読書ノート
『幸福になるための根本原理』 ダライ・ラマ14世
解説をするつもりはありません。「幸せ」についてのヒントを探し、私なりに考えたことを書こうと思っています。
思いやりの心を実践するために
ダルマは日常生活のなかに見いだすべきもの
いかなる人間もその本性は善である
科学では精神の飢餓は癒せない
慈しみの心とあわれみの心の大切さ
渇愛とは異なる慈しみの心
悪意にも菩提心で応じる
平和の源はすべて心にある
精神主義の輝きのなかで
「幸福になるための根本原理」は、「私たちのゆくえ」(ダライ・ラマ14世/ペマ・ギャルポ監訳/KKベストセラーズ)の冒頭の章です。
☆『幸福論のページ』
思いやりの心を実践するために
「誰もが幸福を望み、不幸や苦しみを避けたがっています」
「幸福は思いやりの心から生じるものであって、怒りや憎しみからは生じません」
「思いやりの心と相互の理解、相手への尊重を通して、
私たちは心のやすらぎを、平和を、幸福を、
そして心の満足を得ることができるのです」
すべての人が思いやりにあふれる人だったら、本当に幸せな世の中だと思う。
「深遠なる哲学も、僧院も、寺も、仏や神の像も、
いや仏や神すら必要ないのです。
ただ思いやりの心を培い、実践さえすればよいのです」
ダライ・ラマはすごい人だと思う。
「よき人間になるべく努めればよいのです。
よき人間とは、暖かい心の持ち主、他人に思いやりの心を持つことのできる人間をさします」
「もっと他の人々や生きものの利益を考え、他者のためにつくす」
私は「人を幸せにする」ことは自分が幸せになる方法の1つだと考えている。考え方は少し違っていても、人の幸せを考えることは同じだ。
ダルマは日常生活の中に見いだすべきもの
「仏法(ダルマ)は寺や僧院にではなく、
日常生活のなかに見いだすべきものなのです。
日常生活を正しく、利他心とともに生きる、これが私にとっての仏法です」
「あなたの日常生活と仏法がかけはなれたものになると、
仏法は一種の娯楽の対象になってしまいます」
「仏法をあなたの日常生活につねに関連づけていくことが肝心なのです」
私は、自分の幸せになる方法も日常生活の中にある、と考えている。
日常生活の中で幸せに暮らすことが目標であり、幸せになる方法の実践も幸せになる能力を育てることも日常生活の中で行なうべきだと考えている。
もっとも、すべての状況を日常生活の一部と言うこともできる。
人生には、いろいろな事があり、いろいろな時がある。時とともに生活が移り変わっていくのも人生だ。
結局、いつでも幸せに暮らすように心がければいい。それが日常生活になった人が幸せなんだと思う。
私はそうとう幸せな人なんだ、とあらためて気づいた。
いかなる人間もその本性は善である
私には、わからない。
「誰かに怒りや憎しみを覚えたなら、こう考えてみて下さい。
たとえ彼らが外なる敵でも、けっして自分の内なる敵にはなりえないと」
私なら「こういう人も世の中にいる。こんな人のためにイヤな気分になるのは損だ。それより、幸せになることを考えよう」と考える。
「すべての宗教は究極的には同じメッセージを伝え、同じゴールを掲げているのではないでしょうか。そのゴールとは、よりすぐれた、より思いやりのある人間へと変容させることです」
科学では精神の飢餓は癒せない
「科学や技術そのものも、人間の幸福に少なからず貢献することができます。
といっても物理面における幸せだけ」
「物質的にいくら満たされても、精神的な飢餓を満たすことはできないのです」
そうだろうか? 私は物質的に恵まれていて幸せだとよく思う。科学を精神面の幸せに利用することも考えられる。私は、コンピュータやインターネットを利用して人の幸せに役立ちたいと思っている。
科学とか仕事は本来人の幸せのためにあるべきで、それを忘れて効率や業績を最優先すべきではない。
「精神面を正しく培うことができれば、その副産物として心にやすらぎが生じ、心をもっとも有効なかたちに制御できます」
「いかなる困難に遭遇しようとも、平静さをもって立ち向かうことができます」
