しあわせ日記

3月11日(月)本音と△△
 土曜の夜に放送の「真剣10代しゃべり場」(NHK教育テレビ)をビデオで見る。テーマは「みんな本音で話してますか?」。
 今回もいろんな意見や考え方があっておもしろかったです。それを参考に、「本音と△△」ということを考えてみました。

「本音と建前」。本音でつきあえればよさそうですが、実際には建前でつきあうこともあると思います。本音と建前をうまく使い分けられればいいのかもしれません。
「本音と自己開示」。自分の本音を言えることは心を開けるということでしょうか。自分を正直にさらけだせる相手がいるというのは幸せなことなのでしょう。
「本音と自己防衛」。本音を言うのは怖いということもあります。特に自分の弱点をさらすことは。
「本音と思いやり」。自分が思ったことをなんでも相手に言っていいのか? 相手を傷つけることがないように、相手にやさしくできるように、のような思いやりが必要なのではないか。
「本音と癒し」。本音をしゃべることは気もちいいということはあるでしょう。癒しにつながりそうです。本音を言わないとストレスがたまると言う人もいます。 
「本音と感情」。自分の感情に正直なことが本音でしょうか。それに共感してもらえるといいのですが。
「本音と理性」。感情に流されずに、よりよいアドバイスをできたほうがいいのでしょうか。それが相手の役に立てたらいいですね。
「本音と場」。本音をだせる場とだせない場がある。
「本音と信頼」。信頼できないと本音はだせない。失敗した経験・裏切られた経験から本音を言えない人もいる。
「本音と本音」。本当の本音かどうかは自分でもわからないのではないでしょうか。相反する本音が2つあることもありそうです。たとえば、「本音を言いたい」という本音と「本音を言うのは怖い」という本音。

 私は正直でありたいとは思いますが、本音はなかなかだせないようです。
 1つには、自分の考えに自信がないこと。特に、はじめて考えた問題についてその場で思いついた考えは、あまり当てにならないと思っています。いろいろ考えた末にたどりついた考えにはそれなりの自信はあります。それでも、それが自分以外の人にとっていいのかどうかはわかりません。
 もう1つには、自分のイヤな感情は信じないようにしていること。いい感情・幸せな感じは素直に大切にしたいと思っていますが、イヤな感情は自分が不幸になる考え方をしているからだと考えます。幸せになる考え方をすれば今よりはいい感情になれるはず、それができないのはまだまだ自分が未熟だからだと考えます。だから、自分のイヤな感情は人には言いたくありません。
 まぁ、私は幸せオタクの変人ですから、人の参考にはならないと思いますが。

 「本音」については、人それぞれでいろんな考え方や表現のしかたがあっていいような気がします。
 「本音」とかあまり考えずに、その場その場で自然に振舞えればいいのかもしれません。



3月12日(火)親しいつきあい
 「親しいつきあい」とは、どういういうことでしょうか?
 いくつかの要素が考えられます。
・よく会う(頻繁に会う、会ってる時間が長い)
・つきあいが長い
・話が合う(興味・関心や趣味などが共通する)
・深い話ができる(悩みなどの相談、人生・生き方や夢について語れる)
・共有の夢や目標や目的がある(心が一つになれることがある)
・いっしょにいて楽しい(いっしょに遊ぶ、何かをいっしょにできる)
・気を使わなくていい(ラク、気心が知れている)
・元気になれる(励みになる、癒される)
・信頼できる(信じられる、頼りになる)
・自分を高めることができる(目標・手本になる、教えてくれる、叱ってくれる)

 「(どれかが)無いから問題」と考えるのではなく、「どれかがあるからいい」と考えたほうが良さそうです。
 親しいつきあいに進展するためのヒントにもなりそうです。



3月13日(水)役割
 人づきあいの中では、その関係の中で役割が生じるようです。
 たとえば、提案する人と協力する人と参加する人。
 提案する人は、言いだしっぺのような人です。誘う人だったりもします。リーダー的が場合が多いでしょう。
 協力する人は、提案者の提案に協力する人です。参謀型だったり、実務型だったり、囃子型だったりします。
 参加する人は、提案者の提案にのって参加する人です。
 もちろん、その時々・その事々によって役割が入れ替わったりもします。

