しあわせ日記 『老人力』
11月1日(月)『老人力』
『老人力』(赤瀬川原平/筑摩書房)を読み終えて、今『老人力2』を読んでいる。
ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代わりに、
「あいつもかなり老人力がついてきたな」
というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。
いいですねー。こういう考え方というか、言葉の使い方というか、遊び心か余裕か開き直りかあきらめかわからない何か軽やかなものがあるというか、シャレがきいているというか。
ぜんぜん違うかもしれないが、私がよく使う「未熟」に似ているような気がした。
何かイヤなことがある。イヤな気もちになる。その原因を考えるともっとイヤな気もちになる。
そんな時、ヘタに考えずに「(自分も)まだまだ未熟だなぁ」と言ってしまう。実際に未熟なんだからしょうがない。すぐに成熟できるわけでもない。こうなったら「未熟だなぁ」と頭をかいて笑ってしまうしかない。
私の場合にはここまでくれば、引き出しがいっぱいあるからその時に役立つ道具が何かしら見つかる。
「老人力」というのは、言葉の発明品のような気がする。「老人力」という言葉の活用法がいっぱいあるようだ。幸せになるヒントにもなりそうだ。
言葉づかいがいつもと違うぞ!
すぐ『老人力』に影響されちゃって
11月2日(火)忘却力
「老人力」の代表は、「忘却力」らしい。
忘れるという能力は、幸せに暮らすためには必要な能力だと思うのですが・・・。
世の中には「忘れられなくて」不幸になっている人がたくさんいます。
「忘れよう」と思っても、忘れられるものではありません。返って逆効果のような気がします。
ところが不思議なことに、それ以上のことがあるとコロッと忘れてしまうものです。失恋した人も、その相手よりもっといい人が現われて恋すれば、前の相手のことは忘れられます。また、もっと不幸なことが起こって、前に苦しんでいたことなんて忘れてしまうこともあります。
そうでなくても時間がたてば、どんなこともいつかは忘れられるはずです。
何か条件があれば忘れられるのに、どうせいつかは忘れてしまうのに、なぜすぐに忘れる事ができないのでしょうか。不思議ですね、人間って。
「忘れなきゃいけない」というのはムリがあると思います。また、「忘れられない」と嘆くのもどうかと思います。どちらも幸せになる方法とは言えません。
私は、忘れられなくたっていいじゃないか、思い出したっていいじゃないか、と思います。思い出すたびに、早めにストップし、方向転換すればそれでいいと思います。その方法は「忘れられない」を参考にしてみてください。本当は、そのたびに「ハオハオ」だけですましてしまうのがいちばんいい思っているのですが。
「忘却力」というのは、自分の思うようにはならない力のようです。そこが「老人力」のゆえんなのでしょう。
11月3日(水)力を抜く力
「力を抜くには抜く力がいるもので、老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける」(『老人力』より)
「力を抜く」というのは、幸せになるためにも大きな要素だと思います。
力が入り過ぎると、柔軟性がなくなり、外からの衝撃を受けやすくなり、ポキッと折れてしまうことだってありそうです。また、何よりも疲れると思います。
「○○ねばならない」というのは力が入っているような気がします。それに対して、「○○たらいいな」や「そのままでもいいんじゃないの」のような考え方は、少し力が抜けていると思います。
力を入れる必要がある時はあります。頑張らなければならない時もあります。でももし、すごくつらくて心が折れそうになったら、「もう少し力を抜いてみたら」「少しの時間でも息抜きをしたら」などと考えられたら、と思います。
「力を抜く」ということは「何かをしない」ということではなく、「少し力を抜いて何かをする」のがいい、ということだと思います。
少し力を抜いて生きられたら、と思います。
11月4日(木)正しさよりも
論理的には正しいはずの方に向かいながら、しかしどうも嫌だなという感じがあるとき、どうする?
