しあわせ日記


6月11日(水) あきらめちゃダメ
 きのうの「いいひと」(フジテレビ)から、
「みなさん、あきらめちゃダメですよ!
 チャンスなんて1度じゃないと思うんです。何度でもあると思うんです。
 1回でつかむ人、99回でつかむ人、どっちも幸せだと思うんです」

 来週の予告から、
「走ることを続けていれば、いつか夢は叶います」

何言ってんだ!世の中そんなにうまくばかりいくものか!    
    なんでイライラしてるの?本当は信じたいからじゃない?



6月12日(木) 本当の幸せ
 きのうの朝届いていたメールについて、きのうから考え続けています。

 話は先週末に戻りますが、
「誰もが本当の幸せを望んでいます。本当の幸せとは絶対に崩れない幸せです」と書かれたメールが届きました。
 私は次のような返事を書きました。
「私は、本当の幸せや絶体の幸せや崩れない幸せがあるかどうかは知りません。私はそういうものを求めていません」
 それに対してきのう届いたのは、
「もし、崩れない幸せがないとしたなら、それは悲劇です」というものです。

 正直言って、私は「絶対に崩れない幸せはない」と考えていました。しかし、本当にそうでしょうか。きのうの日記にも「あきらめちゃダメ」という「いいひと」の言葉を書きました。「ない」とあきらめてしまったら、その時点で見つけることは不可能になる。「もしかしたらあるかもしれない」「本当の幸せとはどんなものだろうか」と探し続けたら、見つかるかもしれない。少なくとも幸せについて考える視点を1つ増やすことはできる。
 「幸せについて」考えることは、私のライフワークであり、楽しみでもある。

 とりあえず、少し考えたことを「考え事」のページに近々掲載しようと思っています。

 ぜんぜん話は違うが、きょうの読売新聞・夕刊の斎藤由貴さんの連載エッセイ「わたし流」の内容がなんと「NBAの魅力」だった。それもユタ・ジャズの話、私も5月30日の日記に書いていたので、追記しました。



6月13日(金) イタズラ電話
 相変わらず新聞・雑誌・テレビ等でストーカーについて取り挙げている。犯罪も弱者や見知らぬ人を狙うものが目につく。それも犯人は、"ふつうの人"だ。やはり心に大きな問題を持っている人が多くなっているのだろうか。

 今晩の「中村雅俊のゼッタイ!知りたがり」(フジテレビ)は「いたずら電話撃退法」だった。イタズラ電話も陰湿な犯罪だ。
 番組では対策として、NTTの2つのサービスを紹介した。
 迷惑電話おことわりサービス。イタズラ電話がかかってきた後、144を押して相手の電話番号を登録する。以降、登録された電話番号からの電話は着信拒否される。
 二重電話番号サービス。現電話番号の他にもう1つ別の電話番号を持ち、2つの電話番号を時間帯により使い分ける。
 その他にもいくつか対策も紹介されたが、警察は簡単には動いてくれないし、人を疑うこともつらい。

 犯した罪は許されるものではないが、そういう行為をする人も哀れだ。他にやりたいことはないのだろうか。そんなことをしても幸せであるわけがない。少なくとも幸せに暮らしているとは思えない。どこかで自己嫌悪に陥るのではないか。
 自分がどんな状態にあっても、犯罪行為はもとより、なりたくない自分にならないようにだけはしたい。誰が自分のことを何と思おうと、自分に嫌われ、自分に見放されることだけはしたくない。



6月14日(土) 怒らせ上手
 今朝、電車の中で座席にすわって「竜馬がゆく」を読んでいると、斜め前の座席の方から中年女性の声が耳に入ってきた。見ると、隣にすわっている30代くらいの男性にブツブツ言っている。
「そんなことしなくてもいいのに」「ひと言、言ってくれれば良かったのに」「あんな言い方しなくたって」
 どうやら、女性がバッグを脇の座席上に置いていたらしい。それを、男性が強い口調で何かいいながら、手で乱暴に押しのけたようだ。50歳くらいに見えるその女性は、男性に言っているというよりも、まわりの乗客に訴えているようだった。まるで自分がかわいそうな被害者なような言い方だ。
 私はその男性が怒りだすのではないかと見ていたが、男性はブスッと押し黙ったままだった。それは私が町田駅で降りるまで、少なくとも1駅半は断続的に繰り返されていた。

 人生相談の中で多いのが、男性の暴力だ。
 ある女性は、前の夫の暴力が原因で離婚し、再婚したらまた暴力男に当ってしまったという。ワイルドなタイプの男性が好きなのかというと、そうでもないらしい。どちらかというおとなしい男性が好きだという。ところが結婚すると暴力夫に変わるのだと。

