しあわせ日記
3月1日(土) しあわせですか?
バスケットの練習へ向かう電車の中で、水上勉さんの「わたしの幸福論」(女性論文庫・大和書房)を読み始めた。冒頭の「しあわせということ」に、「あなたはしあわせか、と問われて『はい、しあわせです』とこたえられる人はまさかあるまい」とあった。
私の知っている限りでは、「あなたは幸せですか?」という問いに対して「幸せだ」という答えのほうが多いはずだ。
事務所に戻りスクラップをひっくり返したら、95年読売新聞の世論調査記事が見つかった。「現在、幸福だと感じるか」との問いに、「幸福」36%、「やや幸福」55%。「不幸」「やや不幸」を合わせても7%。
また週刊文春(93/6/17日号)「日本のプライヴァシィ 日本の『幸福調査』編」麻生圭子さんの記事中にも次のようにあった。香港のある調査会社がアジアの各国を対象にまとめた「幸福調査」によると、自分のことを幸せと考える人が、日本は64%で最低だった。インドネシアやフィリピンでは94%、タイが92%、香港は89%、韓国85%。
幸せのホームページのアンケートでも、「あなたは幸せですか?」に「はい」は77%だ。(97年3月1日現在)
どうして水上さんは、「しあわせ」と答えられる人はあるまい、と書いたのだろうか。「しあわせということ」が書かれたのは昭和45年だった。
1970年、今から27年前。私は中学生だった。確かにその頃ウチは貧しかった。でもそれは珍しいことではなかった。ウチよりも貧乏な友達の家もあった。そのために「幸せでない」とは思えない。
その頃に同様のアンケートを実施したらどうだっただろうか。私は「幸せ」と答える人のほうが多かったのではないかと思う。水上さんの文章の中から、そう書いた理由を探り、いろいろと考えてみた。しかし、それはあくまでも推測でしかない。水上さんの真意はわからない。やっぱり、人の心はわからい。でも、幸せについていろいろと考えることは楽しい。私の読書の目的の1つは考えるヒントをもらうことだ。
3月2日(日) 「幸福論」
きのうの日記の続きです。実は続けて書いている。
私は「幸福論」というタイトル(〜の幸福論を含む)の本を過去にいくつか読んでいる。アラン、ヒルティ、ラッセル、ヘッセ、寺山修司、本田宗一郎、柴門ふみ、新井満、秋元康、水上勉(現在読書中)。しかし、この「幸福論」というタイトルは出版社の意向を反映したもののように思える。海外のものはタイトルを直訳すれば「幸福論」にならないものがある。日本のものは単にエッセイをまとめたものに「幸福論」というタイトルをつけただけのものが多い。
正直言って、本当の意味での「幸福論」という本を私は知らない。もしかしたら決定的な「幸福論」など書けないのかもしれない。だから「私の幸福論」や「誰々の幸福論」になってしまうのだろう。
幸せはたくさんあるのだ。また、主観の問題だ。それを一般化し、1冊の本にまとめることはできないのではないだろうか。
どなたか「幸福論」(タイトルはどうでもいい)でいい本があったら、私に教えてください。よろしくお願いします。
たくさんの「幸福論」を読むだけでは幸せになれない、自分の生活の中での考え方や行動が幸せなものに変わらなければ。
3月3日(月) エヴァ
シンジ「とうさんはぼくの気持ちなんてわかってくれない」
レイ「碇(いかり)君はおとうさんのことわかろうとしたの?
