『夜と霧 新版』(amazon.co.jp) 「希望について」 「本のページ」 幸せ雑記 ホームページ |
『夜と霧』は、原題「心理学者、強制収容所を体験する」の通りに、心理学者である著者フランクルが第二次世界大戦中に、ナチスにより強制収容所に入れられていた時の体験について書かれています。
ナチス・ドイツの小規模強制収容所での過酷な経験について、フランクルは「心理学の立場から解明」しようとしています。
重労働、貧しい食料、劣悪な環境、ナチス親衛隊員や収容所監視兵だけでなく被収容者間での酷い人間関係。そして、「ガス室送り」(処刑)の恐怖。いつまで続くかわからない収容所生活。
このような状況の中で、人は何を心の支えに生きていけるのでしょうか?
私としては、幸せと希望をもつことについて考えるヒントが見つかればいいな、と思っています。
『夜と霧』(フランクル)より
収容所生活への被収容者の心の反応は三段階に分けられる。それは、施設に収容される段階、まさに収容所生活そのものの段階、そして収容所からの出所ないし解放の段階だ。自分の大きい不幸が明らかになった時、人は心理的に強いショックを受けます。
第一段階の特徴は、収容ショックとでも言おうか。
「駅の看板がある――アウシュヴィッツだ!」
この瞬間、だれもかれも、心臓が止まりそうになる。アウシュヴィッツと聞けばぴんとくるものがあった。あいまいなだけいっそうおぞましい、ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめたなにか!
ショックは強い恐怖感や不安感を生み、人を混乱させます。とても落ちついて考えられなくなってしまいます。
大きい不幸という現実を受け入れることができないと、苦しみと混乱が長く続くことになってしまいます。
と言っても、大きい不幸を心が受け入れてくれるまでには、誰でも相当に時間がかかってしまうでしょう。
長い時間がたてば誰でも自然に現実を受け入れること(あきらめる、そして忘れていくことも含めて)になるのでしょうが、すぐに現実の大きい不幸を受け入れることは難しいのです。
不幸な出来事による強いショックを受けた時には、どうしたらいいのでしょうか?
ショックな現実をそのまま受けとめ、悲しみや怒りや悔しさや情けなさや不安や恐怖などの感情を「今はしかたがない(ハオハオ)」とひたすら受け入れようと努力するしかないような気がします。
悪感情に誘われて湧き起こる様々な考えはストップしたほうがいいでしょう。特に悪いことを考えてしまうのに対しては、「今このように思うのも無理はない(ハオハオ)。だから、今は余計なことを考えるのはよそう」のように考えられたら、と思います。
などと、今は書けますが、実際に自分がそういう状況になった時に、それができるかどうか。
私の場合には、「ハオハオ」が心の中に出てくれば、なんとかできるような気もしていますが。
あとは、心身の休養と栄養を心がけ、心が受け入れられるのを待ち、希望をもつことから始めて立ち上がり、ここ(現実)から幸せに向かって歩き出せたら、と思うのですが。
『夜と霧』(フランクル)より
精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告された者が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じた。「希望」は、空想でも妄想でもいいのだと思います。
それでも、心の中が少しでも明るくなればいいのです。絶望しているよりもずっといいのです。
「希望をもつことは心の作業」です。
また、希望をもとうという意志が大切なのです。
絶望しそうになった時こそ、自ら希望をもとうと心の中で努力したほうがいいと思うのです。
『夜と霧』(フランクル)より
わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!希望をもつ、そして、持ち続けるためには、心の元気が必要なのかもしれません。
やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。
心に元気がない時には、なかなか希望も湧いてこないのではないでしょうか。
心を元気にする方法はいろいろあると思います。
心の休養・栄養・運動になるようなことがいいのでしょう。
ユーモアや好奇心も、心を元気にする方法の一つなのだと思います。
なかなか希望がもてない時には、まず、心を元気にすることを考えたほうがいいのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。人間はどんなに過酷なことにも、時間がたてば慣れることができるということなのでしょうか。
逆を言えば、慣れることができない人は生きていけないということなのかもしれませんが。
いずれ慣れることを信じて、「慣れるまで我慢すればいい」と考えることができそうです。
「そのうち慣れる」というのも、希望の一つだと思います。
その希望を叶えてくれる、(慣れる)力が人間にはあるということなのではないでしょうか。
『夜と霧』(フランクル)より
被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。心を閉ざすのは、自分(の心)を守るためなのです。
