しあわせ日記

7月11日(火)触る
 『生きるヒント4』の1章は、「触る(さわる)」です。
 なにごとによらず行き過ぎはよくない、ということぐらいは、だれもがわかっているはずです。しかし、適当な、ほどのいいところでものごとを保つというのはなかなかむずかしいことではあります。
 という書き出しから、〈清潔〉について、人間同士の接触について、ガン細胞について、などを五木さんは書かれています。

 書き出しを読んで私はすぐに、「○○はいいこと、○○すぎるのはよくないこと」を思い出しました。「いいこと」なら「ほどのいいところ」というのは「過ぎる手前」ではないかと思います。いいことはできるだけしたほうがいいけど過ぎるのはよくない、ということです。ただ、どこが「過ぎ」かの判断は難しいと思います。場合によっては、ちょっと過ぎまで行ってすぐに一歩戻ればいい、ような気もします。自分の限界に挑戦するのは勇気のいることです。

 それから、「清潔はいいこと、清潔すぎるのはよくないこと」と考えましたが、ちょっと疑問が残りました。清潔好き過ぎて、不潔を嫌い過ぎるようになってしまうのが問題なのではないでしょうか。少しでも不潔だと耐えられないくらいイヤな気もちになってしまったり、必要以上にきれいにしなければ気がすまなくなってしまったり。
 清潔は好きでも、不潔を嫌い過ぎなければいいのです。
 私流に言うと、「清潔は好!好! 不潔はハオハオ」という感じです。
 これは、「いい事と悪い事」でも、「好きな人と嫌いな人」でも、「幸せと不幸」でも言えることだと思います。

 私は、人との接触を避けているようなことが多分にあります。体の接触も、言葉の接触も、心の接触も。また、人づきあいも少なくなっています。つきあう人は限られているし、つきあい方はあっさりしているほうです。当たり前の話ですが、私は好きな人たちとのつきあいは好きです。よく知らない人とのつきあいは苦手です。だから、好きな人たち以外とのつきあいは最小限にしています。
 それから、私はひとりが好きです。
 だから、「好きな人とつきあうのは好!好! ひとりも好!好!」です。これは、「○○もよし、□□もよし」の応用でしょうか。
 だから、最近の私は人づきあいで悩むことが少なくなり、それだけ幸せに暮らせるようになりました。

 などと、またいろいろと考えさせていただきました。やっぱり『生きるヒント』は、私にとっては素晴らしい考えるヒントになります。改めて、五木先生に感謝です。



7月12日(水)読む
 『生きるヒント4』の3章は「読む」です。五木さんは、本を読むことについていろいろ書かれています。
 こうしてみますと、トイレに行くにも、食事をするにも、移動するにも、風呂に入るにも、眠りにつくにも、読むという行為がぼくにとっては不可欠の条件であるといい。読むことなしにぼくの生活は成り立たないのですから。
 うー、うらやましい。と私などは思ってしまいます。私もそんな生活がしたい!!
 と言っても私の場合、過去にそういう生活をしたことがあるのですが。会社を辞めてからフリーで仕事を始めるまでの半年ちょっとと、『幸せになる方法」を書いて「幸せのホームページ」に専念していた3年間は、本を読むことが中心の生活でした。
 でも、またそういう生活に戻りたい、と強く思ってしまいます。

 最近でも本を読まないわけではありませんが、時間も短く、前に読んだいい本を読み返すことが多いのです。そして、それは幸せについて考える(おもにこの日記を書くための)ヒントを探すためです。

 本を読むことには、いろいろな愉しみがあり、人それぞれが様々な目的で読んでいるのだと思います。私は最近では、「幸せになるため」に本を読んでいることが多いと思います。そのためには、本を読んで得たものを自分の生活の中に活かすことが重要です。読んだだけでは、自分の幸せにはほとんど役に立ちません。
 でも、人が書いたものをそのまま信じてしまうのはどうかと思います。いいと思うものは試してみて、自分に合うか、自分の役に立つか、を判断すればいいと思います。また、そのまま使うのではなく、自分なりにアレンジしてみるのもいいと思います。たとえ自分に合わないものでも、自分だったらこうする、のように考えるヒントになれば、本を読んだ価値があったと思えます。

