読書日記

  中道・中庸

 『わたしの般若心経』(松原泰道)より、
 中道は、一般に〈一方にかたよらない穏当な行き方〉と解されていますが、仏教語としては「対立を超えた絶対の道」です。「中道」の中には〈あたる〉の意味もあります。したがって中道は、かたよらないだけでなく、真理に中ることで、仏教思想では、縁起の真理に適う道のことですから「絶対」といいます。
 極端にかたよったやり方には問題が多いのでしょう。
 かと言って、その真ん中・中間がいいというわけではなく、道(縁起の真理/自然の理道理)に中(あた)ることを求めるのは容易なことではない気がします。

 「○○はいいこと、○○すぎはよくないこと」という考え方を私はよくします。
 「○○すぎはよくないこと」だからと「○○はやめたほうがいい」というのは、いいことをやめてしまうよくないことです。たとえば、頑張りすぎはよくないからと、頑張るのをやめてしまうのはよくないでしょう。つまり、「○○すぎ」と「○○しない」の両極端はよくないということです。
 それではどの程度がいいのか、というのが中道なのかもしれません。

 私は、いいことを精一杯にやってみて、すぎることで問題が発生したら、そこで一歩戻ったりちょっと力を抜いたりすればいい、と考えることがあります。
 「○○すぎ」の限界はやってみないとわからないのです。何も問題がないうちに「○○すぎ」を警戒していい努力ができなくなってしまうのはよくないでしょう。
 こういう場合、中道は「○○すぎ」の一歩手前ではないかと考えます。

 問題によって、いろんな中道があるのでしょうが、難しいことが多そうです。

 仏教の「中道」と似ているのが、儒教の「中庸」です。
 『中庸』(宇野哲人訳注/講談社学術文庫)の序文より、
 この本でいう中庸とは、一般に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、もっとも適切妥当なことである。だから、本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができると言っていい。
 中道・中庸で難しいのは、平凡なもの・当たり前のことを選ぶことなのかもしれません。
 でもそれは「自分にも可能な選択」と考え、中道・中庸を心がければいいのではないでしょうか。



   

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