感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の特徴は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無感は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。
でも、いつまでも心を閉ざしていては、幸せにはなれません。
嵐の時には戸締まりをしても、嵐が過ぎ去ったら、窓を開けて希望の光を入れたほうがいいのでしょう。
『夜と霧』(フランクル)より
人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。人は、愛する人のことを心の中で想うだけでも、少しは幸せになれるのです。
収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
人は、感謝をすることで、幸せな気もちになれます。
人は、何らかの希望をもつだけで、心の中を少しは明るくできます。
人は、夢の実現を想うだけで、幸せの予感を感じることができます。
人は、自分の幸せを「幸せだなぁ」と思うことで、幸せを感じることができます。
人は、精神力・心の働きだけで、それなりに幸せになれるのでしょう。
そもそも幸せは(心で)感じるものです。
うまく心を働かせ、感じられる幸せ(幸福感)は幻想ではないと思います。
『夜と霧』(フランクル)より
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。過酷な状況の中でも、山々の風景、沈んでいく太陽と夕景、夜明けなどの美しい自然に感動し、歌、詩、音楽、お笑いなどの芸術を愉しみにしたということです。
感情が消滅していくような状況だからこそ、心動かすものを求めるのではないでしょうか。感動できること、愉しめることなど、心を動かされることがとても大きなことに思えてくるのでしょう。
また、心が何かに集中している時には、その分イヤなことも忘れられるということもあるのでしょう。
希望をなくして心が動けなくなった時には、心動かすものに触れ、夢中になれるものに集中することが、役に立つのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。ユーモアを、おかしい、楽しい、おもしろいと感じることは、心にいいでしょう。
笑いは、心にも、身体にもいいそうです。
ユーモアを感じられれば、心の中が少しは明るくなるでしょう。
ユーモアは、その場(と、そこにいる人の心)を明るくするのだと思います。
ジョークなどのユーモアを考えることは、イヤなことやつらいことを忘れられる(考えなくてすむ)効果もありそうです。
ユーモアを考えるためにも感じるためにも、心の余裕が必要なのだと思います。
たとえ短時間でもユーモアを感じられれば、少しは心の力を抜くことができるでしょう。
ずっと張りつめた心はいつか切れてしまうでしょうが、少しでもゆるむ時があれば、それだけつらさにも耐えられるのではないでしょうか。
つらい時こそ、心をゆるめることが必要だと思います。そのための方法の一つがユーモアなのでしょう。
『夜と霧』(フランクル)より
ほんのささいな恐怖をまぬがれることができれば、わたしたちは運命に感謝した。「不幸でない幸せ」というのがあります。
もちろん、収容所生活のこうした惨めな「喜び」は、苦痛をまぬがれるという、ショーペンハウアーが言う否定的な意味での幸せにほかならないし、それらもここまで述べてきたように、「……よりはまだまし」という意味でしかない。
積極的な喜びには、ほんの小さなものですら、ごくまれにしか出会えなかった。
大きい不幸を経験した人は、今自分がそうでないこと、それをまぬがれることでも、「まだ幸せ」と思うことが可能なのでしょう。
不幸を知らない人は、不幸でない幸せはわからないし、実際に不幸に出遭ってしまった時の衝撃は大きいのではないでしょうか。
不幸を知っている(経験した)ということは、一つの財産なのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。苦しみがあるから、楽しみや喜びが、より幸せと思える。
病気やケガをしてみて、健康の幸せに気づけることがある。
別れてから、その人の存在の大きさに気づくこともある。
闘いがあると、平和の幸せがわかる。
幸せがあるから、生(の時間)が、より大切に思える。
不幸があるから、幸せが、より幸せに思える。
苦もあり楽もあり、生があり死がある。幸せもあり不幸もある。
いろいろあるのが人生。どれが欠けても不完全なのかもしれません。
だったら、すべてを受け入れて(「幸せなことは好!好! 不幸なことはハオハオ」と)、生きていけばいいのではないでしょうか。
『夜と霧』(フランクル)より
「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」「今に見ていろ」と頑張るのはいいことだと思います。
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。
でも、そのために今を大切にしない、現在の生活をぜんぜん愉しめないというのはよくないと思います。
