しあわせ日記

1月1日(月)心新たに

明けまして、おめでとうございます
 
 新年に、自分の生き方・今年の目標などを考え直し、気もちを新たにできるというのは、すごくいいことだと思います。

 私の場合には新年と言っても、別にこれといって考えることもないような。
 自分の今の生き方に確信をもっているし、やりたいこともわかっている。やっぱりそれは幸せなことなんだと思います。

 と、こんなふうに自己満足してしまうのが、私のいいところでもあり、欠点なのかもしれません。
 もっと強い気もちで、自分の目標に立向かっていったほうがいいのでしょう。
 でも、私は「うまくいったらいいな」と思いつつ、今を幸せに過ごすことを忘れたくありません。その結果よりも過程の幸せを大切にしたいと思っています。

 あなたも新たな年明けにあたって、自分の夢や今年の目標を確認してみてはいかがでしょうか。
 自分の夢や目標が今はまだ見つかっていないという人は、それを見つけることを最初の目標にするのもいいと思います。本気で探せばきっと見つかると思います。
 また、もう少し幸せに暮らせるように、という目標をもつのもいいと思います。

 私も自分の夢と人生目標に向けて、心新たに頑張っていきたいと思っています。
 21世紀もよろしくお願いいたします。
                          本多時生



1月2日(火)禅の本
 年末から「禅」に関する本を読んでいます。
 「禅」には、その根本となる四聖句(“不立文字”“教外別伝”“直指人心”“見性成仏”)があるとのこと。
 『禅の本』(学研)によると、“不立文字”(ふりゅうもんじ)とは「文字にしても伝えることができない」「悟りの境地は文字で表現できない純粋経験である」とのこと。

 と、私はよくわかっていないのに書いていますが。
 私が「禅」を始めようと思ったわけではありません。いつものように本の中から考えるヒントをいただこう、ということです。

 私はたぶん一生、「座禅」はしないのではないかと思います。
 私はちゃんと足を組むことができないし、正座もあぐらも苦手です。正直言ってしたくありません。
 それに私が敬愛する竜馬が言っています。
禅寺に行って、半刻、一刻の座禅をするよりも、むしろそのつもりになって歩けばよい」(『竜馬がゆく』司馬遼太郎)
 歩くのは好きなので大賛成です。

 『禅語百選』(松原泰道/祥伝社)には、“不立文字”について「文字や言語には限界があって、それだけでは十分に表現できないものがある」「禅体験に立って文字や言句を見よ! ということでありましょう」と書いてあります。

 「幸せ」に関係する本を読んでも、そこから何かを見つけて自分の幸せの役に立てなければ意味がない。また、自分の実生活の体験に立って幸せになるヒントを見つけろ! というようなことを考えました。
 私も「禅」に関する本から幸せになるヒントを見つけて、自分の生活の中で役立てることができたら、と思います。



1月3日(水)本を読んでも
 『禅の本』(学研)によると、“教外別伝”について「教典や教学以外に別に伝えられるもの、つまり教外別伝のほうが大切」、「たとえば、あなたが水泳を習うとしよう。だが、いくら教則本を繰り返し読んでも、絶対に泳げるようにはならない」とのこと。
 いくら本を読んでも実際にやらなければできるようにはなれない、というのは当たり前のことなんですが・・・。

 自転車/自動車の運転や、楽器の演奏や、スキーなどのスポーツもそうだと思います。本を読んだだけではできるようにはなれません。
 また、こういうことを習い始めた頃を思い出してみるとよくわかると思います。やりはじめは、うまくできないし、いろいろ考えちゃってけっこうたいへんなものです。でも慣れれば、それなりにラクにできるようになります。すごくうまくなろうと思ったら、たくさんの練習が必要です。また、いい先生に教わったり本を読んだりして勉強・研究することも大事なことです。

 自分の心の運転もまったく同じだと思います。実践しながら実感していくことが肝心です。
 そして、何よりも大事なことは自分の生活の中で心のいい運転を心がけることだと思います。本やこのホームページを読んだだけではほとんど役に立ちません。それを参考に自分の生活の中で試し、工夫しながら、1つ1つ身につけていかないと、もったいないのではないでしょうか。