 グループの中に提案する(誘う)人がいないと、なかなかつきあいは続かないでしょう。実際には、自然に誰かが提案者になるのだと思います。
 協力者がいてくれると提案者はとても助かります。また、グループもうまくいくと思います。
 参加者がいないと話になりません。提案者が誘っても誰も応じてくれなければ、つきあいはできません。

 たとえば、会話でも、自分から(できれば、いい)話題をふる人がいて、それに積極的に応答する人がいて、それをちゃんと聞いている人がいれば話は盛りあがります。つまらない話ばかりだったり、誰も話にのらなかったり、しらけている人がいたりすると、その場がつまらなくなってしまいます。

 私は、15年以上続けている勉強会では、ずっと連絡係と会計係をやっています。幹事のような役割です。イベントなどを提案する人は他に何人かいます。一時、参加者が4・5人くらいになってしまった時期もありましたが、最近では10人前後(メンバーは14名)は集まります。連絡はメールですむので(メーリングリストも作ってありますし)ラクです。会場予約も電話一本ですみますから、たいしたことはありません。
 バスケットでは、現在の役割はヘッドコーチですが、実際には試合の時に監督をするだけです。他にコーチ/キャプテン/マネージャー/会計の人がいて、よくやってくれるのでありがたいと思っています。私の今の一番の役割は、練習の出席率No.1の参加者ではないかと思います。

 いい人づきあいをしたいと思うのなら、自分がその時にできる役割を考えてみてはどうかと思います。
 何か提案できることがあれば自分から提案する。魅力的な提案ができる人がいるとつきあいがより愉しめます。自分から誘うことも、つきあいを維持・進展するためにとてもいいことです。
 誰かが提案したら、それにのって盛りあげるようにする。自分にできる協力をする。雑用などを買ってでる。このような意識をもって、積極的に協力したほうが場も盛りあがるし、自分のためにもなると思います。
 参加するのなら、積極的に参加したほうがいいと思います。それは参加して自分が愉しむということではないかと思います。いっしょになって愉しめれば、それはちゃんと参加していることになると思います。
 いずれにしても、人とのつきあいを大切にするために、少し積極的に関わることを考えてみてはどうでしょうか。



3月14日(木)友達づきあいに何を求めるか
 人は友達づきあいに何を求めるのでしょうか?
 友達づきあいの価値はいろいろあると思います。
 いっしょにいると、楽しい/おもしろい/やすらげる/安心できる・・・など。
 いっしょに何かができる。話せる/遊べる/協力し合える・・・など。
 困った時に、相談できる/頼りになる/助け合える・・・など。
 何かを学べる。情報・知識を得る/人(の考えなど)を知る/人づきあいを学ぶ/(人から見た)自分を知ることができる・・・など。
 愛し合える(幸せにし合える)。

 もう1つは、孤独・寂しさ・不安から逃れられることでしょうか。そういうつらい思いをしたことがある人にとっては、これも大きな価値ではないかと思います。
 もっといろんな価値があるのだと思います。
 友達づきあいの価値は、生活(人生)の中での“潤い”のような感じもします。

 友達づきあいの価値を求めすぎないほうがいいと思います。友達づきあいの中で「(自分の)思うようにいかない」「(相手が)○○してくれない」「(いっしょに)○○できない」などと考えてしまうのは、自分に/相手に/つきあいに求めすぎているのではないでしょうか。
 できれば、友達づきあいの価値を感じられること、忘れないことが大事だと思います。友達づきあいの中でいいことがあったら素直によろこび、時には相手に感謝し、いっしょにいられること・つきあえることを幸せだと思えたらよさそうです。
 少なくとも、友達づきあいの中のイヤな部分ばかりを考えるのではなく、いい部分を考えることを忘れないようにしたほうがいいと思います。

