しあわせ日記

2月11日(水) 立川談志

里谷多英さん、金メダルおめでとう!
 
 午後、「感動エクスプレス 立川談志の遺言状」(フジテレビ)を見る。
 談志さんは昨年、食道ガンの内視鏡手術を受けた。その後3ヶ月の追っかけドキュメント。

 現在62歳の談志さんは、日本全国を落語・講演のために忙しく飛びまわっている。原稿も書く。
 談志さんは、せっかち。待つのがきらい。歩くのが速い。
 談志さんは、衣食住にはあまりお金をかけない。ラフな格好。テレビカメラの前で平気で下着姿になる。よく自分で食事を作る。材料はおもに残り物。食べたい時に食べる主義。ふつうのマンションに奥さんとふたりで住んでいる。
 談志さんは、出会いを大切にしている。何年にも渡って毎年、落語・講演に行くところがいくつかある。談志さんは、愛妻家。「添いとげないと価値観はわからない。添いとげると、かけがえがなくなる。かけがえがなくなるまで、いっしょにいてみるのがいい」 2月1日の「1×1」(TBSテレビ)では、「カミさんが死んだら、狂っちゃうね」と言っていた。
 談志さんは、勉強家。いろいろな本を読む。落語の勉強にも力を注ぐ。よく考える。「何も考えていない時はあるの?」と聞かれ、「ない!」と答える。思いついたことをよくメモする。

 私は、談志さんはすごい人だとは、なんとなく思ってはいました。
 2月1日の「1×1」で、談志さんは遅刻してきて、「遅れてくるのは、前の時間が楽しかったから」と言いました。私は、一流のジョークだと思いました。今はもっと深い意味だと思います。

 意味深い、談志さんのお言葉。
「何が不景気だ。(本当の)不景気だったら、こんなところにいられないよ」
「(今の不景気なんて)オレに言わせりゃ、屁みたいなもんだよ」
「あと3年の寿命、と自ら決めている」
「(3年に)こだわれば、その間の人生を凝縮できる」
「いいじゃねぇか。生まれて、死にゃあいいんだよ」
「もう十分に生きている」
「自分に忠実に生きるのがいちばん」
「本当に好きなものをやめてまで、生きている価値はない」
「何かをすれば、リスクはともなうんだ。生きていりゃあね」
「幸せの基準をどっかで決めよう。それが人間が生きていく上での手立て」

 立川流の弟子のビートたけしさんは、以前に次のようなことを言っていました。
「好きだ、苦もなく努力できるのも才能」
 談志さんもたけしさんも、そういう意味での天才だと思います。

 私は、"幸せ"について考えるのが好きです。幸せについて考えたり・書いたりすることは、苦になりません。

もしかして 私って、幸せの天才?



2月12日(木) 相模原
 けさの散歩中はずいぶん暖かかった。昼間に降ったのは雨だった。
 さて、先週の宿題です。相模原ってどんな所?

 我がサガミハラ共和国は、銀河連邦に属する5つの共和国の中の1つです。
 これは本当です。といっても、姉妹都市のようなものです。相模原には文部省宇宙科学研究所があります。"銀河連邦"は宇宙開発関連都市のサークルです。

 実は、相模原の説明は難しいのです。
 山がない、海もない。とうぜん、山の幸・海の幸もない。有名な景勝地もない。名産・特産を私は知らない。相模原には、中心となる街がありません。各駅の周辺の街は、どんぐりの背くらべです。(数年前に、伊勢丹ができた相模大野が今一番の繁華街)

 相模原市は、神奈川県北部の相模野台地にあります。人口約58万人。
 要は、人口急増中のベッドタウンなのです。
 もっと知りたい人は、相模原市のホームページをご覧ください。

 私が生まれたのは、相模原の北にある津久井郡にある今は津久井湖の中です。生まれてすぐに相模原に引っ越したということ。相模原で育ち、今も住んでいます。
 私が子どもの頃の相模原は、米軍キャンプがあることで少し有名なくらい。いくつかの工場と、雑木林と桑畑が多かったというイメージです。
 私は、20代後半の都心でのひとり暮らしの6年間以外は、相模原に住んでいます。相模原市は神奈川県ではいちばん広いほうですが、私はほとんどの地域を知っています。市内を7回引っ越したこと、若い頃はランニング・今は散歩でいろいろなところに行ったことがあります。

 特徴のない相模原ですが、私は好きです。その歴史も地理もよく知っているからのような気がします。自分の歴史がつまったところでもあります。
 「知れば知るほど、好きになる」
 人も自分も、よく知ることが好きになる秘訣。
 あなたは、自分の考えていること・感じていること・やりたいことなど、自分のことをよく知っていますか?