 禅の目標が“悟り”にあるのかどうかはよく知りませんが、答えは1つではないのではないでしょうか。だから、文字や言葉では伝えることができないんじゃないか。答えはその人ごとにあるんじゃないか。そして何より、答えは自分で見つけなければ意味がないんじゃないか。などと考えてしまいました。

 幸せになる方法もその人ごとにあるんだと思います。どんなものでも自分が幸せだと思えなければそれは自分の幸せではなく、どんなものでも自分が幸せだと思えればそれは自分の幸せ。またそれは、時とともに、自分が変わっていくとともに、変わっていくものだと思います。

 私が最近「幸せ」だと思えることの中には、少し前には「幸せ」と思えなかっただろうことがいろいろあります。たぶん、10年後に私が感じている「幸せ」もだいぶ変わっているんじゃないか、なんて思います。

 本を読んだり人から聞いたりしながら自分で経験していく中で、自分なりの答えを見つけていく、というのがすごく大事なことなんじゃないか、と思いました。



1月4日(木)幸せは心の問題
 『禅の本』(学研)によると、禅の四聖句の1つ“直指人心”(じきしにんしん)は「人(自分)の心をただちに指し示す」「いたずらに、眼を外に向けても時間のムダで埒(らち)があかない。あれこれ考えずにじかに自分の心を見つめよ」ということ。

 幸せにも同じことが言えると思います。
 幸せを感じるのは心です。自分が幸せだと感じられることが肝心です。
 自分の幸せを探すのにも、まず自分の心を見つめることからではないでしょうか。自分のやりたいことや好きなものは自分の幸せの大きなヒントだと思います。
 幸せを感じられるかどうかは心の働きによるところが大きいと思います。自分の心の特徴やクセを知り、心の働き(幸せになる能力)を改善・向上させていくことが重要です。

 また、『禅の本』の中に次のような言葉が紹介されていました。
「禅僧といえども、何かに悩む。その悩みから解放され、幸せな生活を送りたい。こう思って、禅の寺に入ってくるわけです。幸せだと思ったり、不幸だと思ったりする心とは何か。このことを教えるのが禅です」(平田精耕師)
 やっぱり、出家する人も「幸せ」を求めているんですね。
 「幸せだと思ったり、不幸だと思ったりする心とは何か」を禅が教えてくれるのなら、私も教わりたいとは思うのですが・・・。
 とりあえずは、「禅」に関する本を読んで自分の心を見つめ直してみようと思います。

 幸せは心の問題だと思います。
 「幸せになりたい」という人の中には、「○○れば」「○○たら」などと現実(外)の変化しか考えない人も多いような気もします。「自分の幸せになる能力が向上すれば」「幸せに暮らせるような自分になれたら」(幸せになれる)のように自分(内)の進化を考える人のほうが少ないと思います。

 幸せになるために「自分を育てる(幸せになる能力を向上させる)」というのが、私の人生目標です。そのためには、「自分の心を見つめる」ということが大切なんだ、とあらためて思いました。



1月5日(金)心を磨く
 『禅の本』(学研)によると、禅の四聖句の1つ“見性成仏”(けんしょうじょうぶつ)とは、「自分が備えている仏性に目覚めれば、仏に成るという意味である。仏になるとは、結局、本来の自分に戻ることにつきる」ということだそうです。また、「森羅万象(すべての人/物・・・)に“仏性”(仏の性質)が宿っている」というのは仏教の基本理念だそうです。

 私は、仏・仏性が何かもよくわからないのですが、これをヒントに「幸せ」について勝手に考えてみます。
 幸せは自分の内にある、という考え方はいいんじゃないかと思います。そう考えれば、幸せ(になる方法)を外に求めるのではなく内に求める、という考えにもつながります。
 「自分を磨く」という言葉があります。自分を宝石の原石と見なせば、磨けば光り輝くんだ、と思えます。自分は磨けば光る宝石なんだ、と誰もが思えたほうがいいはずです。
 自分の心(幸せになる能力)を磨けばきっと幸せになれる。と、いつものパターンにもっていってしまうのは安直な気もしますが・・・。