おとうさんの気持ちを」
シンジ「わかろうとした」
レイ「なぜわかろうとしないの。
そうやってイヤなことから逃げているのね」
シンジ「いいじゃないか。
イヤなことから逃げ出して何が悪いんだよ!」
私がシナリオを書いたわけではない。1日深夜に再放送された「新世紀エヴァンゲリオン/第19話・男の戦い」の中での会話。今日、ビデオで見ている。
同じく、もうひとセリフ。
加持リュウジ「君には君にしかできない、君にならできることがあるはずだ。
誰も君に強要はしない。自分で考え、自分で決めろ。
自分が今、何をすべきなのか。
まぁ、後悔のないようにな」
アニメだからとバカにしないでほしい。セリフの中身だけを味わってほしい。どう感じ、何を考え、自らに活かすかは、あなたしだいだ。
もう1つ「第20話・心のかたち、人のかたち」より。
母の声「生きていこうと思えば、どこだって天国になるのよ。
だって生きているんですもの、
幸せになるチャンスはどこにでもあるわ」
私はアニメオタクではない、と思っている。私は幸せオタクだ。
3月4日(火) 思考の散歩
今日も朝風呂に入る。半身浴でゆったりしながら考え事をする。今朝はぬるめの湯になったので、いつもより一度に長めにつかっていられる。
はじめの頃に考えたことは、ホームページの内容についてだった。今月の人生相談「自信がない」の構成、「〜な自分にはなりたくない」ということ、「受け入れる」ということなど、次々にアイデアが浮かんでくる。珍しいことだが、私はタオルで身体を拭き浴室を出て、机の上にA4の紙を出して浮かんだアイデアを立ったままメモした。そして、再び風呂に入った。
その紙を見ながらこの日記を書いている。素っぱだかでウロウロしていた自分の姿を想像すると、少しおかしい。誰に見られる訳でもないが、自分の裸姿などぜんぜん頭になく、あわててメモして風呂に戻っていく姿は、滑稽な感じがする。
後半の入浴中にもいろいろなことを考えていたはずなのだが、今は憶えていない。やはり、メモした効果はある。しかし、私はアイデアを思いついてもメモなどしないことも多い。いいアイデアなら再び思い出せると信じている。忘れてしまうようなアイデアはたいとたことない。ある問題について考えて書こうとした時に、スラスラと出てくるのは、以前に考えたことがある内容だ。
風呂の閉鎖されたひとりの空間と、くつろいだ心身の状態は、アイデアの宝庫だ。リラックスして集中できる。最初に湯につかった時には、「あー気持ちいい」といつも思うが、それからは思考の散歩を楽しんでいる。結局、今朝は1時間も入っていた。
3月5日(水) クローン人間
今朝テレビのニュースで、アメリカのクリントン大統領がクローン人間の研究にはお金を出さない、というスピーチを放送していた。クローン羊に続いてクローン猿が生体実験で作られ実在することがわかったからだ。猿の次には人間ということから、大統領がコメントしたのだろう。妊娠中絶に対する見解が選挙の得票に影響するそうだから、当然の発言だろう。クローン人間については、道徳的、宗教的な反対があることは十分に考えられる。
今晩私は飲み会に参加した。最近アメリカ西海岸サンノゼで仕事をしているKさんが1週間の一時帰国をしているため、勉強会の仲間が集まった。Kさんとは約1年ぶりの対面だったが、10日前にインターネットテレビ電話で話をしていたため、久しぶりという感じがしなかった。
いろいろな話題の中で、やはりクローン人間の話が出た。1人が「クローン人間は遺伝子的には一卵性ソーセージ(双子)と同じだ。同じ子宮で育たない分、一卵性ソーセージより遠い」と言った。私も「クローン人間として生まれても、それぞれは別人格の人間だ。人間は遺伝子よりも育った環境や経験によって人格が形成される」と発言した。
私にはクローン人間を作る意義がわからない。一部の科学者の個人的な夢のような気がする。でももしクローン人間として生まれた人が、社会的に迫害されて悩み、私のところにきたとしたら、「あなたには何の罪もない。生まれてきてはいけない人なんていない。あなたが生まれて、今生きていることは幸せなことなんだよ」と言ってあげたい。
3月6日(木) 疲れ目
昨夜は友達と飲んでいたので、ためしてガッテン「疲れ目解消大作戦」(NHK)を今日ビデオで見た。
目の乾燥(まばたきを忘れる)と同じ距離を見続けることが、眼が疲れる要因となるそうだ。まばたきをよくして、キョロキョロとよそ見をすると良さそうだ。でもやり過ぎると、落ち着きがなく注意散漫な人になってしまいそうだ。