2月13日(金) 子どもへ
 「がん戦争Part15〜死ぬこと・生きること」(2/10・テレビ朝日)をビデオでみる。がん闘病中の方・がんで家族を亡くした方から番組に寄せられた311通の手記の中から、10人の取材ドキュメント。

 生と死に関する深いお言葉が次から次へと出てくる。(それは、今度の「近頃のお言葉」に書こう)

 限りある命だから、何をして生きようか、何を残せるか、と考えた人が多い。そして、まだ幼い子供がいる人は、なんらかの方法で子供へのメッセージを残した。

 ある母から子供へ残したノートより、
「お母さんは、健ちゃんの心の中に生きています」
 ある父から子供へ残した録音テープより、
「みんなの幸せのために生きてください。それが父さんの願いです」
 ある父と娘の交換日記より、
「父さんは頑張ったぞ。エリ子も強く生きてください。
 父さんは、いつまでも応援しています。頑張れ、エリ子」

 子供にとっては、大きな財産となる言葉、一生の宝物。

 多くの親は、子供に心を残せない。心の中の愛を伝えられない。
 多くの子供は、親から愛を感じられない。

 自分を一生、見守ってくれる・応援してくれる・幸せを願ってくれる、そんな存在が自分の心の中にいてくれたら、どんなに心強く・助けられることだろう。
 その存在は、親とは限らない。もうひとりの自分でもいいと思う。(神や仏でもいいのかもしれない)
 いつでも、自分を見守り・励まし・助けてくれる、もうひとりの自分。そんな自分を心の中に育てられたら、と思う。弱く未熟な子どもの自分のために。



2月14日(土) 好!好!
 午後、バスケットの練習へ行くために電車に乗る。いつものように本を読み出す。感動的な場面で思わず涙があふれそうになり、本を閉じ目をつぶって寝たフリをする。読んでいたのは、「大地の子」(山崎豊子・文春文庫)。中国残留孤児が主人公の小説。

 この本の舞台は大半が中国。セリフは日本語で書いてあるが、ごくわずかは中国語のまま。「称好(こんにちは)」など。そして、「好!好!」がところどころに出てくる。このホームページではお馴染みの「ハオ!ハオ!」。「いいぞ、いいぞ」「いいですね、いいですね」という感じで使われています。

 バスケットの仲間に、電車の中で泣きそうになったことを話したら、「歳のせいじゃない?」と言われた。私は、感じる能力が強くなった、と思っている。

 練習後の飲み会では、チョコレートの詰合せが3種類まわってきた。バレンタインデイの義理チョコですが、それを持ってきてくれる気持ちがうれしい。あと、1通うれしい手紙も届きました。

 きょう練習に遅れてきた何人かは同じ理由でした。長野オリンピック・スピードスケート女子500mをテレビで見ていたから。岡崎朋美さん、銅メダルおめでとう!

 きょうも、うれしいことがあって、幸せな1日でした。好!好!



2月15日(日) 好!好!

船木和喜さん、金メダルおめでとう!
 
 原田雅彦さん、清水宏保さん、銅メダルおめでとう!

 よかったでね、原田さんの大ジャンプとインタビュー。
 船木さんは、きょうのトライアルジャンプで転倒したそうですが、「最終確認ができてよかった」と言ったそうです。いいように考える、幸せになる考え方ですね。

 ところで、長野オリンピックのマスコットって知ってますか?
 イラストやぬいぐるみになっている4羽のフクロウの子どもたちです。
 スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキー。みんなそろって、スノーレッツ(Snowlets)。owletは、フクロウの子ども。
 なんか、親しみがもてます。

好!好!



2月16日(月) ガンとメールと家族
 きょうの「親の目子の目」(テレビ朝日)は、「おとうを支えたメール〜ガンと対峙した14ヶ月」。
 清水公彦さん(50歳)は、平成7年9月、肝臓ガンが発覚、手術。

 息子・和彦さんは、親と離れた仙台で学校に通っている。和彦さんは、父に手紙を書き始める。「自分にとっての"父"とは、と考えます。命や家族は尊いものだと感じました」
 和彦さんは、家族・人生・病気・死などについて考え、それを手紙に書く。
「書くことで自分の中で整理されていく」と語る。

 手術の半年後、ガンの肺への転移が判明。

 妻・芳子さんは、夫の病状や近況を逐次、電子メールで息子に報告するようになる。
 妻は息子からの返事に勇気づけられる。
 夫も子供からのメールを楽しみにする。

 ガンは進行し、緩和ケア(痛みをやわらげ快適に過ごす目的)のため、埼玉ガンセンターに入院。病室にもパソコンを持ち込み、親と子のメールを含めた緊密な交流は続く。父、死去。

担当看護婦さん 「なにもかもステキな家族だと思った」
息子・和彦さん
「父から学んだことは多すぎる。感謝しつくせない」
「父とこの世で会うことはもうないが、自分の心の中には生き続けている」
妻・芳子さん
「あの人の人生の中で、あれだけみんなに愛された時期は、最初で最後だったと思う。だからすごく幸せな時期だったのでないか、と自分で納得している」
「今まで自分が生きていることに気づいていなかった。夫の死によって、自分が今生きていることに気づかされた」



2月17日(火) いい経験

日本チーム、金メダルおめでとう!
 
