しあわせ日記

6月11日(日)たのしむ
 ネタ(書くこと)に困った時の“五木頼み”。ということで、さっそく。
 『生きるヒント3』の1章は「楽む」です。

 私は自分なりに「楽しむ」と「愉しむ」を使い分けています。「楽しむ」は文字どおり“楽しい”ことをする・感じる、「愉しむ」は物事にはいろんな愉しみ(方)がありそれを感じる、のようなイメージでしょうか。
 一番いいのは、<楽しい気>を発散させている<楽しみの達人>をみつけることです。そして、その人がおのずと身辺に漂わせている<楽しい気>をシャワーのように全身に浴びることです。楽しみは、悲しみと同じように他人に伝染するものなのです。

 「幸せ」も伝染するものだと思います。
 まわりの人が不幸なのに自分だけが幸せというわけにはいきません。
 まわりの人を幸せにすることは自分の幸せにつながり、自分が幸せでいることがまわりの人の幸せにも役立つのだと思います。
 幸せになるための1つの方法として、幸せな場を見つけ、そこに身を置くことがあります。でも、
 <気>は、その気にならなければ受け取ることはできません。皮膚をコチコチにして毛穴までふさいでしまっては、せっかくの<楽しい気>もこちらには伝わってこないでしょう。
 楽しい場にいるのにそれを楽しめないのは、余計なことを考えてしまうからだと思います。素直にその場を楽しめればいいのですが、それができない時には何かしらの愉しみを見つけられれば、と思います。



6月12日(月)軽く
 『生きるヒント3』の2章は「軽く」です。

 このホームページの中では、「軽く受け流す」とか「ラクに考える」とか、「軽く」ということについてはいっぱい書いてきたような気がします。

 「軽く考える」ための1つの方法は「力を抜く」ことです。すべての力を抜いてしまうのではなく、「余計な力を抜く」「肩の力を抜く」ということです。「もう少しラクに考えよう」とか「少し休んでまた後で考えよう」などと考えられれば、と思います。

 どうして力が入りすぎてしまうのかと考えると、「絶対」とか「しかない」とか「ねばならない」のような思いがあるからではないでしょうか。「このままでもいいんじゃないの」「今は××だけど、いつかは○○」」「○○たらいいな」「道は1つではない」などと考えられれば、と思います。

 小さなことは「軽く受け流す」ことも大事です。「1年たったら忘れてしまうこと?」と考えられれば、多くのことは軽く考えられると思います。

 時と場合によっては少し「いいかげん」でも、「まぁいいか」「なるようになる」「ハオハオ」などで済ましてしまったほうがいいことも多いと思います。

 もう1つ「軽く」する方法として、他のことを考える・することがあります。好きなことや夢中になれることなどに心の焦点を合わせることができれば、それだけ他の問題はぼやけて軽くなります。

 話は変わってある時、ある友達がこのホームページは「軽くていい」と言ったので、「そうでしょう。そんな難しいこと書いてないでしょう。ともすると心を扱うと重くなっちゃうんだよ」みたいな応えをしてしまったことがありました。後で気づいたのですが、単に画像が少なくて(文字ばっかりで)軽い(表示が速い)ということでした。
 こんなに軽いホームページは今時めずらしいかもしれませんね。

軽くて役に立ったら最高でしょ!



6月13日(火)重いもの
 生きていく中では「軽く受け流す」ことができない、重いものもあります。重いものにはどう対処したらいいかを考えてみました。

 重いものを持って歩き続けたら、疲れきってしまいます。ふつうは「休み休み」という方法を採ると思います。重い問題は休み休み考える、悩むのも休み休みがいいと思います。苦しくて耐えられなくなる前に休む、疲れきってしまわないうちに休むことが重要です。休んで休養したり水分や栄養を摂ったりしたほうがいい(体よりも心の休養・栄養)。時間を限って考えるのもいいと思います。

 すごく重いものは、いくら力をいれても動きません。そういうものに力を使っても、ムダに疲れるだけです。重いものでも小さく分けることができれば動かすことができます。スモールステップに分けて今自分が動かせる大きさにすればいいのです。また、いっぺんにいろいろ抱え込まずに1つ1つという方法がいい場合もあります。