 「幸せは心の問題、自分の心を磨けばいい」と言っても、私たちは現実の世界を生きるのであって、どう幸せに生活できるかが現実問題です。
 でも現実に自分を動かすのは自分の心です。自分がどう考え・どう行動するかによって、幸せを感じられるか/不幸を感じるか/何も感じないかが変わります。
 日常的に幸せを感じて生活できるようになるためには、それだけの心の能力が必要だと思います。

 「幸せになるためには何もしないでも自分が今ここにいるだけで幸せと思えればいい」
 このような答えが、ここまで「禅」に関する本を読んできて、頭に浮かんでくるのですが・・・。
 でもやっぱり、これは1つの答え・1つの幸せになる方法かもしれないけど、幸せになる方法はもっといっぱいあって、いろんな幸せを感じて生活できるようになりたい、という私の考えは今のところ変わりません。



1月6日(土)幸せの価値
 禅にはたくさんの公案(「修行者に認識の手がかりとして与える命題」『禅語百選』より)があります。そのうちの1つ。
 ある僧が趙州和尚に尋ねた。
「犬のようなものにも、仏の性質がありますか」
「ない」
「なぜないのですか」
「自分に仏の性質があることを知らないからだ」
                 (『禅の本』より)
 いわゆる禅問答というやつですね。
 ここで私が考えたのは、
「犬にも幸せがあるか?」「ない。自分が幸せだと知らないからだ」
 と、誰もが予想の通りでした。

 人から見て幸せそうな人でも、本人が幸せだと思っていなければその人は幸せではない。
 幸せの対象を持っていても、それから幸せを感じられなければ持っていないのとあまり変わらない。
 「あなたは幸せですか?」に、「はい」と今こたえられる人は、幸せに暮らせるはず。
 死ぬ前に「幸せな人生だった」と言える(ように生きたい)のなら、その人生の途中でも「幸せだ」と気づけたほうがもっと幸せ。

 ちょっと待った。「自分に仏の性質があることを知らないからだ」というのは、知らないだけで犬にも仏性があるということではないか。だったら答えは「ある」じゃないか。そもそも「森羅万象に仏性が宿っている」というのが仏教の基本理念じゃなかったの?

 『禅語百選』(松原泰道/祥伝社)には次のように書いてあります。
 趙州は別の僧から同じ質問をうけて今度は「有」と答えています。趙州ほどの高僧が、口から出まかせを言うとは思えません。相反する二つの答えがあるとはどういうことでしょうか。どちらでもいい、同じことで少しも支障がないということでしょう。
 このへんが禅の考え方のおもしろいところであり、深いところなんじゃないかと思います。

 誰もが幸せを持っている。また、誰にも幸せとの出会いがある。
 でも、本人がそれに気づかなければ幸せを感じることはできない。
 自分が持っている幸せ/幸せとの出会いに気づき・幸せを実感できるようなれば、それだけで相当に幸せに暮らせるようになる、と思います。

 「幸せは感じられなければ価値がない」と、私は思うのです。
 それには、まず気づけること。そのためには、自分の幸せに気づく能力も必要だと思います。



1月7日(日)○○自体の幸せ
 禅の開祖はインドから中国にやってきた達磨(だるま)だそうです。
 中国に到着した達磨大師に対し、梁の国の王である武帝が尋ねた。
「私は、これまで多数の寺を造り、経典を写させ、僧侶を育成してきた。こうまでした私には、どんな功徳があるのか」
「功徳などまったくない」
                 (『禅の本』(学研)より)
 達磨はなぜこうこたえたのか。
 功徳ほしさにするのなら、どんな善行でも役に立ちません。
(中略)
 要するにエゴ的行為にすぎません。エゴ心を満足させる行為を、信心の名で美化しようとする醜悪さを、達磨はズバリと抹殺します。
                    (『禅語百選』より)
 私は、「幸せになる方法」の1つとして「人を幸せにする」ことを入れています。
 人のために尽くしているのに、「それをわかってくれない」「ありがとうのひと言もない」「見返りがない」「幸せになれない」などと考える人がいます。
 私は、人を幸せにすること自体が自分の幸せ、だと考えます。だから、人を幸せにすること・喜ばすことが自分の幸せ・喜びだと思えることが大切だと思います。

