読書日記

  生きた証

 『死ぬときに後悔すること25』(大津秀一)より、
22 自分の生きた証を残さなかったこと
 できるだけ早く人生の総括はしておくべきだし、何も老いるまで待つ必要はない。例えば、「5年ごとに何かしらを残せるようにする!」などと計画を立てて、それを達成できるよう生きていくのも良いことだと思う。
 死を前に自分の人生を振り返って、自分が生きた証を残せていないことを後悔する人もいるのでしょう。
 生きた証があれば、自分の存在を認めることができるでしょう。
 それが誰かの役に立つものであれば、なおいいのでしょう。それは自分の存在価値や人生の価値にもつながるのではないでしょうか。

 自分が生きた証として、自分がつくった物が残ること、何かを成し遂げたという業績が残ることが考えられます。自分ひとりでなくても、自分がそれに参加し、何かしら貢献したできたとしたら、それでもいいでしょう。
 大きなことでなくても、小さなことでもいいのではないでしょうか。

 子供を生み育てることも、子孫を残すということで、自分が生きた証になります。
 自分の遺伝子が引き継がれると考えれば、自分の一部がこの世に残るとも考えられます。

 人の記憶に残るというのも、自分の生きた証と考えられると思います。
 そのためには、そういう人間関係をつくる(もしくは、アピールの場をもつ)ことと、その中で自分が相手の心に何かを届けることが大事でしょう。
 自分の記憶に残るというのも生きた証と考えてもいいのではないかと思います。自分の人生の中で、好い想い出を残すことができれば、それが生きた証と考えられるでしょう。

 他にも、生きた証として考えられるものはいろいろあるでしょう。この世に遺したいものがあるという人もいるでしょう。
 そういうものを見つけ、それを目標に努力することは、きっと幸せにつながると思います。目標達成への過程を楽しんで生きられると、なおいいでしょう。

 ただし、“生きた証”にこだわりすぎるのもどうかと思います。ましてや、大きなものを残そうとしたら。
 自分が地球に生まれ、生きたことは紛れもない事実なのです。証など必要ないと思います。

 自分の人生の価値として残すのなら、幸せを感じる経験でいいと思います。
 幸せを感じたことがあるのなら、今まで生きた価値はあった。幸せを感じる可能性があるのなら、これからも生きていく価値はある。このように考えてもいいのではないでしょうか。



   

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