しあわせ日記

7月21日(日)旅の評価・高知旅行を終えて
 高知旅行から帰り、事務所についたのは午後4時前。
 旅行中の日記を書き始めたのですが、なかなか書けません。
 旅行の行程や私的なことは書こうと思えば書けるのですが、・・・

 書こうと思うと、ついつい旅の評価のようになってしまいます。
 何かを自分がした後に、自分で悪い評価をしてしまうと、落ち込んでしまったり、その事に関して自信をなくしたりしてしまいます。
 自己評価(の基準)がきびしい人は、特にそういう傾向があると思います。私もかつてはそうでした。

 自分(の生き方)に対する評論家にならないほうがいいと思うのです。
 自分のサポーターになれたら、と思います。自分を応援し、うまくいったらいっしょに喜び、うまくいかなくても自分の心を支え・励ませるようになれたら、と思います。

 「人生」はよく「旅」に例えられると、おとといの日記に書きましたが、「人生の評価」や「旅の評価」は必要なのでしょうか?
 実際には、評価をしない人も多いような気がします。
 ただ単に、「よかった」「楽しかった」「幸せだった」ぐらいがいいような気がします。少なくとも、悪い評価はしないほうがいいでしょう。実際にどうであっても、いつでも「好!好!(または、好好)」と思える自分であれたら、と思います。



7月22日(月)初心を思い出す
 高知旅行中、竜馬はここでどんなことを考えていたのかなぁ、などと考えることが度々ありました。
 「竜馬はここで、自分のことを考え、土佐藩のことを考え、日本のことを考え、自分の夢について考えていたのかなぁ」などと。

 私は、20代半ばに『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)を読んで、「夢をもって生きよう」と考え、その結果として自分の生き方が大きく変わりました。
 それは今も変わっていませんが、もう少し夢や目標に力を入れたほうがいいかな、と思いました。

 私には、このHPに関する長期の夢や目標もあるし、「幸せに暮らそう」という生活目標も、「自分を育てよう」という人生目標もあります。
 それはそれとして、当面の夢・目標は次の本を書いて出版することです。それは『ハオハオから始めよう』なのですが、書き方に関する迷いがありました。マンガ的な軽い本か、マニュアル的な重い本かということです。
 そろそろ決断したほうが良さそうです。第三の選択をしないためにも。

 ということで、両方書くことにします。つまり、2冊分の原稿を書くことです。
 一つは、『いいことは好!好! 悪いことはハオハオ』というフクロウのキャラクターが登場する軽い本。もう一つは、『ハオハオから始めよう』という深さもある本です。
 とにかく両方書いてみることにします。



7月23日(火)自信
 「心の言葉」の掲示板に、ネコさんが「自信」について、次のように書いてくれました。

   自信っていう言葉は「自分を信じる」って書くんだなぁ。

 そうなんですよね。自信があるのは自分を信じていることで、自信がないのは自分を信じていないわけですよね。

 ところで、「信じる」というのと「信じられる」というのは違いますよね。
 「自(みずか)ら信じる」(自分の意思で信じる)と「自(おの)ずから信じられる」(ひとりでに、自然に信じることができる)だとわかりやすいかもしれません。

 「自信」の場合には、自ら信じるものでしょうか? 自ずから信じられるものでしょうか?
 自分で信じようと心がけることで自信をもつことができるのか?
 自信をもてるかどうかは感覚的なもので、自分の意思や心がけでは変えられないのか?