 私は、「幸せになる方法」の1つとして「夢を持って生きる」ことを入れています。
 そして、夢は結果より過程を大切にしたい、と思っています。
 苦しいこと・つらいことがあっても、やれる幸せ・充実感などの幸せを感じる努力を忘れずに、夢を持って生きること自体を幸せに思って生活できたら、と思います。

 「幸せになる方法」を実践してみたけど幸せになれない、という人もいます。「いつになったら幸せになれるのでしょうか」という人もいます。
 私は、幸せになる方法は実践したその時に自分の心にいい影響があることが何より重要だと考えます。イヤイヤや無理してやる必要はないと思います。今の自分には合わない方法もたくさんあります。でも、やる前から無理だと思ったり、一生懸命に工夫や努力をする前に合わないと決めつけるのはよくないと思います。

 「なんのためにするのか?」
 自分の幸せのため。だったら、喜んでやれることが一番ではないでしょうか。そのためには、やること自体の幸せ・今の幸せを大切にすることが大事なんじゃないか、と思うのです。



1月8日(月)日々是好日
 「日々是好日」(にちにちこれこうじつ)は禅の言葉だそうです。でもその意味は、
「毎日毎日が好い日ばかり」と、日常を楽観しているものではないのである。
 たとえどんなことが身に起きようとも、その日一日を「好い日」だと受け止め、向上していけというのだ。 (『禅の本』より)

 吉川英治氏の「晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」の一言は「日々是好日」に近いといえましょう。 (『禅語百選』より)
 確かに「好い日」もあれば「好くない日」もあります。多いのは「普通の日」じゃないでしょうか。
 でも、それを決めるのは本人で、その日の気分によるところが大きいような気がします。気分よく生活する習慣を持つことが、日々幸せに過ごすことにつながると思います。

 私はやっぱり、「ひびこれハオにち」と勝手に読みたいと思います。
「いい日は、好!好! 悪い日は、ハオハオ」と。
 いい日はすごく幸せに、普通の日は幸せに、悪い日はそれなりに、過ごせたら、と思います。

 「日々是好日」は目標でいいんじゃないか、でも努力を続ければほとんど「日々是好日」にできるようになれるんじゃないか、と思います。
 自分で「好い日」にしよう、という気もちが大切なんだと思います。



1月9日(火)もうひとりの自分を育てる
 師彦(しげん)という禅僧が中国にいたそうです。
 師彦は、石上で座禅をしました。普通はただ黙って座るか、あるいは心中に公案(禅の命題)を黙想するのが普通で、声を出す者などありません。
 ところが、師彦はときどき大声で独語のように「主人公」と呼び、かつ自分で返事をするのです。さらに、「目ざめていなさい」「はい」「将来ともに、だまされるなよ」「はい、はい」と一連の自問自答をくり返したのです。
 と、『禅語百選』にあり、著者の松原泰道さんは次のように書かれています。
 人間とは、現実の感性的自我と、本質の本来的自己の同行二人の存在です。感性的自我がどのように醜悪でも、その心の奥底で清浄な同行の本来的自己が凝視していると信ずるのが、禅の人間観です。

 この二人の話しあいが多いほど、その人がらは豊かになり、少ないほど貧しくなります。

 「主人公」とは、自分の中のもう一人の自分を呼び、あこがれる尊い呼び名なのです。
 私は『幸せになる方法』の中に「もうひとりの自分を目覚めさせ、育てる」ということを書きました。“幸せになろうとする”もうひとりの自分を育てるという考え方です。

 今の私の場合には“もうひとりの自分”を簡単に表現することができます。
 本多時生の「トキオ」はペンネームです。トキオは幸せ志向のもうひとりの自分です。以前からの悲観的な考え方をしがちな自分もいますが、だんだんトキオ(的な思考)が増えてきています。自分がイヤな気もちになった時には、すぐにトキオが顔を出すようになり、幸せになる考え方ができることが多くなりました。(なんか二重人格みたいですね)