 急坂ではまっすぐ上に重い玉を転がすことはできなくても、斜め上にだったら転がすことができます。山や塔のようなものだったらグルグルらせんに登っていけばいいのです。回り道かもしれませんが、自分が少しでも上に進める道を選ぶことです。急なガケを見上げてため息をついていても頂上にはたどりつきません。
 私は人より時間をかける方法を考えることがよくあります。自分にはそんなにすごい能力があるとは思っていませんから。でも、コツコツとまじめに一生懸命に続けるのが私の取り柄です。また、結果よりも過程を大切に考えていますから、時間をかけることに苦は感じません。

 腰が弱い人は重い物を持ち上げる時には「ヨイショ」とか声を出したほうがいいそうです。ギックリ腰とかをやってしまうのは油断をしている時が多いということです。かけ声を出すことで体と心に備えができるから違うのだそうです。
 もう1つよくないのは恐る恐るやることだそうです。気合いを入れてタイミングよくスムーズにやったほうがいいようです。
 重い問題に対する時には、逃げ腰でなく、気合いを入れてしっかりとした姿勢で向かったほうがいいと思います。イヤだイヤだ、困った困った、つらいつらいなどと思いながらでは、いい対処は難しいと思います。「やってやろうじゃないか」「負けるもんか」「くるならこい」くらいの気もちでやると意外とたいした苦もなくうまくいくことがあります。

 重いものを高く持ち上げたり投げたりするためには、いちど腰を落としてから反動をつける方法があります。重い問題も一度がっちりと受け止め、流れで少し落ち込むのもグッと我慢し、力をためて、タイミングをはかって一気に上げる。こんなイメージを持って対処してみてはどうでしょうか。物事には波があります。それに逆らわずに、逆に波を利用するくらいの心構えでいれば、きっといいタイミングはくると思います。

 ひとりでは重くてどうしようもないものは、人に助けてもらうしかないように思います。と言っても、助けてくれそうな人に助けを求めないと、助けは期待できません。できれば、力のある人、技術やいい道具を持った人に手伝ってもらったほうがいいに決まってます。しろうとには扱えない問題はプロの助けを借りることも必要です。

 きょうは重い問題だったからか、いつのまにか長くなってしまいました。書いてる内容は難しくはないですよね。(それができるようになるのは難しいかもしれませんが。少しずつ、時間をかければ、だんだんできるようになります)



6月14日(水)味わう
 『生きるヒント3』の3章は「味う」です。
 大事なことは何か。なにごとによらず、一つずつの行為を十分にあじわいながら、その一瞬を大切に過ごすこと。それがいま、特に大切に思われてならないことなのです。
 あなたは、食事をする時に「十分に味わおう」としていますか?
 それが意識してできる人には、「幸せを味わおうとすること」の意味がわかると思います。
 意味がわからない人は、一度よく味わって食べてみて、どう感じるかを味わってみてください。いつもとどう違うか感じてみてください。

 あじわう、ということは、どんなささやかなことでも宝石に変えてしまう不思議な体験です。
 2年ぐらい前に、NHK教育テレビで「海外ドキュメンタリー・心と治癒」が放送されました。乳ガンの患者さんを対象としたストレス緩和クリニックの紹介。そこでは、最初に干しぶどうを1粒ずつ配り、ゆっくりと時間をかけて噛み・味わう、というエクササイズをやった。ふだんは気づかなかった干しぶどうの深い味わいを体験する。
 要するには、同じ事をするにも、味わってするのと、無造作に形式的にやるのとでは、感じ方がまったく違うということです。これは、食べること以外でも言えます。

 私などは、トイレで(大でも小でもいい)、「あー、気持ちいい」などと味わうことがあります。味わう気があれば、誰にでもできると思います。快感を豊かに実感できます。

 幸せを感じる時には、この「味わう」という意識がたいへんものを言う。「味わう」には、欠点探しでなく、いいとこ探しの意味もある。何よりも、幸せを見逃すことなく、自覚できる。

 私たちは、たくさんの幸せを見逃してしまっています。今のあなたにも、気づくことさえできれば、味わえる幸せが必ずありますよ。

 さて、きょうは一体、なにを、どれくらいあじわうことができるでしょうか。それが楽しみです。
 幸せを味わえるのは、「今、ここ」だけです。
 幸せを味わえる対象は、今ここにあるもの、自分が今やっていること、自分が今持っているもの、自分のまわりにいる人、自分が今心に感じられるもの、・・・。