老人力のまだない若年時代は、やはりどうしても論理に従う。論理を前に立てる。そうしないと怒られるんじゃないかとか、馬鹿にされるんじゃないかとか考えるんです。
でも老人力がついてくると、まぁいっか、というのが基本だから、論理で怒られたって別にいいというアバウト感覚で、芸術より趣味、思想より好き嫌い、平等よりエコ贔屓の路線で行けるようになる。
つまり理屈の正しさよりも、自分の感覚がいちばんということ。
(『老人力』より)
まさに、ハオハオ(ごもっとも)。
正しいこと・理想を求めることが幸せとは限りません。正しいこと・理想が自分を苦しめることもあります。
だから私は、「どっちが正しいか?」より「どっちが幸せか?(少しでも不幸でないか?)」と考えたいと思います。だから、正しい考え・理想的な考えより、「まぁいいか」「そのままでもいいんじゃないの」「ハオハオ」を選ぶことがよくあります。
「どっちが幸せか?」は、あくまでも自分の心の感覚で決めます。
もしかしたら、私たちが不幸になるのは正しいことや理想を求め過ぎるからかもしれません。(正しいことや理想を求めることが悪いということではありません。「○○はいいこと、○○すぎるのはよくないこと」)
理想の幸せを求めるより、今可能な現実の幸せを求められたら、と思います。そういう現実に自然に気づけるようになるのが「老人力」なのかもしれません。
11月5日(金)眠る力
老人力とは眠る能力のことである。ある意味では。(『老人力』より)
私は元来、眠れないたちだと思う。あれこれ考えてしまって、眠れないで悶々とすることも多かった。
最近は、「眠れなくてもいい」とすぐに考える。そして「幸せなことを考えよう」とします。幸せなことを朝まで考えられたら、それはそれでいいことじゃないか、と思います。実際に朝まで眠らなかったこともあります。昼間眠くなったら、それはその時に工夫すればいい。次の夜はぐっすりと眠れます。
それでいいんじゃないか、と私は思います。だから今は「眠れない」と気に病むことはありません。
と言っても、最近は忙しいのですぐに眠ってしまうのですが。
眠る、忘れるということを可能にするのは、反努力の力である。
そしてまた、『老人力』の中にも書いてありました。
「下手の考え休むに似たり」
不幸になる考えは、休むどころか不快やダメージを与えます。不幸になる考えをするくらいなら眠ってしまったほうがいいと思います。
私がたまに使う“寝たふり”なんかは老人力なのかもしれません。
11月6日(土)幸福力
「老人力」が反努力の力なら、「幸福力」(私の言葉では幸せになる能力)は努力の力です。幸せになる努力をしないで得られる幸せは一時のものです。「幸福力」は努力で育てることができるものです。
幸せになれないのは「幸福力が足りないから」。幸せになりたければ、「自分の幸福力を育てよう」。そのためには、このホームページなどからヒントを見つけて、幸せになる方法を自分で考え・実践し、努力を続けることです。(幸せになる能力養成講座というのもあります)
自分で努力しないで「幸せになれない」と言うのは「甘い!」と、たまにはきびしく言っておきましょう。
努力してもできない 努力が足りない!
きょうはきびしいねー
11月7日(日)不幸力
「不幸力」というのもありそうです。「不幸になる考え方をするクセ」と置き換えたいと思います。不幸になりやすい人は、不幸になる考え方がクセになっています。そして、不幸になる考え方を繰り返すことで、それが上手になっています。(何かに上達したければ繰り返すのがいい)
「不幸になる考え方をしちゃいけない」というのが役に立たないことは、もうわかると思います。不幸になる考えをしてしまうのはしかたがない、無意識なんだから。早く気づいてそこでやめれば、それでいいんです。ハオハオです。
イヤな気もちは次の不幸になる考えを生みやすく、そのまま放っておくと、次から次へと不幸になる考えを積み重ねてしまいます。早く打ち切らないとどんどん不幸に陥ってしまいます。不幸に陥りやすい人は、不幸になるパターンを持っているようです。
自分の不幸になる考え方、不幸になるパターンを知ることは、それに早く気づき・ストップするのに役立ちます。そして、何よりも自分の「幸福力」を育てることが、不幸にならない方法だと思います。
11月8日(月)若いから?