 私も少し前までは、「早く、たくさん、本を読みたい」とばかり思っていました。最近では、読んだことを幸せのために役立てたらいいな、少しでも1つでも自分の身につくものが残ったらいいな、と思うようになっています。
 もちろん、読むのが楽しいから・好きだからということで、自分の好きなように本を読めばいいわけです。自分の幸せに役立てるための読書というのもあるということです。



7月13日(木)先を読む
 「読む」と言えば「先を読む」というような使い方もします。将棋や囲碁では「手を読む」と言います。
 “いい読み”には、「広さ」と「深さ」があると思います。そして、「柔軟性」でしょうか。

 「ねばならない」「こうならないといけない」「これしかない」「こうなっちゃ絶対にいけない」などという思いが心の中にあると、考えが狭くなって広く読むことはできません。これが現実にはどうしようもないことなら、いくら考えても出口のない袋小路でオロオロしてしまうだけです。
 「○○に越したことはないけど」「○○たらいいな」「他にも方法があるんじゃないか」「最悪の結果もありうる」というような考えも時には必要だと思います。そういう気もちがあれば、もう少しいろんな可能性を考えられると思います。

 悪い結果になったとしても、その先、つまり「先の先を読む」ことができれば、実はその先にも道があることに気づけることがあります。
 一時的に悪い結果になっても、「その時はその時で何かやりようはあるはず」「きっといつか挽回できる」「結局はなるようになる」「いい経験になるんじゃないか」などと考えられれば、悪い結果を覚悟できます。
 何かを得ようと思ったらリスクが必要な場合があります。時にはリスクを覚悟してチャレンジすることがあってもいいと思います。

 先のことを考えて答えが見つからない時には、簡単にあきらめずに、もう少し「広く」「深く」「柔軟に」考えることを心がけてみてはどうでしょうか。幸せになる考え方ができるようになると、だんだん“いい読み”ができるようになります。



7月14日(金)学び考える
 考えるヒントを外に探す「読む」と、物事を自分で考える「読む」の、どちらもが大切なのだと思います。「論語」の中には、こういうのがあります。
 子曰く、学んで思わざればすなわちくらし。思うて学ばざればすなわちあやうし。

 孔子が言うことには、「学んでも考えなければ[物事は]はっきりしない。考えても学ばなければ[独断におちいって]危険である」
                     『論語』(岩波文庫/金谷治訳注)
 本を読んだりして学んでもそのままにしておいてはなかなか身につかない。よく(深く)考えて自分のものにしたほうがいい。
 ひとりで考えるだけではあぶない考えになってしまいがちである。人の考えも参考にして(広く)考えたほうがいい。

 幸せになるためには、自分の考え方がすごく大きい、と思います。
 幸せになる考えが、物事を幸せに感じ、また、幸せになる行動に結びつきます。
 不幸になりやすい人は、(今まで生きてくる中で)不幸になる考えをするクセがたくさんついているのだと思います。
 長年かかって身についてきた自分の考え方を変えるのは易しいことではありませんが、幸せについて1つ1つ学び考えていけば、少しずつ幸せになる考え方ができるようになります。

 世の中には幸せについて、学ぼうとしない人も、よく(広く、深く)考えようとしない人もたくさんいます。(このホームページに来る人は違います)
 幸せになりたいと思う人は、幸せについて学び・よく考えたほうがいいと思います。このホームページがそのヒントになればいいな、と思っています。



7月15日(土)自分を大切に
 『生きるヒント4』の6章は「異る」です。人間はひとりひとりが違う・異なるということです。
 ただひとりの人間、ただひとりの存在、そのようなものとしてたった一度きりの人生をうけてこの世に生まれてきたということが、かけがえのないことのように思えてならないのです。
 ふたつとないということ、二度とないということ、このことはまったく大事なことで、しかも貴重なもののように思えてなりません。
 本当にそう思います。たった一度の人生だから、自分を大切にしてほしいと思います。

 最近の少年犯罪のニュースを見ると、もっと自分を大切にしてほしいな、と思ってしまいます。そんなことから、心の教育とか命の教育を、とか言われていますが、そういう教育ってできるのでしょうか?