眼の疲れから肩こりにもなるそうだ。
肩こりと言うと思い出す話がある。英語には肩こりに相当する単語がないそうだ。アメリカから日本に来て「カタコリ」という単語を覚えたら肩こりをするようになった、という話だ。ケント・デリカットさんと誰か忘れだがもう1人の方が、同じ話をするのをテレビで視た。また、1人のアメリカ人から直接聞いたこともある。これって暗示効果みたいなものだろうか。不思議だ。
コンピュータのディスプレイの前にすわっていると、すぐに眼が疲れるとか、身体に悪い影響があると言う人がいる。そういう要因がありそうな気はする。でも、そのことを気にし過ぎたり、信じ込んだりすること方が、もっと大きな悪影響があると思う。「コンピュータは眼が疲れる」と言う人はすぐに眼が疲れるだろうし、「コンピュータは身体によくない」と思う人は、体調が悪くなると思う。
何でも1つのことを長時間し続けたら疲れる。それは休息をしたり、他の動作を入れる工夫をすればいい。「何かをすると悪い影響がある」と信じたり、気にし過ぎるのは、心身の健康によくない。些細なことは気にしない、目の前の問題はプラス思考で考える、先のことはなるようになる。ある程度、いい加減がいいのかもしれない。良い加減なら良いに決まってるか。
私は「肩こりしない人だ」「コンピータの前に長時間すわるが目は疲れない」と言う。でも、ベランダから外を眺めたり、目のマッサージもする。首や肩のストレッチングは半ばクセになっている。それらはごく自然な習慣だし、それぞれを気持ち良くやっている。
3月7日(金) ラピュタ
今晩、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」が日本テレビで再放送される。実は私は昼間にビデオで観ている。宮崎駿さんのアニメは録画して、何度か観なおしている。宮崎アニメの中で私がいちばん好きなのが「ラピュタ」だ。5回以上は観たと思う。
(女の子)シータ「ごめんね。パズーをひどいめに合わせて」
(男の子)パズー「ううん。君が空から落ちてきた時ドキドキしたんだ。
きっとステキなことが始まったんだって」
「ラピュタ」の何がいいかと言うと、ドキドキ・ワクワクできることだ。夢とロマンと冒険と愛と、要素は十分に揃っている。
「ラピュタ」の中でキーとなるのは、不思議な力を持つ「飛行石」だ。
ボムじいさん「力のある石は、人を幸せにもするが、不幸にもする」
人生の中にも力のある石がある。夢や愛がそうだ。お金と言う人もいる。人を幸せにも不幸にもするものだ。
シータ「あんな石、早く捨ててしまえばよかった」
パズー「違うよ。あの石のおかげで僕はシータと会えたのだから。
石を捨てても・・・(中略)
それに今逃げ出したら、ずっと追われることになっちゃうもん」
けっして石が悪いわけではない。使い方が悪いだけだ。
力のある石を捨てたり、壊したりしても、幸せにはなれない。
幸せを感じるために、その石の力を使えばいい。
幸せの石は1つではない。大きいものから小さいものまでたくさんある。あなたの持てる幸せの石は、星の数ほどある。
いい作品(アニメ、ドラマ、映画、小説など)の中の世界はあまりにも素晴らしい。それを自分の現実と比べて不幸になってはいけない。私たちはあくまでも現実の中で生きている。でも、現実の中にもワクワク・ドキドキできることはある。それを探すヒントもたくさんある。アニメもその1つだ。
ひとときのワクワク・ドキドキをありがとう。また、いつか。
3月8日(土) 梅は咲いたか
今朝、家を出てすぐに近所の家の庭に、梅の花が咲いているのに気づいた。ピンクの花が密集していてなかなかいい。桜とは違うまとまりのある落ち着いたいで立ちだ。大通りに出るまでの家々の庭を探したら3軒の庭先に梅の花が咲いていた。白い花のもあった。この季節以外には気づかない存在だ。
駅へ続く通りの片側には、桜が15本くらい並んでいる。まだ、葉もない極めて地味なたたずまいだ。これが3・4週間もすると派手な満開になる。毎年楽しみにしている。特に夜桜が好きだ。
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」
九州での桜の開花は3月22日頃と、あるホームページに書いてあった。今、桜の花の画(え)が見られるホームページを探して準備している。近々、ここのホームページ上に登場させる予定だ。乞う、ご期待。
3月9日(日) 皆既日食