 ふつう、自信をもつためには、勉強や練習や訓練をしたり、実践経験や成功経験を積むことを考えると思います。
 イメージトレーニング(たとえば、うまくいくイメージを繰り返し思い浮かべること)で自信を高める方法もあります。

 自信があるかないかは、その人が楽観的か悲観的かによっても、ずいぶん違うような気がします。
 いくらトレーニングや実戦経験を積んでもすごく悲観的な人は「自信がある」とはなかなか思えないでしょう。でも、自信がないほうが努力を続けられて、いい結果に結びつくことも考えられます。

 自信がある人と自信がない人では、自信がある人のほうがいい結果を残せそうな気もしますが、それは人の組み合わせによって違うのではないでしょうか。
 同じ能力の人なら、自信がある人のほうがいい結果が残せそうな気がします。
 同じ人なら、自信をもってやったほうが、自信がなくてやったより、いい結果が残せそうな気がします。
 でも、自信がある・ないなどと考えずに、無心になってやれる人のほうがいいのかもしれません。

 「自信」っていうのは、よくわかりません。
 あまり「自信」にこだわらなくてもいいのではないでしょうか。

 年内に両方は難しいかもしれませんが、遅くとも3月までには書き上げたいと思います。

 「夢を心にもって生きよう」。
 竜馬に出会ったあの頃を思い出して、ワクワクドキドキできる生き方ができたらいいな、と思います。



7月24日(水)自殺
 「平成13年中における自殺の概要資料」(警察庁/PDF形式=すごく重い)が発表になりました。

 昨年1年間の自殺者は3万1042人で、4年連続して3万人を越えた。交通事故死者の3.5倍だそうです。
 全体の71.3%が男性。年代は60代以上が35.1%、50代が25.4%、40代が15.3%。
 原因・動機は、健康問題48.8%、経済・生活問題22.6%、家庭問題8.6%、勤務問題5.7%、男女問題2.5%、学校問題0.7%。

 「自殺」については、次のように書いたことがあります。
 自殺をしてしまうのには、苦しみから逃れたい、希望がない、衝動的なもの、生きる意味がわからない、の4つがあるように思います。

 現在の苦しみから逃れたい、と自殺を考えてしまうことが多いと思います。
 たいへんなつらい現実があるのだと思います。でもきっと、何か方法はあるはずです。自殺をするくらいなら、他にきっと。

 現状から逃れるために、自分の命や人生をやめてしまうくらいなら、他に何かやめてしまったほうがいいものがあるはずです。学校・受験、会社・仕事、人づきあい、住む場所、家庭、・・・。自分の命より大切なものではないはずです。

 “やめる”前に“休む”ことができる場合もあると思います。死ぬくらいなら、思い切ってしばらく休んでしまったほうがいいと思います。休むことで時間ができたら、自分を育てる(幸せになる能力を向上させる)ことに使ったらいいと思います。そのままの自分では、またどこかで同じ事の繰り返しになりがちだと思います。休むことは、自分を育てるいいチャンスだと考えてみてはどうでしょうか。

 時には、何かを“やめる”“休む”勇気も必要なのではないでしょうか。

 「希望をもつ」ことについては、先日書きました。「人生の目的」についても書いてあります。

 自殺のニュースを見るたびに私は思います。「もったいないなぁ」と。
 生きていればいろんな幸せを感じられるはずなのに、と。



7月25日(木)感謝できる心
 なんか最近、明るいニュースが少ない感じがします。
 スポーツのニュースぐらいかもしれません。イチロー選手などの海外での日本人選手の活躍とか。

 ところで、この日記のページにある「私の幸せ」の掲示板って、私はけっこう好きです。
 いろんな幸せがあることがわかります。
 身の回りにある幸せに気づけることが大事なんだなぁ、と思います。
 自然に「感謝」という言葉が使われている感じがします。

 『幸せになる方法』の中やこのHPの最初の頃には「感謝する」ことを書いたのですが、最近はほとんど「感謝」という言葉を使わなくなっています。
 やはり、無理に感謝をするというのは違和感があると思います。単に、「うれしいなぁ」「ありがたいなぁ」「幸せだなぁ」「好!好!」とか思えればいいのではないかという気もします。

 『幸せになる方法』の中には、「感謝をすると幸せを感じられる」と書いたのですが、幸せを感じた時にそれを素直に心から感謝することができると、さらに幸せを感じられるというほうが自然な感じがします。
 「素直に感謝できる心」は素敵だと思います。



