耐えられない、このままでは自分が崩れてしまいそう、どうしても不幸から抜け出せそうもないというような場合には、「やめる」ことも考える必要があると思います。
 自分を守るため、不幸から抜け出すため、少しでも幸せになる可能性を求めるために、大事な何かをやめる(学校・会社・家業をやめる、人づきあいをやめる・別れるなど)勇気が必要な時もあります。
 大事なことをやめる決断はたいへんなことです。失うものが大きかったり、いろんな不安もあります。でも、やめるほうがいい時もあると思うのです。

 「やめる」ことをぜんぜん考えられない人もいます。そのために現状に絶望して自分や人を傷つけてしまったり、病気になってしまったり、まともな生活ができなくなってしまったりしてしまう人もいます。

 「やめるのもハオハオ」と考えられるだけでも少しは心に余裕ができます。実際に「やめる」前にも、いざとなったらやめればいい、と思えます。
 「やめるか?」という選択も難しいことですが、やれるだけやってもダメならやめればいい、と考えればもう一頑張りできそうです。その結果がどっちになっても、つらい時間を中途半端に続けてしまうよりもいいのではないでしょうか。

 「やめる」ことは悪いことばかりではありません。
 やめることは次の何かを始めることにつながるのです。新しい経験や出会いがあるのです。きっと「いい経験」にできます。
 自分を育てようと思う人は、「いい経験をするつもりで」今の何かをやめる決断をしてみてはどうかと思います。

 大きな何かをやめた直後には、時間ができることがあります。次の何かを始めるまでの時間です。その時間は考えようによっては「いいチャンス」です。自分のやりたいこと、今まで時間がなくてできなかったこと、生き方を考え直す自分を育てることなどに使うことができます。そういう時間って、人生の中では大きいような気がします。

 私は会社をやめてからフリーで仕事を始めるまでの8ヶ月間、本を読んで暮らしました。その中で「幸せ」に興味を強くしたような気がします。
 また、1993年にアキレスけんを切って約2カ月間入院しました。いろんなことを考え、退院してから「幸せになる方法」を書き、このホームページを始めることにつながりました(結果としてコンピュータソフトの仕事をやめました)。
 ふつうに生活しているとなかなかまとまった時間はできません。大きな何かをやめることで大きな時間ができるということもあるのです。

 「やめる」という1つの選択もある、と考えられることで、しなやかな強さがうまれるんじゃないか、という気もします。



3月17日(土)捨てる
 人からよく思われたい、世間体が気になる、見栄を張ってしまうなど、「人の目」を気にするあまりに苦しんでしまう人もいます。
 自分が気にならない・イヤな思いをしないのなら、それらは別にかまわないんじやないかと思います。
 でも、それが自分を苦しめていると気づいたのなら、そういうものを「捨てる」ことを考えられたら、と思うのです。

 ふつうはそういう「人の目」は無意識に自分の判断に加わっているのではないかと思います。
 まずは、それに気づくことです。そのためには、つらい時に「なんでこんなにつらいんだろう? 人の目を気にし過ぎかな?」と自問できれば気づけるはずです。
 気づいたら、そのことをはずせるように問題を考え直してみて、(この次は)こうできたらいいな、と思えばいいわけです。
 あとは、「なるようになる」のような覚悟をすればいいのだと思います。

 私が敬愛する坂本竜馬には次のような語録が残っています。
  「恥といふことを打ち捨てて世のことは成る可し」
  「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり」
  「薄情の道、不人情の道わするるなかれ」
 「恥も外聞も捨てよう」「義理・人情も捨てよう」と何度も自分に言い聞かせていたのだと、私は思います。それだけ竜馬は元来、恥とか義理・人情に縛られるタイプだった。でも、自分の夢を成し遂げる(事を成す)ためには、それらを捨てなくちゃ、と考えたのでしょう。

 自分を縛っているものには、他にもいろいろあります。
 「○○でなければいけない」のような価値観。たとえば、正しくなくてはいけない、立派でなくてはいけない、やさしくなくてはいけない、男(女)はこうであるべきだ、××があると幸せに暮らせない、○○がなければ幸せになれない、・・・。
 これらもたいていは本人は無意識です。そういう考え方が習慣になっているのだと思います。金(損得勘定)、地位(出世・名誉名声)、外見などに、こだわってばかりいる人もいます。

 それらも自分が問題を感じなければ別にいいし、ある程度は誰もがもっているものだとも思います。
 時と場合によっては、そういうものを「捨てる」決意をしたほうがいいということです。
 また、「いつでも捨てろ」ということではなく、どうしてもつらい時、いざという時、自分の大事な何かを守る時などには、思い切って「捨てる」ことを考えてみてはどうか、ということです。

