読書日記

  人の存在の美醜

 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(橋本治)より、
 人の「存在」の美醜は、容貌とは直接に関係がありません。自分の容貌をどのように解釈するかが「人の都合」で、人の美醜はその下にあります。だから、「美しい容貌を持つ、存在が醜い人」というのは、ちゃんといます。
 人の容貌の美醜というのも確かにあります。それは、人の好みによっても違います。
 でも、人間としての美醜の中では容貌の美醜は二の次なのでしょう。
 また、時によって変わる醜い表情や美しい表情というのもあるでしょう。
 人間としての美醜について、いくつか考えてみました。

 「醜態」という言葉を辞書でひくと、「見苦しい態度・行動。恥ずべき状態」とありました。
 「見苦しい(醜い)態度」はいろいろありそうです。たとえば、言い訳がましい、ふてくされる、逆ギレする・・・。その正反対が「美しい態度」なのでしょう。たとえば、潔い、誠実、・・・。
 「見苦しい(醜い)行動」もいろいろあるでしょう。たとえば、意地悪する、醜い争いをする、悪事を働く、裏切る・・・。その反対の「美しい行動」は、世のため人のためになるような行動でしょうか。
 「恥ずべき(醜い)状態」。たとえば、やるべきことを(正当な理由もなく)怠けている、醜態をいつまでもさらしている・・・。その反対の「美しい状態」とは、どのような人間のあり方なのでしょうか。

 人の「存在」の美醜は、結局、その人の心が美しいか、醜いかによるのではないでしょうか。
 やさしい人思いやりのある人、のある人などは、(心が)美しい人と言えそうです。
 反対に、意地悪な人、思いやりに欠ける人、悪意をもつ人、他人に無関心な人などは、(心が)醜い人と言われてもしかたがないのかもしれません。

 などと言うと、性格がよい(美しい)か、悪い(醜い)かと考えがちですが、性格と思われるうちの大半はその人の考え方の習慣だと思います。
 人間は心がけしだいで(ある程度)考え方を変えることはできると思います。
 「ここではどういう考えが美しいのだろうか?」「この考えは美しいだろうか?」などと、美しい考え方を心がければ、美しい心で美しく生きていけるようになれるのかもしれません。



   

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