しあわせ日記
11月24日(木) 退屈しのぎ?
ラッセルの「幸福論」(岩波文庫)第1部「不幸の原因」
第4章「退屈と興奮」より、
退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。
幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。興奮はさせるが、身体はちっとも動かさないような快楽、たとえば観劇などは、ごくたまにしか与えるべきではない。この種の興奮は、麻薬に似ていて、次第に多量に求められるようになるからである。
退屈に耐えられないとしてしまうのが“退屈しのぎ”です。
退屈しのぎやヒマつぶしが多い生き方は、あまり幸せではないでしょう。
退屈する時は、ある程度の時間の余裕があるということでしょう。
退屈しのぎができるのは、それなりに自由だということでしょう。
時間の余裕があり自由なのは、幸せなことです。
その時間を使って、自分が幸せになれることを考え、実践すればいいのではないでしょうか。
私は退屈をすることがほとんどありません。
やりたいことがいろいろあるからだと思います。
今できるやりたいことが特にない場合には、幸せな気もちになれることをすればいいのです。幸せを感じることがやりたいことの一つとも言えます。
興奮や心の高揚は幸せな感じの一種です。それらを感じられることは、決して悪いことではなく、やりたいことにもなり得るでしょう。
ただし、本当は大してやりたくない場合には、退屈しのぎになってしまうのではないでしょうか。
たとえば、テレビやビデオを見たり、ゲームをしたり、人としゃべったりすることを退屈しのぎにしている人もけっこういると思います。それが習慣になっている人、中には中毒のようになっている人もいます。
同じことでも、自分の楽しみとしてやったり、気分転換としてやったり、喜びや幸せを感じるためにやっているのなら、やりたいことをやっていると言えると思います。
“退屈しのぎ”と思うか、“やりたいこと”と思うかは、その人によるのでしょう。
本当にやりたいことなら、やれる幸せを感じることができるはずです。
そういうやりたいことがいろいろあるといいのではないでしょうか。
そういうものがない人は、やりたいことを探してみるといいと思います。
やりたいことがいろいろある人は、退屈もしないでしょうし、退屈しのぎの必要もないでしょう。
退屈する時間がある人は、幸せになるために使える時間の余裕がある、とも考えられたらいいのではないでしょうか。