 自分の大切さがわかっていたら、人の命だって大切なことはわかると思います。
 まず、自分を大切にすることではないでしょうか。自分を大切に考えたら、将来の自分を不幸にすることなんてできるはずがない、と思います。
 また、自分の心の大切さを考えたら、もっと幸せについて考えられるのではないでしょうか。

 今度、命の大切さ、心の大切さを伝える方法について考えてみたいと思います。



7月16日(日)自分で選んで従う
 『生きるヒント4』の7章は「従う」です。
 従う。任せる。そのことは実は大事なことです。ぼくは何度もくり返し、大きな目に見えない生命の流れに身を任せることを言いつづけてきました。
 しかし一方では、人間がつくりだしたもの、たとえば科学とか知識とか技術とか、そういうものに安易に従い、安易に身を任せること、そのことに対する疑いも差し挟まないわけにはいきません。
 自分の思い通りにならないこと、自分では変えようのないこと、現実にあること・起きてしまったこと、どうなるかわからないこと、このようなことに逆らうより身を任せてしまったほうがラクなことが多いと思います。

 科学や技術などは、“安易に”身を任せないで、手段や道具の1つとして自分で選んで使えばいいのだと思います。インターネットなんて、自分で選んで使うものの最たるものではないでしょうか。

 私なんかけっこう変わった生き方をしていると思うのですが、そこには「なるようになる」という考えが根づいたからのような気がします。本当に心からそう思えるようになると、すごく自由になれると思うのですが。

 自分で選んだ生き方、でも思い通りにはいかないもの。それはそれでいいんじゃないか、それでも十分幸せに暮らせるんじゃないか、と思います。



7月17日(月)考えること・考えないこと
 『生きるヒント4』の8章は「暗い」です。
 どんな人間でもふっと瞬間に、人生の裂け目から何か見えないものが見えたような気がしてくる、いわば理由のない愁いなのです。そういう愁いのことを、ロシア語では〈トスカ〉といっています。
(中略)
 私たちは人生の愁いとかトスカというものと、できるだけ早くから仲よくして、そういうものを見たり、そういうものから立ちなおったりしながら生きてゆくことが、人間にとって非常に大事な、健康な状態なのではないだろうか。
(中略)
 むしろそういうことを常日ごろ感じて、そのことで暗い思いをされたり、悩んでいたり、ふっと淋しい思いにふけったりすることのほうが、じつは人間にとってとてもいいことなのではないか。そんな人ほど本当のプラス思考ができるのではないか、などと考えるのです。
 誰にでもふと、暗い思いになったり、何かに思い悩んでしまったり、孤独を感じて淋しくなってしまうようなことはあると思います。ふと思わずなってしまうのですから、そうなるのはしかたがありません。でも、そこから立ち直れるのも人間です。

 私はよく、「ラクに考える」とか「軽く受け流す」とか「まぁいいか」とか「なるようになる」とか「ハオハオ」とかいう考えをおすすめしています。
 でもまた、このホームページに書いてあることをヒントに自分で考えてみてはどうでしょうか、自分で試し・自分なりに工夫してみたほうがいい、などとも書いています。
 そして、自分を育てて(幸せになる能力を向上させて)いけば、少しずつ幸せになれる、と書いています。

 自分を育てるためには、自分の幸せにとって大切なことはよく考えて、自分なりの幸せになる考えを見つけていくことだと思います。
 その幸せになるために大切なことを考える時間を少しでも増やすためには(また、幸せに過ごす時間を少しでも増やすためには)、小さなことにクヨクヨしている時間を減らすことが大事なのだと思います。

 何でも考えすぎてしまうのも問題だし、何も考えないのも問題です。
 「考えたほうがいいことはよく考え、考えなくてもいいことは考えない」というのが、幸せに暮らす方法であり、幸せになるための方法でもある、と私は思っています。当たり前のことですが、それを実践できるようになるのは容易ではありません。そのためには日々の積み重ねが何より大切なのだと思います。



7月18日(火)心・情を大切にする
 『生きるヒント4』の9章は「情け」です。
 われわれは、生きた、血のかよった人間です。体温もある。湿り気もある。涙もある。水分もたっぷりもっている。私たちはそういう中で自分たちの〈情〉というものを押し殺し押し殺し、一生懸命、乾いた世界をつくりあげようと努力しているうちに、本当に芯まで乾ききった人間になってしまったんじゃないかと、ふとそんなふうに思います。
 ところで〈情〉というのはなんでしょうか?

