読書日記

  同行二人

 『般若心経入門』(松原泰道)より、
 巡礼や遍路さんの笠に「同行二人」と書かれてある旅の道づれは、観音さまや、弘法大師さまですが、巡礼や遍路は「日常の私」であり、観音さまやお大師さまは「本質(本来)の私」にほかなりません。

 ことあるごとに泣いたり笑ったりする感性的な「日常の自我」と、それに呼びかける「本来の自己」の同行二人は、ときには並び、ときには前後し、さらに影と形とが重なりあって、まるで一人の人格のようになって毎日を生きるのが、ほんとうの生き方なのです。

 ところが、現代人はたいせつな本質的な自己が不在で、日常的な自我の一人ぼっちです。
 信仰が篤い人は、一人で歩いていても、見守ってくれたり、話を聞いてくれたり、何かを気づかせてくれたり、呼びかけてくれたり、導いてくれたりする(霊的な)存在といっしょ、と思えるのかもしれません。

 人間には、自分の心(感情や望みや思考)や行動を客観的に見る能力があります。自分は今こういう気もちになっている、自分は今こういう望みをもっている、自分はこういうことを考えた、自分はこういう行動をしたなどと。
 ただし、ふつうはこのような能力をあまり使っていない人が多いのだと思います。

 でも、意識すれば使えるはずです。たとえば、自分は今どういう気もちか? 自分は今何も望んでいるのだろうか? 自分は直前に何を考えたか? 自分は何をした(している)か? などと考えればわかることがあるはずです。

 人間には、自分の心や行動を理性的に考え直す能力があります。この感情/望み/考え/行動は自分にとって良いか悪いかを判断し、良いほうに変えるためにはどうしたらいいかを考えることができます。
 でも、理性を働かせることがほとんどない人も多いのかもしれません。

 「もうひとりの自分を目覚めさせ、育てる」ということを書いたことがあります。幸せになるためには、「幸せになろう」と意識して具体的に努力すればいいということです。それをするのが「幸せになろうとする(もうひとりの)自分」という考え方です。
 幸せになる考え方を心がけるのも、自分の幸せや生き方について考え直して人生を変えていこうとするのも、「(新しい)もうひとりの自分」と考えることもできるでしょう。
 そして、自分を育てるとは「もうひとりの(理性的な)自分」を育てるということです。

 自分を見守り、幸せの方向に導いてくれるような「もうひとりの自分」を育てていけたらいいのではないでしょうか。
 それは今後の人生の中でとても心強い存在になってくれるものと思います。いつでも自分を助けられるのは、常に自分の心の中にいる「もうひとりの自分」です。「もうひとりの自分」がいれば、一人ぼっちではないのです。



   

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