『老人力』の最後に筆者へのインタビューが掲載されています。その中で、「自意識過剰ですからね、若いときって」というインタビューアーの言葉に対して、赤瀬川さんは、
力むばっかりでね。とくに僕なんかは神経質で完璧主義、まぁ若いころはみんなそうかもしれないけどよけいに苦労が多かった。でも、歳をとると完璧主義も単なる癖であって、どのみち完璧になんかいかないものだってこともわかってくる。挫折や失敗も経験するしね。そうなると、とにかく楽しむことが一番、嫌なものはとりあえず放っておけばいいんだ、どうせ全部はできないんだからって感じになって、でも、これもやっぱり老人力なんですね。
ハオハオ、ほんと、そう思います。
私も元来、神経質で完璧主義なんです。そのくせ、ポカっと大きいミスをしてしまうタイプで、その時は反省してもまたすぐにやっちゃう(このへんは今もたいして変わらない)。で、以前はよく落ち込んだりもしました。
最近は、「自分は正しくありたい(そう人に見せたい)」「とにかくはやくやらなきゃ」などの思いが強すぎるという自分のクセも知っているし、現実はそんなにうまくいかない、ってこともよくわかっています。だから、「ハオハオ」なんてものを使うようになったのかもしれません。
とにかく幸せになれることが一番、イヤなものは「ハオハオ」とやりすごしてしまえばいい。
私は「幸福力」がついてきたと思っているのですが、「老人力」も入っているのかもしれません。まぁ、どっちでもいいですが。
そう言えば、私は若い頃から「老人力」があったのかもしれません。中学の時に「おじいちゃん」というアダナをつけたヤツがいて、ひどい時には「ポンジー」とか呼ばれて。私の性格からか外見からかはわかりませんが、そんな雰囲気があったのかもしれません。(閑話休題)
若いから悩みが多いんじゃなくて、「幸福力」や「老人力」が足りないからじゃないかと思います。歳を重ねても悩んでばかりいる人もたくさんいますから。
「まぁいいか」とか「そのままでもいいんじゃない」とか「なるようになる」とか「○○たらいいな」とか「ハオハオ」とか、こういうちょっといい加減そうなものを許せないのは若いからでしょうか。こんなふうに考えられるとずいぶんラクになれることが多いのに。
私は、幸せに暮らしたいと真剣に考えた末に、これらの考えを使いたいと思っています。
11月9日(火)反努力の力
「老人力は反努力の力」ということを、私は一部誤解していたようです。
老人力は自然につくもので自分で養うようなものではない、のようなイメージをもっていたようです。
世の中には自分ではどうしようもないことがある。変えられないもの、努力してもできないこと、手に入れられないもの、など。また、「すぐには」「今は」「すべては」「完全には」などの条件がつくこともあります。
このようなことは、頭ではわかると思います。ところが、自分の現実問題については、そのように考えられるでしょうか。なかなかできないことが多いのではないでしょうか。
もし、自分の抱えている問題が「(条件つきでも)どうしようもないこと」だと気づくことができれば、次は「では、どうすればいいか」ということになります。そこで使えるのが「老人力」です。
「ムダな努力はしない」「ムリをして苦しまない」など(本来の「反努力の力」)です。簡単な方法なら、「まぁいいか」「それなりに」「ハオハオ」など。
世の中には自分ではどうしようもないことがある、ということを本当の意味で知るためには、自分の体験から学ぶのが一番ではないでしょうか。自分の悩みや苦しみや失敗や挫折などから。
そこで違いがでるのが、そういうものから学べるか学べないかです。学べた人は老人力がつき、学べなかった人はいつまでたっても同じことの繰り返しです。
自分が生きていく中から、自分で学ぼうとする人は、自ら老人力を育てることができる、と今は思っています。
11月10日(水)老人力は幸福力の一種
「老人力」は「幸福力(幸せになる能力)」の一種だと思います。
「まぁいいか」「そのままでもいいんじゃない」「それなりにやるしかない」「しょうがない」「こういうこともある」「こんな人もいる」「思い通りにならないことも多い」「なるようになる」「そのときはそのとき」「どうにかなるさ」「○○たらいいな」「マイペース、マイペース」「自分は自分」「自分はまだ未熟だなぁ」など、このホームページに書いてある中にも、「老人力」が含まれているものがたくさんあります。
幸せに暮らせるようになろうと本気で思ったら、現実に合わない考えが自分を苦しめるということがわかるでしょう。そういう現実を自分が生きていく中で学び、「老人力」「幸福力」を養うことが大切です。
私が老人力を発揮している極致は「ハオハオ」でしょうか。
『老人力2』の中に犬の写真があって、その下に「好々犬」と書いてありました。私は迷わず「ハオハオケン」と読みましたが、「好々爺(こうこうや)ならぬ好々犬」と書いてありました。
私は「好々爺(ハオハオじいさん)」になりそうです。それも「老人力」たっぷりの。もちろん「幸福力」も。
私は好々鳥
フクロウ(梟)って漢字知らないんじゃない!?