 「情がある」「情け深い」などからすると、〈情〉は〈思いやり〉に近いような気がしますが、五木さんが書かれているように、もうちょっと「湿り気」があるような感じを受けます。
 「人情」「友情」「愛情」などでは、人に対する思い、それもやはり温度か湿度があるような気がします。

 「情熱」は、何かに対する熱い思いです。(そのまんま?)
 「感情」は、自分の心(の一部)または心模様みたいなものでしょうか。
 心の中にはいろんな〈情〉があるようです。

 私は、自分の心(感情、情熱、友情などいろんな〈情〉)を大切にしたい、と思っています。それが幸せになるためには重要だと思うからです。
 現実は変わらなくても、心の働きで少しでも幸せな方向に動けたら、と思います。心を動かす方法で大きいのは、何をどう考えるか、です。その時に自分にできる幸せになる考え方を心がけたいと思っています。

 人に対する〈情〉は、実は、人(の心)を思いやる自分の心で、それを大切にすることは自分の心を大切にすることだと思います。「情けは人のためならず」にはそんな意味もあるのではないでしょうか。
 人の心でも自分の心でも、とにかくもっと心を大切にする人が増えたらいいな、と心から思います。まずは自分から。



7月19日(水)技を磨く
 『生きるヒント4』の「著者からのメッセージ」より。
 ここで私が書いていることは、いつも同じことです。重複している部分も、あちこちあります。子供のことから考えつづけてきて、この年になってもやはり変わらずにそう思うことを書きつづけているのですから、それも当然でしょう。
 人は変わる。時代も変わる。しかし、同じひとつの歌をうたうということの大事さも、またあるのではないかと、ひそかに考えています。
 そうなんです。このホームページでも同じようなことばかり書いています。そして、私も同じようなことを考え・書くことには価値があると思っています。

 私は自分で考え・書いたことでもすっかり忘れて生活していることがいっぱいあります。私が自分で書いたことすべてを自在に実践できたら、もっとすごく幸せになっていることでしょう。でも、それができないのも人間なんじゃないか思います。

 スポーツでも芸事でも、何かの技能でも、それを身につけ上達しようと思ったら、同じ事を繰り返し練習します。はじめからうまくはできないものです。うまくできるようになるまで自分なりに工夫をしながら努力する。また、試合や試験や実践で試し、その反省を活かしてまた技を磨く。このようなことを多くの人がやっているはずです。

 では、幸せになる考え方や方法についてはどうでしょうか。まったく同じことだと思うのですが。
 私は、“(幸せの)技のデパート(○○百貨店みたいのではなく東急ハンズのような?)”を目指したいと思っていますが、いくつかでも自分の得意技ができればそれだけでもけっこう幸せに暮らせるようになると思います。私にはいくつか幸せの得意技があります。

 あなたも幸せになるための自分の技を見つけて、磨いてみませんか。光り出すまでには少し時間がかかるかもしれませんが。



7月20日(木)今がいちばん幸せ
 『生きるヒント4』の「著者からのメッセージ」より。
 ぼくは六十代の半ばにさしかかって、以前よりもかえって一日一日がとても大事な時間に思われるようになってきました。若いころよりも今のほうが、充実した日を送っているように感ずるのです。昔に戻りたい、若いころに返りたい、などとは決して思いません。いまが自分の人生で一番いい季節だと、本当に心からうれしく感じています。そんな人間を決してお手本ではなく、ひとつの見本として横目で笑って見てくださることが、作者にとってはもっともうれしいことなのです。
 私も四十代の半ばにさしかかって、今がいちばん幸せを感じられるいい時期だと、心からよろこんでいます。きっとこれからも・・・でしょう。
 でももし、今の心を持ったまま若い頃に返れるのなら、喜んで戻らせてほしいと思います。心も元に戻ってしまうのなら意味ありませんが。
 私のような幸せオタクはお手本にはならないと思いますが、考えるヒントとして横目で笑って見てくださるととてもうれしいし、少しでもお役に立てればほんとうに幸せだと思います。

 なぜ今がいちばん幸せなのか?
 答えは簡単、幸せになる能力が向上してきているからです。そして、それが続いていけばこれからもさらに幸せになれ、いつでも「今がいちばん幸せ」ということになることでしょう。

 五木さんのようにプロとして、私のようにオタクとして、幸せについていっぱい考えることは、ふつうの人には難しいかもしれません。でも結局、幸せになる能力は時間をかけて自分で育てるしか方法はないと思います。その際の有効な手助けがもっとできたらいいな、と思います。


   

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