7月26日(金)小さな幸せ×?
 勉強会が夜7時からあったのですが、久々の新宿だったので、ちょっと早めに出る。小田急線に乗るとクーラーが気もちいい。寒すぎずにちょうどいい感じでした。
 下北沢で私が立っていた真ん前の席の女性が立ったので、素直に座った。「あー、ラク。小さな幸せー」とか思ってしまう。

 紀伊国屋書店・新宿南店(高島屋タイムズスクエア)に寄ったら、ありました。5F・社会・心理一般の所に『くよくよしない考え方』が平積みで5冊ぐらい(好!好! 素直にうれしいです)。手に取ってみたら、第2版でした。ということは、初版の10冊は売り切れたということですよね(好!好!です)。

 きょうの勉強会のメイン・テーマは、高知旅行報告です。私は、すでにWeb上で報告してあるのですが、もうひとりの仲間が撮ったビデオを上映したりしました。高知旅行中の秘話(大したことありませんが)もいろいろ。
 会議室での勉強会が終わっても、引き続き飲み会でついつい長居をしてしまい、また遅くなってしまいました。なんと言っても、長いつきあいですので(学生時代からあと数年で30年ですから)気ごころも知れていて、気ラクな仲間とのハッピーな時間です。

 小田急線の最終の急行は相変わらずけっこう混んでいました。途中で前の席が空きましたが、隣に立っていた(私より)お姉さんに譲りました。その方が新百合で降りたので、一駅座ることにしました。(またまた、小さな幸せです)

 いい気分のまま、この日記を書きました。
 さぁー、気もちよく寝れるぞー。

好!好! よかった、よかった・・・    ・・・



7月27日(土)小さな幸せ×?
 いつものように朝、HPの更新を終え、メールの返事を書き、ちょっとネットを見て、朝ドラ「さくら」を見る。
 ひと息ついて、きょうは9時頃散歩にでかける。いい天気。45分ぐらい歩いて戻ると、すごく気分がよくなっている。
 1階で管理人さんと出会い、「おはようございます」とあいさつ。そのまま二人でエレベーターに乗る。「暑いねー」「そうですね。ちょっと歩いたらこんなに汗かいちゃって」と、私は自分のシャツを指さす。
 部屋に戻って、さっそく朝風呂に入る。
 風呂上がりに扇風機の前に座ると、気分は爽快。
 「好、好。幸せだなぁ」と思う。

 夕方、バスケットの練習に行く。
 電車の中で、高知のおみやげを持ってくるのを忘れたのに気づく。「ハオハオ(まぁいいか)。来週持っていけばいい。
 体育館の中は蒸し風呂という感じで、とどまることなく汗がでる。その分いっぱい水分をとる。だからまた汗が噴き出す。
 きょうはちゃんと練習にフル参加。安全のためにまだ腰にサポーターをしているが、痛みも違和感もない。無事、完全復帰できたようです。
 練習後は水分を摂るのを控え、いつもの居酒屋へ。
 最初のビールが最高!「あーーーー。(幸せー)」という感じです。
 また、遅くまで飲んで、きょうは帰ってすぐ寝てしまいました。
 (身体が疲れていたせいか、朝、寝すごしてしまいました)



7月28日(日)幸せの帽子

 すべての人が幸せを求めているはずです。
 しかし、幸せにはいろいろあって、
 簡単に得られるものもありますが、
 そう簡単には得られないものもあります。

 誰にも不幸は時々やってきます。
 「不幸は幸せに変えることができる」
 そう私は信じています。
 一時的に不幸になってしまうのは
 しかたがありません。
 でも、その不幸から逃げずに
 よく見つめてみれば、
 幸せのヒントが見つかります。
 不幸をいい経験にすることもできます。
 不幸を幸せに向かういいきっかけや
 心のエネルギーにできることもあります。
 すべての人が幸せを求めている
 しかし幸せというものは
 そうやすやすと
 やってくるものではない
 時には不幸という
 帽子をかぶって
 やってくる
 だからみんな逃げてしまうが
 実はそれが幸せの
 正体だったりするのだ
  (後略)

 「幸せの帽子」坂村真民
(『詩集 二度とない人生だから』
 [サンマーク出版]より)

