読書日記
太郎を呼べば太郎がくる
『こころに響くことば』(PHP)より。
時実新子さん(川柳作家・エッセイスト)は、
祖母からの口移しなので、出展は明らかではありません。祖母が言うには「呼べば呼んだ人が来るじゃろ? 太郎サーンに花子はこないわな。じゃから、いい事を呼びんさいや」とのこと。太郎は幸福の代名詞なのでしょう。
子どものころはすんなり分かっていたのに、おとなになると、こんがらがりました。たとえば病気になるとその事に執着する。つまり呼んでいるからよけいに病むのですね。はっと気づいては太郎を呼ぶように心掛けています。
太郎を呼べば太郎くる。(幸せを求めれば幸せが得られる)
心で望んでいても声を出さなければ太郎はこない。離れていれば小さい声では届かない。
自分のまわりにいない人を呼んでもこない。近くにいる人は呼べばすぐにくる。
今まで離れていた人も自分の近くを通ったときに呼べばくる。
九郎を呼べは九郎がくる。(不幸になることすれば不幸になる)
九郎を呼び止めて話していると九郎はずっといすわる。
九郎の相手をしていると太郎を呼ぶこともできない。
九郎に帰ってほしければ追い払わなければならない。もしくは、九郎がいても無視して、太郎を呼ぶ。(悩みや問題があってもそれなりに幸せに暮らす)
幸せについて考えていると幸せな気もちになれる。不幸について考えていると不幸な気もちになる。
幸せな気もちだと幸せになる行動をしやすく、不幸な気もちだと不幸になる行動をしやすくなる。
一日の中で、自分の幸せについて考え、幸せになれる行動をしている時間が長い人は、それだけ幸せでしょう。
自分の不幸について考える時間が長い人(不幸にとらわれている人)は、それだけ不幸でしょう。
幸せになれる行動をしない人はあまり幸せになれないでしょう。
不幸が続いている人は、自分は九郎を呼んで(不幸について考えてばかり)いないだろうか? 自分は不幸の種を蒔いていないだろうか? 自分は一つの不幸にとらわれていないだろうか?
現在幸せでない人は、自分は太郎を呼んで(幸せについて本気で考えて)いるだろうか? 自分は幸せの種を蒔き、水をあげているだろうか? 自分は幸せになれることを考え、実践しているだろうか?
こんなふうに自問してみると、何か気づけることがあるのではないでしょうか。