 友達づきあいに「何を求めるか」よりも「何ができるのか」を考えたほうがいいのかもしれません。人から与えてもらうことより、人に与えられること。つきあいに貢献できることを考えてみてはどうでしょうか。
 つきあいがうまくいけば、共にそれなりに幸せになれます。それに貢献できることが自分の喜び・幸せと思うことができればいいのです。
 「give and take」という言葉がありますが、自分が(幸せを)与えれば自分が(幸せを)得られるということがあると思うのです。

 話は変わりますが、今夜の「奇跡体験!アンビリーバボー」(フジテレビ系)で岡田貴嗣(たかし)くんのお母さんの話をやっていた。たかしくんはおととしの11月に12歳の若さで亡くなってしまったのですが、多くの人に感動と生きる力を与えたすごい人です。今でも与え続けていると言ってもいいのでしょう。
 「夢は?」と聞かれ、「人の役に立ちたい」と答えた、たかしくんを想い出しました。

 「友達っていいよ。
   ぼくも友達にやさしくしたい。
    そして友達を大切にしたい」(たかしくん)

 生きるヒント「人づきあいが苦手」で、「友達づきあいを大切にする」を書きましたが、友達を本当に大切にするためには、友達に心からやさしくすること、友達の幸せを考えられることでしょうか?たかしくん



3月15日(金)頭と行動の不一致
 春ですねー。
 24度だって? 
 春一番が吹き、
 桜が開花。

 きょうの読売新聞の人生相談欄「人生案内」は、「情緒不安定、職が続かない息子」。
 「頭と行動一致しない」と悩む息子さんがいるそうです。

 「頭と行動が一致しない」こと、私もしょっちゅうです。
 でも、今までのことはハオハオです。今から始めればいいのです。
 後悔したってつらいだけで、時間のムダです。
 今できるベストは、今からベストをつくそうとすることです。

 とか思っても、なかなか思うようにはできないものです。
 それでも、ハオハオから始めよう、今から始めようです。何度でも。
 あきらめなければ、落ち込まなくてすむし、希望もあるのです。

 頭で考えるとおりにすべてできたら、不可能なことなんてないんじゃないでしょうか。
 みんな思いどおりになんてできていないのです。でも、できることはそれなりにしているのです。
 (それなりにでも)できることをやらないと、それもできないことになってしまいます。

 頭に行動を合わせようと努力するのはいいことなのですが、それがうまくできない時には、まずは行動(の結果)に頭を合わせることです。「思いどおりにできないこともある」と受け入れることで、次に頭(考え)を進められるのではないでしょうか。次の行動に向かえるのだと思います。
 「頭と行動が一致しない」と頭を抱えていても、苦しいだけで何も変わりません。自分の可能性をあきらめてしまうことほど、自分にやさしくない、自分を大切にしないことはないような気がします。

 あー、ねむい。
 春ですねー。



3月16日(土)トレーニング
 きょうのバスケの練習には、私を含め、40代が3人いました。
 たいしたもんだと思います(自分で言うのもなんですが)。

 私より2つ上の人は、週に2・3回はジムに行き、10キロぐらいは走っているそうです。
 私より2つ下の人は、週末はほとんど、ミニバス(ケット)のコーチとして、元気な子供たちの相手をしているそうです。
 私は、練習に欠かさず参加しているのですが、今年は筋トレも続けています。そのせいか、けっこういい調子です。
 やはり、運動を続けていないとバスケのようなきついスポーツはできないでしょう。それに、ある程度のトレーニングもしたほうがいいようです。

 心のトレーニングもしたほうがいいんじゃないかと思います。
 『幸せになる方法』には、幸せになる能力を向上させる練習というのを書きました。
 私がずっと続けているのは、人生相談を読む人を受け入れる練習と、自分(の感情や考えを)知り、幸せになる考え方を心がける練習です。

 体も心も、きたえていればそれなりの強さになり、その力を発揮できるものだと思います。きたえていないと、重い負荷に耐えるのは難しいでしょう。
 心身が強いほうがラクに生きられるような気がします。トレーニングは、めんどうだったりつらかったりもするのですが、やればそれなりの効果はあるはずです。それを実感できれば、トレーニングを続けることもできると思います。あとは、慣れですかね。習慣にするのが何よりだと思います。