 そのうちにわかってきたことは、その女性が怒らせ上手らしいということだった。もちろん本人がわざと怒らせようとしているわけではない。しかし、相手の怒りが爆発するまで口での攻撃をやめない、ずっと前の話などをえんえんと持ち出す、それを言っちゃあおしまいよという殺し文句を言う、などの怒らせ上手のテクニックを使う。ふだんはおとなしい夫を暴力男に変身させてしまう。

 これは極端な例ですが、怒る人がいるのは怒らせる人がいるからです。もちろん暴力をふるう人が悪いに決まっている。でも、怒らせないように気を使うことが、得策である場合が多い。少なくとも、怒らせ上手のテクニックは使わないほうがいい。



6月15日(日) 最近の日曜日
 7時に起き、「目がテン!」を見ながら、きのうの日記を書く。昨晩もバスケットのあと飲んで遅かったので、さすがに散歩はお休み。8時までには、日記のアップロードも完了。
 8時からは「サンデーモーニング」、8時半からは「週刊こどもニュース」。
 9時からまず30分の朝風呂。9時半から「遅く起きた朝は・・・」を視ながら、脚中心のストレッチングをする。筋肉痛はないが、脚に疲れが残っている。そのまま脚に毛布を掛けて休んでいると、脚全体がじわーっと中から温まり、少し眠くなる。10時から再び30分の入浴。これで十分に疲労回復ができる。
 朝食は好物のきつねうどん。私は普段は水分をそれほどとらないほうだが、バスケットの次の日だけは、身体が水分を要求する。だから、日曜日の朝はほとんど麺類になる。
 午前中に、読書ノート「竜馬がゆく」を書く。
 なんとなく囲碁のテレビをつけたまま、うとうとと気持ちのいい昼寝。
 2時から、サッカーのキリン・カップ「日本対トルコ」を観る。
 その後、今週の人生相談「考えてもしかたがないことを考えてしまう」・その2を作成する。
 夕方、ニュース、「ちびまる子ちゃん」などを視る。
 そして、今、この日記を書いている。

 この後は、「毛利元就」「知ってるつもり」(アンディ・ウォーホール)などを視ながら、今週の予定を考える。
 それから、家へ帰る。

 最近の日曜日は、特に外出する予定がなければ、ほとんどこんなパターンだ。



6月16日(月) うれしい言葉
 午後、「ためしてガッテン!」(NHKテレビ)の先週水曜日の再放送をやっていた。「賢いストレス対処法」だ。
 その中でおもしろかったのは、ストレスなどで疲れた夫が妻から言われて、うれしい言葉とうれしくない言葉だった。

うれしい言葉うれしくないい言葉
1.わかるわ    
2.がんばって   
3.なんとかなるわよ
4.無理しないで  
5.飲む?     
1.がんばって       
2.くよくよしないで    
3.あなたらしくないわ   
4.たいしたことないじゃない
5.やめちゃえば      

 「がんばって」がうれしい言葉の第2位で、うれしくない言葉の第1位というのは、受け取る側の個性だろうか。夫婦の関係によって変わるのだろうか。
 うれしくない言葉は、もっともらしい感じがする。そんなこと自分でもわかっている。でもできないのだ。だから、言われるとイラだったり、つらくなる。
 うれしい言葉は、やさしい感じがするる

 私の文章の中には、うれしくない言葉のようなものも多い。言い方をもう少し考えたほうが良さそうだ。相手の状態にもよるのだろう。本当に落ち込んでいる時、何かを探して求めている時、前向きな時、など。

 ここに出てきた中では、私だったら「飲む?」なんて言われたら、すごくうれしいと思う。まあ、そんなことを言ってくれる人もいないのだから、自分で言ってあげることにします。

「ビールでも飲む?」   「ハオハオ」

 人に言ってほしいことがあったら、自分で言ってあげよう。人にしてほしいことがあたら、できることは自分でしてあげよう。



6月17日(火) 不思議な時間
 早朝4時に散歩に出る。すでに明るい。寒くも暑くもない、いい季節だ。

 ひと気のない町田の街中を抜けて歩いていると、大きないびきが聞こえてきた。見ると、駐車場のアスファルトの上に酔っぱらいが気持ちよさそうに寝ている。問題なさそうなので放っておく。