 今を幸せに過ごすこと、毎日を幸せに暮らすことが大切です。それが「人生を味わう」ということなのかもしれません。



6月15日(木)囃す
 『生きるヒント3』の7章は「囃す」。
 〈囃す〉ということは決して主役の仕事ではありません。でも実は、人生において非常に大事な仕事のような気がします。お世辞を言うというのではなく、その人に自信を持たせる、その人の気持ちを明るくする、迷っている気持ちに励みを与える、そんな言葉を、ぼくらは心のどこかにたくさん用意しておきたい、と思うのです。
 「囃す」で私がイメージするのは「盛り上げる」という感じでしょうか。人の気もちや気分を盛り上げるというのは大きいことだと思います。いつでも自分を盛り上げてくれる人がいたらどんなに幸せだろうか、と思ってしまいます。

 「囃す」には「応援する」というイメージもあります。応援するのは、その対象が好きだからファンだから味方だから、ではないでしょうか。いつでも自分の味方でいてくれる人がいたらどんなに幸せだろうか、とも思ってしまいます。
 会話の中で相づちを打つ。その相づちの打ち方が決して軽薄でオーバーだったりするのではなく、心の底からほんとうに、そうよね、そうだなあ、と打てばひびくような相づちを打たれたとき、人間はとても幸福にのです。自信を持つことができます。
 人に何かを相談する時、本当は答えを教えてほしいんじゃなくて、話を聞いてほしい味方になってほしい、という場合が多いのではないでしょうか。それを、「(それじゃダメだ)こうしたほうがいいんじゃない」と言われても・・・。それよりも、「そうなんだ。たいへんだね。どうしたらいいかいっしょに考えよう(で、どうしたいと思ってるの?)」のようなほうが助かるんじゃないかな、最近はそんなふうに考えるようになりました。

 私はその気になれば、相づちを打つのがけっこううまいんじゃないか、と思っています。「ハオハオ」と心の中で言いながら、自然に相づちが打てます。余計なことを考えないから、人の話の途中で反論したり自分の意見を言ったりしないで、人の話をよく聞くことができます。たぶん、それが味方だと感じられるんじゃないか、と思います。
 自分自身を囃し自分自身に相づちを上手に打てるようになったとき、私たちは孤独のなかでも明るく、いきいきした表情で暮らすことができるようになるかもしれない、などと考えるのです。
 自分自身に相づちを打つ、ってぜんぜんイメージがわかない人も多いと思います。
 ハオハオを使うと、こんな感じで自分自身に相づちを打つこともできます。
 「ハオハオ」には「好!好!」(いいぞ!いいぞ!)という使い方もあります。自分自身を囃すこともできます。

 自分だけはいつでも自分の味方でいて自分自身を囃すことができたら、と思います。



6月16日(金)許す
 『生きるヒント3』の10章は「許す」です。

 「許せない!」の解決法として、「許せない対象を変える」「相手に謝らせる」などで「許す」ことを望むのは、それができないことで余計に「許せない」気もちが強くなってしまう気がします。
 「許せない!」そう考えない、はやく忘れてしまうほうが簡単な場合が多いように思います。「許さなくてもいい」のです。相手のためではなく、自分の心の平和のために、気にし過ぎない努力をしたほうがいいと思います。
 「許せない」ことを思い出しても、こんな人もいる、こんな人のためにイヤな思いをするのは損だ、こんなこともある、こんなことより大切な事・人のことを考えよう、ハオハオ、などと考えられたら、と思います。
〈許せない!〉ことを、〈許せ〉というのではありません。そもそも〈許す〉ことは本来、人間の仕事ではないのではないでしょうか。
〈許す〉というのは、どこか傲慢な感じがします。
 なるほど。「人を許す・許さない」なんて言うのは傲慢ですか。
 人を許すなんてそんな権利があるのか。自分はそんなにえらいのか。