3月17日(日)悟り?
 今夜の「知ってるつもり!?」(日本テレビ系)は、「人間・釈迦」。
 29歳で出家した釈迦が求めたものは「悟り」だったのでしょう。

 「悟り」とは何なのでしょうか?
 心境(境地)なのでしょうか。
 考え方(思想)なのでしょうか。
 テクニック(方法)なのでしょうか?
 いずれにしても「悟り」の目的は「幸せ」のはずです。

 釈迦は、生老病死の苦を救済する道を求めました。
 「生きることには苦しみがつきもの」ということは、世の中に絶望しているわけではありません。それを受け入れた上で、その先に悟り(幸せ)があるということだと思います。
 そして、釈迦がたどりついた「この世はすべて美しい」という境地こそが「悟り」ではないかという気がします。

 『ハオハオから始めよう』のサブタイトルかコピーの1つとして、「なまけ者の悟り方」というのを考えています。
 すべての現実はハオハオと受け入れる。苦しみもハオハオです。「苦しみから始めよう」です。
 基本的には、「いいことは好!好! 悪いことはハオハオ」です。
 そして実は、「すべてのことは好好(美しい・幸せ)」と思えるようになれるのではないかということです。

 お釈迦様の悟りに比べたら、「ハオハオ」なんて浅いものかもしれません。
 でも、シンプルで、私たち凡人にもできそうだと思いませんか?
 それにもしかしたら、「ハオハオ」はすごく深いんじゃないかなんて思ったりもするのです。
 私としては、心の中に幸せ(幸福感)を生み出せるかどうかが問題なのです。難解な悟りなんていらないのです。「ハオハオ」は役に立つ、と私は実感しているのですが。



3月18日(月)悟り?2
 きのうの続きで、悟りってなんだろう?とかいろいろ考えてしまいました。
 「悟った」というのは思いこみのような気がします。「思いこみ」というのは悪い意味ではありません。自分が心からそう思えればそれでいいのだと思います。それで自分が幸せに暮らせるのなら好!好!でしょう。

 でも、「思いこみ」もそう簡単にできるわけではありません。
 「信じる」ことと似ていると思います。言葉で「信じている」と言うことはできても、疑ったり不安になったり安心できないようでは信じているとは言えないでしょう。
 「悟った」と言っても、実際に幸せに暮らせないのでは意味がありません。

 また、唯一・絶対・不変の悟りがあるとは思えません。1回悟ったら、その後永久にいつもすごく幸せというわけにはいかないと思います。生きていくうちには悩みも苦もつきものですから。
 「悟った」と思っても、その悟りが適用できない次の問題があるはずです。その問題を越えたところに次の悟りがあるのではないかと思います。求道者の旅に終わりがあるとは思えません。

 もっとひろく考えると、「悟り」はたくさんあるのだと思います。
 大きな悟りから小さな悟りまでいろいろあって、小さな悟りには私たちが幸せに生きるための知恵まで含めてもいいのではないかと思います。
 私たち凡人には大きな悟りはできないのでしょう。でも、たくさんの小さな悟り・知恵を身につけることで、けっこう幸せに暮らせると思っています。

 「悟り」について書こうと思えばいっぱい書けそうなのですが、単に私がいままでにいっぱい考えてきた、「幸せ(になる考え方/方法)」を「悟り」に置き換えるだけになりそうなので、この辺にしておきます。
 最後に、私の主な悟り(幸せになる考え方・方法)を再確認してみることにします。

「幸せになるとは、幸せに暮らせるよう(な自分)になること」
「幸せは星の数ほどある。自分の幸せになる方法も無数にある」
「自分が幸せだと感じられることはすべて自分の幸せ。幸せを感じられなければ価値がない」
いいことは好!好! 悪いことはハオハオ (すべてのことは好好)」
基本となる5つの幸せになる方法
自分を育てていけば(幸せになる能力を向上させていけば)、少しずつ幸せになれる」