今朝9時から「宇宙スペシャル 同時に見る皆既日食と巨大すい星」という番組を、テレビ朝日がモンゴルからの生中継を交えて放送した。あいにくとモンゴルの天気は曇りだった。
モンゴルのリポーターとして、立花隆さんが出演していた。立花さんも、曇りだと皆既日食が見られないと心配したそうだ。ところが、日食をいつも追いかけている人は「曇りでも皆既日食は体験できる」と言ったそうだ。曇りの日に夜があるのと同じだ。実際に放送の中で2・3分だが夜のような映像になった。
私は日の出を見るのが好きだが、曇りの日には夜明けを楽しむ。逆に雲があるから色々な夜明けを見ることができる。雲の分布によって夜明けの色が違うのだ。夜の暗黒の後に、紫、青、赤、白、もっと言い表せない色の夜明けがある。それに、月や星、朝もやなどが加わって様々な光景を見せてくれる。私は、朝もやの中、赤紫色の東の空に赤い太陽が浮かび、振り返ると青い空に黄色の満月を見たことがある。へたな散歩も数打ちゃ当るだが、他にも何度か当っている。
番組のもう1つの主役、ヘール・ボップすい星はすっかり影が薄くなってしまった。残念ながら曇りでは見えない。高度4,000メートルまで飛べるヘリコプターを飛ばしても雲の上には出れなかったようだ。(夜の「NHKスペシャル」では、4,900メートル上空からの皆既日食の映像を放送していた)
でも私たちにも見られるのは、ヘール・ボップすい星だ。4月1日に地球に一番接近し、日本では早朝3時頃に北東の空低くに見えるという。これからの散歩の楽しみが1つ増えた。4月1日前後には、3時頃に散歩してみようと思う。
皆既日食を体験した立花さんは、「言葉を失う」と表現した。思わず私は「ハオハオ」。また、「皆既日食を体験して人生観が変わったひとがたくさんいるのが、わかるような気がする」と言った。
皆既日食のしくみを知っている現代人がそうなのだから、何も知らずに日食を体験した昔の人たちは、さぞ驚いたことだろう。それを神に結びつける考えにもっていっても、いたしかたないように思う。
ヘール・ボップすい星が次に地球の近くに来るのは、2,300年後だそうだ。なんと宇宙は広大なのだろう。宇宙の中では、私たちなどまったく小さな存在で、たった一瞬しか生きていないのだ。私たちの悩みなどあまりにもちっぽけだ。
でも、その広大な宇宙の中に、私たちが生まれ、生きていることはすごいことだ。だから、よけい幸せに暮らそうと思う。
3月10日(月) 確定申告
明日、確定申告書の提出に行く。私は個人事業者として登記しているので、青色申告もする。今年でもう11回めの申告だ。朝から1日がかりで帳簿を作成した。なにしろ1年分の帳簿を1日ですべて書くのだから大変だ。でも1日あればできるのだから、極めてシンプルだ。
個人事業者というのは、○○商店とか△△事務所などの個人経営者やフリーで仕事をする人だ。私は表向きは、フリーでコンピュータソフトの開発をしていることになっている。職業欄に「自由業」と書くのが気にいっている。私は自由が好きだ。
ここ数年、私の収入はゼロだ。本を読んだり、本を書いたりして、自由に暮らしてきた。昨年9月からは、「幸せのホームページ」のウェブマスターになってしまったようだ。もちろん収入はない。来年も収入ゼロの申告をする予定だ。
普通の人から見たら、信じられない非常識な生活をしている。私としては、ごく自然にやりたいことだけをやってきた。そのおかげで最近はずっと充実しているし、幸せだ。特に今年は生まれてから一番幸せな日々を過ごしている。
当り前のことだが、今の生活を一生続けるわけにはいかない。それどころかこのままでは、来年にはまともに働かなくてはならないのはわかっている。私にとって、それは楽しみでもある。ごく普通の生活の中で幸せに暮らしてみたいと思うことが時々ある。
私はここ数年、「幸せになる方法」を考え、自ら実践してきた。幸せになる能力も向上していると思う。それを一般的な生活の中で実践してみるのも悪くない。その反面、もう少し「幸せのホームページ」のウェブマスターを続けてみたい気もする。
とにかく今年いっぱいは、「幸せのホームページ」に全力投球すると決めているので、その先のことはなりゆきに任せ、来年になってから考えてもいいことだ。なるようになる。来年の今頃、自分がどんな生活をしているのだろうか、楽しみだ。幸せな生活をしている、と信じている。
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