6月17日(土)悩む
 『生きるヒント3』の11章は「悩む」です。

 「悩む」とはどういうことか? と考えてみました。
 考えることの一種。考えなければ悩むことはありません。
 苦痛を伴う。考えても少しも苦しくなければ悩んでいるとは言いません。
 子供には子供の悩みが、中学生には中学生の悩みが、また、高校や大学のことにも、それぞれ切実な悩みがあるものです。就職して働くなかでの悩み、家庭人となってからの悩み、恋愛の悩み、生活上の悩み、仕事の上での悩み、病気によっておこる悩み、歴史や社会を考える上での悩み、人生を思うときにわいてくる悩み、じつに悩みの数は浜の真砂ほども多く、そんな悩みの尽きるのは人間がその生を終えるときかもしれません。
 悩みの種は一生なくならないと思います。
 でも、五木さんが書かれた「悩み」は(病気を除いて)そのまま「喜び」や「幸せ」に置き換えられると思います。そして、幸せは星の数ほどある、と私は考えます。「浜の真砂(まさご)」と「星」の数はどっちが多いか比べられませんが、下を向いている人と上を向いている人では見えるものが違うと思います。
 ちょっとしたストレスの発散方法はいろいろありそうですが、個人の悩みを一挙に解決してくれる万能薬など、この世にないことがはっきりしてきます。
 すべての悩みを一挙に解決する1つの方法はないと思います。
 すぐに完全に悩みを解消できる方法はめったにないと思います。だから、少しでも苦しみをラクにする、少しでも悩む時間を短くする、悩みを抱えたままでも幸せに過ごす時間を持つ、などの方法が求められるのだと思います。
 それぞれの悩み、その時その時に、いろんな方法があると思います。そういう悩みに対処する方法を1つ1つ身につけていくことが本質的な方法だと思います

 悩みの種はあっても、できるだけそれを悩みにしない。その事を考えないか、苦しまないように考える。
 悩んでしまう時にも、うまく悩みとつきあえれば、と思います。
 結局、悩みに幸せ向きに対処できるように、自分を育てることが何よりだと思います。



6月18日(日)対治と同治
 『生きるヒント3』の12章の後には、「付・『対治』と『同治』について」という文章があります。駒沢勝さんというお医者さんの「医と私と親鸞」というエッセイについて五木さんが書いています。ちょっと不作法かと思いますが、原文を読まずに又引用させていただきます。
 (前略)その中で加藤氏は、同治と対治について説明されていた。これらは仏教の言葉で、例えば発熱に対して、氷で冷やして熱を下げるのが対治で、温かくして汗を充分かかして、熱を下げるのが同治だ、と説明されていた。あるいは悲しんでいる人に「悲しんでも仕方がない。元気を出せ」と言って悲しみから立ち直らすのが対治で、一緒に涙を流すことによって、心の重荷を降ろさせてやるのが同治だと説明されていた。そして同治のほうが様々の場面で良い効果をもたらす、と言われていた。(後略)
 私も最近同じようなことを考えることもあり、なんとなくわかるような気もしますが、仏教の言葉としての意味はわかっていません。

 病気への対処について考えました。
 自分ではどうにもならないくらい、病気が重ければ、やはり専門家のお医者さんに行く。私は歯医者以外はほとんど病院に行ったことはありませんが。
 ふつうのカゼや腹痛だったら、薬をのんで栄養を摂ってよく寝る。私はふとんを重ねて汗をかいて一晩寝ればだいたい良くなります。「治そう!」と気合いを入れるので暑くても平気です。真夏の夜はすぐにタオルケットもはいでしまうくせに。
 できるだけ軽いうちに手を打って治してしまう、というのがいちばんだと思います。

 もうひとつの方法は、病気にならないようにすることですね。そのためには、普段から体調に気をつけて生活することと、病気になりにくい体にすることだと思います。ぜんぜん病気にならない強い体は理想ですが、少しくらい軽い病気になってもすぐに治せるしなやかな体でも十分だと思います。

 ここでは、体の病気について書きましたが、心の病気についても同じことが言える思います。

 また、このエッセイの中で駒沢先生は「医は否定を基本にしている」と書いているそうです。病気は悪だから(否定)治さなければならないのようなことでしょうか。
 現状が悪でそうあってはならない(許せない、信じられない)、となると、それが改善しないと幸せにはなれない・不幸だ、ということになってしまいます。そういう意識や考えはしていなくても、1つの不幸のために生活全体を不幸にしてしまう人がいます。