 (もうひとりの)自分を育てるためには、自問自答(二人の話しあい)が不可欠だと思います。
 私は、自分のイヤな気もちに気づいた時には、「不幸になる考え方をしているのではないか?」と自問し、「そうだ」「あ、またいつものクセだ」のような自答をします。さらに、「では、今の幸せになる考え方は?」と自問することで、幸せになる考え方を心がけています。
 また、自分が「大切にしたいものは何か?」「やりたいことは何か?」「幸せにしたい人は誰か?」などは、自分に聞くしかありません。すぐにわからない時には、ヒントを探してあげたりしながら時間をかけてねばり強く聞いてあげたほうがいいと思います。

 自分を育てる方法としては、自分の思いを紙に書き出してみるのもいいと思います。
 人に見せるわけではありません。自由に書いていいと思います。
 書いたものを自分で読み直すだけでも効果があると思います。もし読みづらいようなら、時間をおいてから読んだり、ハオハオを使いながら読んでみるといいと思います。自分の心がだんだん見えてくるのではないかと思います。

 “もうひとりの自分”というのは、あくまでもイメージの話なので、ピンとこない人は気にしなくていいと思います。でも、自分の中に“幸せになろうとする”もうひとりの自分がいる、また禅の人間観のように心の奥底に清浄な本来的自己がいる、と思うことで、たとえ微かにでも自分を信じて幸せの可能性を探すことができるような気がします。

 未熟な自分はそのままでも、もうひとりの自分が成長すれば、・・・。



1月10日(水)今年のテーマ
 私の今年のテーマは「自分を育てる」にしようと思います。
 「禅」に関する本を読み出したのもそれが目的だったような気がします。

 今回、『禅の本』(学研)と『禅語百選』(松原泰道/祥伝社)を読みました。両方とも以前に読んだことがあったのですが、あまり印象には残っていませんでした。
 ところが今回はすごく考えるところが多く、たいへん参考になりました。ものの見方・考え方など根本的なことを見直すことができたと思います。私がいろいろなことを考えてきた経験があったからではないかと思います。それだけ、「禅は深い」ということでしょうか。

 「自分を育てる」ためには、「自分で考える」ことがすごく大事なんじゃないか、さらに「自らの体験によって身につけていく」ことが大事なんじゃないか、と強く思いました。
 幸せになる考え・方法には決まった正解があるわけではありません。その人その人によっても違うし、その時その時によっても違います。また答えは1つではなく、「○○もよし、□□もよし」というようなことがいろいろあるんだと思います。その時々に自分で考え・選ぶしかありません。
 ただ本を読んだり人から聞いただけでは、すぐに忘れてしまって、実生活で役に立つことはめったにないのではないでしょうか。自分でよく考え、自分で試し、自分で工夫したものが身につくことで、役に立つようになるのだと思います。

 今年のテーマとして、私が自分自身をもっと育てられたらいいな、ということもありますが、このホームページの読者の方にも役に立つ「自分を育てる方法」も考えたいと思っています。
 「禅」にはそのためのヒントもたくさんありました。人に教えるとかではなく、本人が自分を育てる努力をするのを手助けするのがいいんだ、と思いました。そうじゃないと結局身につかないんだと思います。

 私もかつては、たくさん本を読もうと思いました。とにかくいろいろ勉強すればいいんだ、と思っていました。そのために、要領よく早く読むようにし、読んだ冊数に満足していたんですね。でもそれってほとんど身についてなかったような気がします。けして無駄ではなかったと思いますが、すごく効率が悪かったようです。
 私は『幸せになる方法』を書き、「幸せのホームページ」を始めたことで、自分で方法を考え・試し・工夫するようになりました。その成果は着実に出ていると実感しています。最近は本を読むのも、幸せになる方法を考えるヒントをいただく、というのがはっきり目的になっています。本を読んで考えた幸せになる方法のうちの1つでも自分のものにできたら、その価値はすごく大きいと思います。

 人の(幸せの)役に立つ「自分を育てる方法」を考え、このホームページの中で実現していくつもりです。いくつかアイデアはあります。1つ1つ、少しずつやっていきたいと思っています。乞う、ご期待!!