そうかもしれない。
「精神面での発達を考えるとき、あわれみの心、慈しみの心、人類愛を基盤におくことが肝心です」
私は自分の幸せの中の1つが「人を幸せにする」幸せだと考えている。
慈しみの心とあわれみの心の大切さ
「絶対多数の幸福と、たったひとりの幸福のどちらが大切か」
私は比較よりも、多くの人の幸せを自分の幸せと考えられることが大事だと思います。
「仏教では、慈しみの心(慈)とあわれみの心(悲)の大切さを説きます」
「慈しみの心とあわれみの心を行じるにあたっては、
なにも世間から隔絶する必要はありません。
というより、世間と交わりつつ、こうした心を培っていく必要があります」
渇愛とは異なる慈しみの心
「真の慈しみの心、真のあわれみの心、真の同情心は、
自分を害するものにさえ注ぐことができるはずです」
汝の敵を愛せよ、と同じことか。難しいことだと思う。
私はたぶん、そういう人にはあまり関わらないようにするだろう。他の幸せにしたい人のことを考えたい。まだまだ未熟なのだろうか。
「自分に敵対してくる存在、自分にあだなす存在は、
あなたの精神生活にきわめて重要な役割をはたします。
そういう人々の存在を通して、あなたは忍耐と内面の強さを培うことができるからです。」
こうありたいとは思っている。
私は不幸は幸せに変えられると思っている。しかし、進んで不幸になろうとは思わない。ただし、幸せになろうとした結果として不幸な結果になった場合には、喜んで幸せに変えたいと思っている。
悪意にも菩提心で応える
「他者のために善きことをなそうという意図は、
周囲の人々に自ずと幸福をもたらします」
「生きとし生けるもののためにあわれみの心や慈愛の心を起こすことによって、
他人だけでなく、自分にも幸福と心のやすらぎをもたらすことができます」
こういう考えは、私も好きです。
「悪意には善意で、憎悪には愛で、侮辱には慈愛で、
害悪にはあわれみの心で応じるのが菩提心の行なのです」
宗教家の人のすごさはこういうことだと思う。残念ながら、私はそういう人と実際に会ったことはない。
平和の源はすべて心にある
「真の祈りとは、心をコントロールし訓練するためのものなのです」
祈りにそのような意義があるとは思わなかった。
祈りとは不思議なものだ。
私は人の幸せを祈ることがある。
「実際他者への慈愛の思い、利他行は、
他人だけでなく、自分にも幸せをもたらすのです」
人を幸せにすることは自分の幸せ。
「心の平和への決意があれば、
結果的にはそれは言葉なり、行動なりに表れるようになります。
心に固い決意なくして言葉を発したり、行動を起こしたりしても、
なんら目的は達成できないでしょう」
固い決意、強い意志、切な願いが自分を変える。
なんとなくでは、人はなかなか変わることはできない。
しかし、本当に変わるためには時間がかかる。ひとつひとつ変えていくのが近道だ。急に変わるのは無理がある。習慣を変えるのが確かな方法だ。そのためには最初は強い意志がいる。でも慣れれば自然にできる。それが習慣というもので、人は主に習慣に従って生きている。
精神主義の輝きの中で
「いかなる宗教でも、生きとし生けるものを苦しみと苦しみの因から解放し、
幸福と幸福の因をもたらそうという点では同じです」
それは私も同じです。
「人は内なるやすらぎと幸せからますます遠ざかっています」
「真の幸福、真の心のやすらぎの基盤となる精神生活を確立することが
焦眉の問題になってきます」
私は「幸せに暮らそう」と意識して生活すればいいと思っている。そのためのヒントや方法を工夫しようと考えている。私は最近、以前よりたくさんの幸せを感じながら生きている。
「精神主義の道を歩むことによって生じた内なる輝きが全世界を照らしだすとき、
慈しみとあわれみの心、菩提心を起こし、
とこしえの幸福の境地へとおもむくことができるでしょう」
自分の日常の中で現実に即した幸せな精神生活を営みたいと思う。
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