3月19日(火)中道と中庸
 おとといの「知ってるつもり!」の「人間・釈迦」の中で、「中道」ということがでてきました。
「琴の音は強く締めれば糸が切れ 弱くても音が悪い 琴は糸を中ほどに締めて始めて音色がよい 琴のように締めすぎて糸が切れてしまうような苦行には意味がない」
「極端な道では(快楽主義でも苦行主義でも)真理は得られない」

 私はつらいだけの努力はしたいと思いません。それが将来の幸せにつながるかもしれなくても、つらいだけの我慢の日々を過ごすことはしたくありません。幸せになるための努力はしたいと思います。努力にはつらいことが伴うこともあります。でも、それを愉しむ工夫をしたいと思っています。
 私は特別な修行をしようとは思いません。日常生活の中で自分を育てていけばいいと思っています。日常生活に役立つことを身につけていきたいと思っています。

 仏教の「中道」で連想されるのが、儒教の「中庸」です。
 「偏らざるをこれ中と謂(い)い、易(か)わらざるを庸と謂う」
 『中庸』(宇野哲人訳注/講談社学術文庫)の序文には、次のように書かれています。
 この本でいう中庸とは、一般に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、もっとも適切妥当なことである。だから、本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができると言っていい。
 中道にしても中庸にしても、極端な偏ったことはよくないのだと思います。また、1つのことにとらわれてしまうと柔軟な考えができない危険性もあります。
 と言っても、その「中」を見極めるのは難しいことだと思います。その事々にいろいろ考えた中から答えを見つけだしていくことが大切なのだと思います。

 私はよく、「○○はいいこと、○○すぎるのはよくないこと」という考え方を使います。この中の「すぎる」の判断が難しいのですが、場合によっては「すぎてから一歩戻ればいいんじゃないか」と考えます。
 たとえば、「考えるのはいいこと、考えすぎは不幸の素」です。考えすぎて苦しくなったり疲れたりしたら、そこで考えるのを休んで気分転換をすればいいのだと思います。

 「悟り」(幸せに生きる知恵)の中には、当たり前のことがけっこうあるような気がします。
 「生きることには苦しみがつきもの」「人生ラクありゃ、苦もあるさ」とか「すべてのものには終わりがある」「出会いもあるし別れもある」「人は死ぬもの」とか「すべてのものには価値がある」「すべての人は貴重なんだ」とか「あるがままでいい」のようなもの。
 自分が問題に直面した時に、当たり前のことに気づけないために不幸になってしまうこともあると思います。

 ちょっと違うかもしれませんが、このあいだ、大江健三郎さんがNHK教育テレビの番組で子どもたちに、「重要なことはだいたい単純なこと」と言っていました。
 当たり前のことを心から理解することが「悟り」なのかもしれません。



3月20日(水)悟りを伝える
 「知ってるつもり!」(17日・日本テレビ系)の中で、ひろさちやさんは、釈迦は悟りを得たあと入滅しよう(死のう)と思っていた、と言っていました。
 でも、「自分がラクになるだけでなく、全人類がこれによって救われるのではないか。みんなに説いてあげたほうがいい」と考え、人類救済の道に入ったといいます。
 その道は、悟った35歳から入滅した80歳まで続いたのです。
 出家したのが29歳ですから、悟るまでの道よりずっと長い道だったのです。

 自分が幸せになればそれでいいのか?
 やはり、その知恵(悟り)を他の人の役に立てることを考えるのが自然なのでしょう。

 悟りを人に伝えることはできるのでしょうか?
 言葉だけでは伝わらない。その言葉をたよりに、自ら実践する中で悟れる可能性があるのだと思います。
 悟りは知識ではなく、体験し体得するもののような気がします。
 どんな人の教えや話を聞いても、本やHPを読んでも、それだけでは役に立たないし、身につかないでしょう。その中で得たものを自分の生活の中で活かすことではじめて役に立ち、実践と工夫を重ねることで身につけていくことができるのだと思います。

 「悟り」という言葉・概念にとらわれるのも問題がありそうです。
 でも、「幸せになりたい」と思うのなら、幸せになる方法を求めて努力したほうがいいのではないでしょうか。
 「(もう少し)幸せになれたらいいな。では、どうしたら?」ぐらいでいいんじゃないかと思っています。