 芹ヶ谷公園に行く。緑に囲まれた大きな公園。鳥の声だけが聞こえている。6時頃になればたくさんの散歩の人がいる公園なのだが、4時台ではさすがに誰もいない。
 今までに通ったことのない林の中の坂道を登ってみると、銀色に光る大きなメタリックの球があった。近寄ると2m50cmくらいの直径だ。オブジェだ。石の台に「My Sky Hole」と書いてある。球に映るひしゃげた自分の姿を見ながらひとまわりする。球を突き刺すように穴があいている。覗いてみると、片側からは木、もう一方からは道が見える。よく意味がわからない。意味なんてどうでもいいのかもしれない。

 少しだが、不思議な空間に、不思議な感じで、不思議な時間を過ごした。



6月18日(水) 道を聞かれる
 夕方、町田駅の近くで中年の女性に道を聞かれた。「わいわいセンターはどこですか?」
 私はそれがすぐにどこだかわかった。でもたぶんそこは「わくわくセンター」のような名前だと思う。正式には「シルバーなんとかセンター」だったような気がする。
「シルバー・センターですよね?」と聞き返すと、「そうです」と答えられたので、道を教えた。

 私は路を歩いていて、たまに人に道を聞かれる。以前に数人の友達とそういう話をしたら、一度も聞かれたことがないという人が何人かいた。他の人もめったにないと言う。私は年に2・3回はあるような気がする。

 はじめ私は自分の見た目のせいかもしれないと思っていた。ようするには安全そうな人に見えるからだと。
 最近気づいたことだが、たぶん一瞬目が合うからだと思う。私は路を歩いているときに「人間ウォッチング」をしていることがある。「この人はどんな人だろうか?」「どんなことを考えて生きているのだろうか?」「幸せなんだろうか?」などと想像してみる。
 一人の人をじっと見つめたりはしないが、一瞬顔を見る。相手がこちらの顔を見ていれば目が合うわけだ。そうすると声をかけやすい。

 このことに気づいたのは、「あなたの健康と幸せを祈らせてください」と言って寄ってくるある宗教の信者の人に接した時だった。一度目を合わせたのに気づいた時、長い間ついてこられた。

 目が合うということは、人の心をつなぐ意味があるような気がする。
 私は以前は視線恐怖症のような感じがあった。今でも意識しないと目が合うのを避けているようだ。今は人の話を聞く時には目を合わせるように意識してできるようになっている。



6月19日(木) 目を合わせる
 夕方、本屋に寄ろうと外出する。きのうの日記に書いたせいか、はじめのうちは自分の視線のやり場が少し気になった。

 私は子どもの頃からずっと人の目を見る習慣がなかった。ただ単に恥ずかしかっただけだ。
 それでも会社に入り仕事上の話をするときには、意識して目を合わせることはできた。しかし、プライベートでは無意識に人の目を避けていた。それでも別に問題を感じたことはなかった。

 それが約10年前のバスケットの飲み会の時、仲間の女の子が「視線を合わせない人って信じられない」と言うのを聞いた。その言葉は私のことを言っているのでないのは明らかだったが、私は「そういうふうに考える人もいるんだ」とはじめて気づいた。
 それからは、プライベートでも意識することが多くなった。はじめはぎこちないこともあったが、すぐに慣れた。また、カウンセリングの勉強をして、もう少し積極的に相手の目を見ることができるようになった。

 バスケットのプレイ中にも、アイ・コンタクトをよくする。一旦目を合わせてから連係プレイをすると、より息が合う。

 最近は、目を合わせることで心をつなぐことができる、と思っている。



6月20日(金) 台風と死
 外は強い雨と風。台風7号だ。

 ニュースで、サーファーが2人流された、と報じられた。
「こんな日に!」と思う。でもサーファーは「こんな日だから」と言うのかもしれない。
 死の危険を予想できなかったのだろうか。仲間同士の見栄のようなものでもあるのだろうか。それとも覚悟のことか。

 自分の命を賭けるようなことだろうか。

 登山家や冒険家のような人はどうだろうか。少なくともある程度の覚悟はあるのだろう。
 カー・レーサーやバイク・レーサーにも、その危険性はある。
 少なくとも私は、これらのことで死を賭けて限界に挑戦する気にはなれない。
 宇宙飛行士だったら、危険があってもチャンスがあれば、やってみたい気もする。

 死を賭けてなんていうものは、めったにない。
 でもそれができたら、人は強いのだろう。「命がけで」「死んだつもりになって」何かをやったら・・・

 人はみんな必ず死ぬ。死を賭けて生きていると言えるのかもしれない。だからと言って、それを恐れておびえて生きるのはもったいない。どうせ生きるのなら、幸せに暮らしたい。

 夜には雨も風もすっかりおさまって、満月がまぶしいくらいだった。


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