 よかったですね、長野オリンピック・ジャンプ・団体ラージヒル。まさに、チームの勝利って感じです。

 それにしても、原田さんはやってくれます。ドラマを作ってくれました。きょうもすんなり優勝していたら、こんなには感動しなかったでしょう。4年前のこともあったので、なおさらです。

 苦労してつかんだ幸せほど幸福感が大きい、という側面があります。
 一時の失敗や困難を乗り越えた経験は、喜びを大きくするだけでなく、自信を持つことができ、自分を育てることができます。自分が成長することは、将来の幸せにつながります。

 「若い時の苦労は買ってでもせよ」ということわざがあります。
 山中鹿之介は、「我に七難八苦を与えたまえ」と天に祈ったと言われています。
 わざと失敗する必要などありませんが、「いい経験」と何かにチャレンジしてみるのはいいと思います。うまくいったら大喜びすればいいのです。世の中、そういうこともありえます。特に、未経験のこと・運やツキの要素があること・人の気持ちの問題などは、やってみなければわからない。
 失敗しても、いい経験として自分を育て、次の大きな幸せを目指せばいいのです。落ち込むよりも、そう考えたほうが幸せだと思います。

 原田さんはすごい、と思います。
 原田さんは今、日本一の人気者かもしれませんね。



2月18日(水) いい経験
 「思いきってとび出せば〜青年海外協力隊員14人の手記」(パウロ文庫)を読みました。先日、古本屋さんで見つけた本です。
 この本に手記を寄せた方たちの派遣国と職種。
 タイ、バングラデシュ、パプアニューギニア、シリア、エチオピア、ケニア、セネガル、マラウイ、ホンジュラス、パラグアイ。
 日本語教師、野菜栽培、養鶏、家畜飼育、地質学(井戸掘り)、理数科教師、建築、農業土木、土木設計、森林経営、家政(生活改善)、看護婦。

 それぞれの動機で青年海外協力隊に参加されたようです。

 渡辺啓子さん、パラグアイ・看護婦、1985〜1987
 子どものころ、私はシュバイツァー博士にあこがれていた。少しでも博士に追いつきたいと思っていたし、博士のように<だれかのために何か一生懸命やってみたい><外国に行ってみたい>と思っていた。それが、私の夢でもあった。
 しかし、そんな子どものころのあこがれは、時がたつにつれて次第に薄れていき、いつか私は大人になり、仕事に追われ、次第に私自身の優しさや思いやりが少しずつ失われていくような気がしてならなかった。
 そんなゆとりのない自分をもう一度見つめ直したいと思っていたとき、私は協力隊のポスターを見つけた。そして、子どものころの夢やあこがれが急にあふれ出し、協力隊に参加してみようと決心した。

 開発途上国での生活からいろいろと考えた人が多い。

 酒井欽也さん、パプアニューギニア・野菜栽培、1986〜1988
 2年間電気も水道もない生活を送ってみて、何の不自由も感じなかったどころか、たいへん楽しく過ごすことができたのである。部族闘争という問題を抱えているにせよ、村の人々の生活のほうが、ほんとうの人間のあり方のような気がする。

 深井善雄さん、セネガル・農業土木、1987〜1989
 アフリカ人は、日本や他の先進国と比較できないけれど、彼らは彼らなりに暮らしている。だから一概に貧しいとか飢えていると思うのは間違っている。(中略)
 ぼくは彼らをかわいそうとか汚いと思ったことがない。小さい子どもたちはほんとうにかわいい。大人も若者もみんな明るくて、ゆとりがある。そしてぼくにない強さ、精神面の強さをもっている。彼らがぼくに与えてくれた心の暖かさは忘れられない。

 日本に帰ってきてから、考えることもあるようです。

 関口武雄さん、マラウイ・森林経営、1984〜1986
 二年間の任期が終わり、成田空港に飛行機が着陸しようとするとき、私は、ふと思いついてメモした。「自分のやりたいことをやっていこう」と。(中略)
 ただ、自分を大切にして方向だけは見失わずに、試行錯誤しながら前進していきたいと思う。

 酒井欽也さん、パプアニューギニア・野菜栽培、1986〜1988
 ぼくは何でもいいから役に立ちたい、喜んでもらいたいと思っていた。アフリカで、ぼくは役に立ったと思う。この気持ちは、また役に立って喜んでもらえることへと、ぼくを駆りたてるのだ。