 それにしても、「不幸という帽子をかぶった幸せ」とはすごいですね。

 「自分を育て(幸せになる能力を向上させ)ていけば、少しずつ幸せになれる」と考えるのなら、不幸はいちばん自分を幸せにしてくれるものかもしれません。(不幸を幸せに変えることができれば、ですが)



7月29日(月)ハブる
 今週の生きるヒントは「仲間はずれにされている」にしたのですが、きつい問題ですね。
 ネットで調べてもみたのですが、けっこう多いという気がしました。学校/職場/近所など、人が集まる場ではどこでも起こり得ることのようです。特に、女性の仲間・グループでは多そうです。

 「ハブ」という言葉をご存知の方も多いと思います。私も知ってはいましたが、その語源が「村八分」のハチブを略したということははじめて知り、少し驚きました。
 しかも、「ハブる」「ハブ(に)する」「ハブく」など、意図的に仲間はずれをする時に使われているのです。それは悪意をもった行為で、それも集団によるものであり、恐ろしくすら感じられます。
 「仲間はずれ」と言っても、様々な形でいろんなレベルがあるでしょうが、ひどいものは「いじめ」です。
 このような行為をする人が増えるのは、悲しいことです。

 少なくとも、そういうことをする自分にはなりたくない、と思います。
 本来なら、仲間はずれになっている人がいたら、声をかけて仲間に入れてあげるやさしい人がいてもよさそうなのですが・・・。
 できれば、そういう自分になれたらいいな、と思いました。



7月30日(火)ハブられる恐れ
 ハブられる(仲間はずれにされる)ことを、すごく恐れている人も多そうです。
 その不安があることでそれなりに気を遣うことは、いいことだと思います。
 でも、恐れすぎ・気の遣いすぎは、疲れるし、人(仲間)づきあいを楽しめない原因にもなってしまいます。

 怖れや不安が強いと、そのことに敏感になってしまうものです。
 ちょっとしたことでも「ハブられている(のではないか)」と思ってしまいがちです。
 小さいことは(ハオハオと)軽く受け流してしまえば問題ないものを、勝手に思い込んだり疑ったりすることで、仲間からはずれる行動を自らとってしまう人もいます。

 「ハブられ」でネットを検索すると、「ハブられてるみたい」「ハブられてるかも」「ハブられ気味」「ハブられそう」というようなフレーズがけっこう目につきました。
 そのような時は、実際には意図的な仲間はずれでなく、成り行き上の仲間はずれ状態(かつ、そういう人を迎え入れてくれるやさしい人がいない)の場合も多いのではないでしょうか。

 できれば、恐れや不安ではなく、人(仲間)づきあい(の楽しみ)に期待したほうがいいと思います。(ただし、期待しすぎないように「楽しめたらいいな」ぐらいで)
 そして、実際の現場では、「いいことは好!好! 悪いことはハオハオ」の要領でつきあうことができたら、と思います。



7月31日(水)仲間意識
 意図的な仲間はずれがあるのは、仲間意識がおかしくなっているような気がします。
 仲間意識が、仲の良さや信頼関係や協力などのいい方向に働けばいいのですが、逆に拘束や強制が強くなって恐怖や不安を生んでいるのではないでしょうか。

 本来なら、仲間の中でも個(性)が尊重されるべきなのに、グループ(リーダーの意向?)が過度に尊重されてしまうようです。
 また、他のグループへの対抗心や、自分たちのグループに属していない人への外部者・よそ者意識も強いような気もします。
 そのために、仲間はずれにすることが、悪いこと/すごくカッコ悪いこと/人間として恥ずかしいことと思えなくなっているのではないでしょうか。

 足りないのは「思いやり」ではないでしょうか?
 それがないとなんのための仲間だかわかりません。
 本当の仲間にはそれがあるはずだと思うのですが・・・。

 思いやりのある仲間(その中のリーダー的存在)もある(いる)と思います。
 そういう仲間になれたら、と思います。
 それには、「まず自分から」でしょうか。