 「やめる」とか「捨てる」とかには、もう1つ「勇気」というものも要りそうです。
 「自分の幸せのために」と考えれば、少しは「勇気」もでるのではないでしょうか。



3月18日(日)本当のやさしさ
 力を抜く、休む、やめる、捨てるなどと書いてきましたが、それらは「自分を育てる」ためにはどうなの? という疑問もあります。
 そうやって自分を甘やかしては、何かを成し遂げることもできないし、自分を育てる機会を失っているのではないか。

 「自分を育てる」ことを考えると、自分にやさしくする時か、きびしく(して自分を強く)する時か、常に迷うところです。早く自分をラクにしたほうがいいのか、もうちょっと頑張ったほうがいいのかなど、その判断は難しいと思います。
 でもその時に、「今は自分を助ける時か? 自分を鍛える時か?」(つまり、自分にやさしくするか、きびしくするか)を考えた上での判断だったら、どっちでもいい、その時の自分に任せればいい、と思うのです。

 「自分を育てる」のは「幸せになるため」です。
 だったら、つらい時・苦しい時に自分を助けられるようになることも、自分を育てることの一部です。
 本当のやさしさには「“きびしさ”もなくてはいけない」と思うのですが、それは時と場合によってであって、自分に対してもいつも“(本当の)やさしさ”をもっていたほうがいい、と思うのです。



3月19日(月)明らめる
 自分の夢を持っていても、幸せになれていない人が多いんじゃないかという気がします。
 思うようできないという人、どうしたらいいかわからないという人、苦労ばかりという人、1つの失敗で落ち込んでしまう人、実際には何もしていない人、「夢が叶わない」と嘆いてばかりいる人・・・。

 私は、夢を持って生きること自体が幸せなことだと思います。そしてそれは今を幸せに暮らすための方法です。夢が叶うか叶わないかという結果よりも、夢を持つことで幸せを感じて生活できるという過程を大切にしています。
 「夢があるから」と、たくさんの幸せになる考え方ができます。

 夢の実現を想うことでワクワクしたり、やる気や元気が出たり、夢に関することをやることを愉しめたり、そのことで充実感や達成感を感じられたり、そんな夢を持って生きている今の自分を幸せだと思えたり。
 このようなことがまったくない・できないような夢なら捨てたほうがいい、と思うのです。幸せに結びつかないのなら、「夢を明らめる」ことも必要です。今の自分の夢としてはふさわしくない、と明らかにすることです。

 自分の理想や望みどおりにならないことに、不満やいらだちなどを感じてしまうことは多いと思います。小さいことやたまになら(ハオハオと)軽く受け流したほうがいいと思いますが、自分にとって大きなこと・日常的なことで、理想と現実の違いでイヤな思いを繰り返してしまう場合には、自分の理想を変える・捨てる・明らめることを考えてみてはどうかと思います。たぶん、現実を変えるのは難しい事だと思います。

 夢・理想・望み・やりたいことなどは、自分を幸せに導く道しるべです。そういうものがあるから、それに向かって意気揚々と歩き出せるのです。でもそれが今の自分に合わないものでは、幸せを感じられないし、自分を苦しめることにもなってしまいます。
 逆に、つらいだけで幸せを感じられない夢や目標や理想や望みは、「今の自分には合わない」と明らめて、自分の心や考えを変えることができたら、と思います。



3月20日(火)一歩引く考え方
 何かを一生懸命やったり、まじめに考えたり、夢や理想を追いかけたり、ちゃんと生きようとするのはいいことです。
 でも、力が入り過ぎたり、どうにもならないことを無理したり、思い通りにならないことを許せなかったりでは、せっかくのいいことがつらいことになってしまいます。
 そんな時には、「押してもダメなら引いてみな」のような“一歩引く考え方”ができたほうがいいんじゃないか、ということです。

 「自分を守るため」には、一歩引く考え方が必要な時があると思います。
 疲れ切ってしまう前に、自分や人を傷つけてしまうような悪い事をしないために、自分の心と体を守るために、・・・。
 私は、「幸せに暮らすため」にも一歩引く考え方をしていい、と思います。
 つらいだけの生活を続けないように、少しでも気分よく生活できるように、自分の幸せな生活を守るために、・・・。

 力を抜く/休む/やめる/捨てる/明らめるなどの選択肢を1つ加えて考えられるだけでも、心に少し余裕が生まれます。「ねばならない」「これしかない」と立ち往生するよりも、「やるだけやってダメなら引けばいい」と考えたほうがラクに立ち向かえると思います。「それは甘い」「背水の陣のほうが力が出る」と言う人もいると思いますが、私は「三十六計逃げるに如かず」と逃げたいと思います。命あっての物種です。

 などと、ちょっと力が入ってしまいましたが。
 実際にはみんなけっこういい加減にやっているんじゃないか。無意識に現実的に引いているのだと思います。
 それがなかなかできずに苦しんでしまう人は、意識して一歩引く考え方をしたほうが、自分を助け、少しでもラクになれるのではないか、ということです。


   

この日記のつづき

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