現実が大きく変わらなければ幸せになれないと考えていたら、いつ幸せになれるかわかりません。
どんな状況でも、内面的な勝利(幸せ)を得ることは可能なのだと思います。
『夜と霧』(フランクル)より
自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。精神的に自分を見捨てるということは、人間としていちばん恐ろしいことではないでしょうか。それは、自分を大切にすることをやめてしまうことだと思います。
自分の心や身体の痛みをそのまま放っておく、ひどい場合には自分で傷つけ・痛めつけるようなことをしてしまいます。
私は、自分が幸せになるために努力しない人は自分を大切にしていない、と思います。
実際には、ほとんどの人は無意識に自分を幸せにするために何かをしているのだとは思いますが。
自分を見捨てないで、自分を大切にするためには、まず自分の将来を信じて、希望をもって生きることが大切なのではないでしょうか。
『夜と霧』(フランクル)より
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。生きる目的・意味を見失い、「生きることに何も期待できない」と、絶望した人は破たんしたそうです。
「生きる」ために生きる目的や意味を求めるのなら、逆に、生きることを前提に、そのために自分が期待されていること、つまり、生きるために自分が何をしたらいいのかが問題なのだと思います。
現在の私たちは、生きることだけなら、それほど難しくはないでしょう。
でも、生きる目的や意味を求める人はたくさんいます。それは、「ただ生きればいい」とは思えないからでしょう。それが見つからなくて絶望してしまう人もいます。
絶望しそうな人は、生きることで何が得られるかではなく、よりよく(幸せに)生きるためには何をしたらいいかを考えればいい、ということなのではないでしょうか。
『夜と霧』(フランクル)より
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きる意味をいつまでも考えているだけでは、幸せにはなれません。
今を(よりよく、幸せに)生きるためには、何をどうすればいいかを考え、それを実践し、できれば幸せを感じられることが大切です。
自分の幸せになる方法を考えるのはいいことです。
でも、考えてばかりで実践しなければ、幸せは感じられません。
本当は、自分の幸せになる方法の実践が習慣になって、何も考えなくても幸せに暮らせるようになるのが望ましいのですが。
『夜と霧』(フランクル)より
いよいよ強制収容所の心理学の最後の部分に向き合うことにしよう。収容所を解放された被収容者の心理だ。強制収容所から解放された時、人々は歓喜したと思うでしょうが、収容所生活はそのような程度ではなかったようです。わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。「うれしい」ということを忘れる、なんてことがあるのでしょうか。
解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。
体験者が言うのですから、間違いなくあるのでしょうが。
離人症は、自分の心を守るために、現実から切り離したのかもしれません。それほど、収容所生活の現実が悲惨だったということなのでしょう。
人が心を閉ざしたり、現実から逃避したりするのは、自分(の心)を守るためなのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。改めて考えてみると、どうしてかわからないことは、けっこう多いのではないでしょうか。
その時は、ただ夢中だったり、一所懸命だったりして。
また、いろいろ考えていたことも忘れてしまう場合も多いでしょう。
でも、強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要だった。とも書いてあります。
「未来の目的を見つめさせること」は、「希望をもたせること」とも言えるでしょう。
また、「人生が自分を待っている」「だれかが自分が待っている」は、「何かに期待されている(逆に言えば、何かを期待する)」と思えることでしょう。「きっと幸せが待っている」と、自分の将来の幸せを期待できれば、絶望しないですむのではないでしょうか。
『夜と霧』(フランクル)より
収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。どんなに不幸な経験があっても、それが去れば、人はいずれ立ち直ることができるのだと思います。
すごく不幸な経験をした人は、ちょっとぐらい不幸なことがあっても「あの時に比べればまだまし」と考えられます。ふつうの時には「あの時に比べれば今は幸せ」と思うこともできるのではないでしょうか。
極限の不幸を経験した人は、生きていく上で、もう何も恐れるものはなくなるのかもしれません。恐れ・不安がなければ、安心して生きられます。
人には、不幸を幸せに変える能力があるのだと思います。
でなければ、不幸な経験でのつらい思いが報われません。
不幸を経験した人は、それだけ幸せになれる可能性が高くなったと考えてもいいのではないでしょうか。