 今悪いところ・不幸なことがあってもハオハオ、それでもそれなりに幸せに過ごすことはできるのではないか、少なくとも今よりラクになる方法はあるはず、そのためには?
 このような、ハオハオ(受け入れること)から始まるのと、あってはならない(否定)から始まるのでは、ずいぶん違うように思います。



6月19日(月)ささやかな生きる知恵
 『生きるヒント3』の「著者からのメッセージ」より。
 自分で自分の人生をしょっていかねばならないのです。自分の心を、自分でコントロールしながら、めげずに生きてゆく。
 きのう、きょう、そして、あすと。
 そんななかでほんとうに頼りになるのは、なんだろう。これさえ守っていれば大丈夫、などという万能薬はありません。日々の小さな、ささやかな生きる知恵を大事にしていく。手さぐりで、自分の体験を生かし、内なる声に耳を傾けながら一日一日を乗り切ってゆく。それしか道はないように思われます。
 やっぱり、いちばん頼りになるのは自分、そうしていくのがいちばんじゃないでしょうか。自分を育てることが一番確実な幸せへの道だと思います。
 幸せの万能薬はありません。だから、いろんな薬を持てたら、と私は幸せになる方法を考え続けます。
 「日々の小さな、ささやかな生きる知恵」それが大きいのだと思います。
 それも自分の体験の中で見つかる知恵がいちばん自分には役立ちます。そのためには、自分の感情、内なる声、隠れた思いなどに耳を傾けることだと思います。
 一日一日、それを大事にするのがいちばんです。



6月20日(火)幸せの評価?
 『生きるヒント3』の12章は「幸せ」です。
 このテーマは大好きです。なんといっても、私は自称「幸せオタク」ですから。
 幸せな一生というのはどういうものだろう、と、ふと考えることがあります。
 自分のことについては、まだわからことがある。
 と五木さんは、弟さんのことを考えることにします。弟さんの一生は、はたして幸せだったのだろうか、それとも不幸だったのか、と。
 弟さんは42歳でガンで亡くなったそうです。
 弟さんが、いい友人に恵まれていたこと、若くして病気に倒れたこと、熱中して打ちこめる何かが見いだせなかったとこ、好きだったこと、苦労して育ったこと、「まあ、いいじゃないか」という口ぐせ、若い頃の共に過ごした想い出、五木さんの文筆生活を助けていたこと、などから弟さんが幸せだったかを考えます。
 そこから少し話が変わっていくのですが、最後には戻ってきて次のように書かれています。
 弟が幸せだったか、それとも不幸だったか、ぼくの判断すべきことではないような気もしてきます。
 人が幸せかどうか、それを考える要素はいろいろあります。
 でも実際には、本人以外にはわかりません。人の幸せを評価しても、それはあくまでも推測でしかありません。

 自分の幸せを評価することもあります。今考えると、あの頃(あの時)は幸せだったのだろうか? 自分は今、幸せなのだろうか?
 こういう時、何を基準に自分の幸せを評価するのでしょうか。自分がいちばん求めている幸せが基準でしょうか。人間にとっての幸せというような基準でしょうか。自分の幸せを数える加点法でしょうか。自分の不幸を数える減点法でしょうか。その両方を合わせた加減法でしょうか。

 死ぬ時に「いい人生だった。幸せな人生だった」と言えるように生きたい、そういう人生にしたい、という人がいます。いいことだと思います。
 実際に死ぬ時にそう考えられたのなら、それはその人の人生全体の幸せの評価と言えそうです。

 私が大事にしたい幸せの基準は「幸福感」です。人がどういう評価をしようが、自分がどう感じているか、幸せを感じているか、が自分の幸せの正しい評価だと思います。逆に、幸福感があれば、どんな(ささいな/変わった)ものでも自分にとっては幸せ(の対象)です。

 さて、自分で自分の幸せの評価をすることには価値があるのでしょうか。
 自分のことを幸せだと評価できればそれは幸せなことです。改めて幸せを感じられると思います。
 自分は不幸だと評価したら、不幸な気分になってしまうでしょう。幸せになりたければ、不幸になる考え方はしないほうがいいと思います。

 自分の幸せを評価する評論家になるよりも、自分の幸せを探す・味わう達人になったほうがいいと思います。すぐに達人にはなれそうもないので、とりあえず幸せオタクになってみてはどうでしょうか。


   

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