 みんな、いい経験をしたと書いています。
 私はこの本と出会えて、いい経験のほんの一端でも分けてもらえたような気がして、よかったと思います。



2月19日(木) 精神対話士
 「共に生きる明日」(NHK教育テレビ)は、「話してくださいあなたの心〜対話が癒す孤独」。

 東京・原宿にあるMCAJapanメンタルケア協会では、精神対話士(国家資格ではない)の養成・派遣をしている。
 半年間週1回の講座を受け、試験に合格すると、精神対話士と認定される。
 協会では、依頼者へ精神対話士を派遣する。依頼者は心の中に寂しさのある人(孤独、人とつながれない、人に理解されない、など)ということ。精神対話士は、訪問または待合せで依頼者と会い、1回80分の対話(主に相手の話を聞く)をする。(システム・金銭的なことは、番組では不明)

 大谷恵美さん(36歳)は、3年前に精神対話士になった。幼児教育の仕事のかたわら、精神対話士として活動している。
 大谷さんは、高校生の時にうつ状態になり神経科に通ったが、音楽大学進学後は症状が軽くなっていった。大学卒業後は3年間、女子高の音楽教師をしたという。
 自分の経験を活かし、過去の自分と同じような問題を抱える人の力になりたい、と精神対話士になった。

 大谷さんは言う。
「人に信頼され、大事なことを報告してもらえたりすると、うれしい」
「人と話したい、人と関わりたいという思いは、誰にもある。私にもある。そのことで自分の存在を認めることができる。私自身が生きていくために必要な関わりです」

 本来なら、家族や友達ともっと話をすればいいのでしょうが、深刻な話はかえって難しいということもある。また、人の話をうまく聞いてくれる人はそんなにいない。
 逆に、人の話をよく聞ける人になり、人の悩みを聞いてあげられる立場になることが、いいのかもしれない。

 寂しさを癒す方法は、人と関わる以外にもあると思います。
 自分の話をよく聞いてあげる(自分の考えを書いてみる、など)、幸せになる考え方を心がける、夢や目標を持ち前進できることをする、人の幸せを考える、ひとりを愉しむ、など。
 その前提として、自分を好きになり、自分を幸せにしてあげようと思うこと。



2月20日(金) ガンと幸せ
 今夜の「中村雅俊のゼッタイ!知りたがり」(フジテレビ)は、「ガンと闘う芸能人とその家族」。

 池田貴族さん(34歳)は、96年10月肝細胞ガン(進行性)の診断を受け、手術。「どうせ長くは生きられないんだから」と苛立ち、投げやりになったという。幼い姪が見舞いに来た時、池田さんが姪をかわいがる様子を見た恋人の一美さんは、「赤ちゃん、ほしいね」と言う。そして、妊娠、入籍。直後に、ガン再発、再手術、抗ガン剤治療。今週の月曜、2月16日女児(美夕ちゃん)誕生。

 「思えばすべてのことが今ここにつながっているように感じる。
  ガンにならなければ子供を作ろうとは思わなかった。
  子供がいなければもっと生きようとは思わなかった。
  また、家族の大切さ、命の尊さを真剣に考えたりすることはなかった。
  今回のマイナスは、きっと大きなプラスへの試練なのだ」(池田貴族)

 ガンと自分のことだけを思い悩み、投げやりになった池田さんは、「生まれる前の子供に助けられた」と希望を取り戻し、今は妻と子供のために「あと20年は生きたい」と思っている。

 私は5年くらい前に、池田貴族さんと会ったことがあります。私の友達に池田さんと高校の同級生が4人います。そのうちの1人の結婚式の二次会で会いました。ちょうどイカ天(「イカすバンド天国」TBSテレビ)の人気が出た頃で、私はRemoteのボーカル・池田貴族を知っていました。短い時間でしたが同じテーブルにつき、仲間と話を聞いたのを憶えています。

 ガンは一種独特の病気だと思います。死という恐ろしい結末も予想されますが、それがいつかは明確にはわかりません。治ることもあれば、再発することもあります。その間、ベッドに寝たきりになる時間はそれほど多くはないようです。自由にできることも多い。
 そうなると、「どう生きようか?」って真剣に考えられるようです。当然、「自分の幸せ」について、深く考えます。

 死なない人間はいません。ところがふつうの人は、いつ死ぬかわからないからか、真剣に生き方を考える人は少ないようです。「幸せ」についても深くは考えません。

 私は幸せオタクですから、ガンに関わった人たちの言葉の中に、幸せになるヒントをたくさん見つけられます。そして、このホームページにいろいろ書きます。
 これを読んでいるあなたは、このホームページの中から、あなたの幸せになるヒントを探してみてください。結構、効率のいい幸せになる方法かもしれませんね。