しあわせ日記
9月11日(金) 先の先を考える
先の先を考えるためには、まず先を正しく読めないと話になりません。間違ったことの先は、もっと間違う可能性が高い。
ところが私たちは、そういうことをよくしてしまいがちです。
たとえば、“きっとあの人はこう思っているから、私はイヤな気分になる。だから、私はこうしようと思う”。
もし、人がどう思っているかの想像が間違っていたら、イヤな気分になるのはソンだし、自ら人間関係で墓穴を掘ってしまいかねない。
人の考えていることなんて、所詮わからない。だったら、いいように考えたほうが、自分のためだと思う。
9月12日(土) 我以外、皆我が師
くよくよしない方法・その11は、「自分以外はみんな文明人」。
「我以外、皆我が師」のことです。
すべての事・物・人から学べることがある。不幸な出来事、イヤな思いをした事、イヤな人間からも学べることがあります。
自分が何かを学べたと思えたら、そのきっかけとなったものは、我が師と言えます。そうなれば、我が師に対して腹をたてることもなく、学べたことでくよくよしなくてもすみます。
「自分を育てる」ことを人生目標の1つにすると、「我以外、皆我が師」が身近になります。
自分を育てることは、自分の幸せになる能力を向上させることです。それを心がければ、だんだん幸せに暮らせるようになります。
9月13日(日) 心理3=心の働き
「心理」を辞書でひいてみたら、「心の働き」とありました。
いい言葉だと思いました。「働き」には、自力や努力や進歩のようなものが感じられます。
心はある程度は自分でコントロールすることができます。努力で働く能力を向上させることができます。
「自分の心をコントロールできない」「自分は生まれつき心が弱い」「くよくよしてしまうのは性格だからしょうがない」などと考える人は、いつまでたっても、心は弱いまま、心の働きは未熟なままです。心が弱く、未熟な人は、不幸になりやすい。
“いい仕事してますね”と言えるような、心の達人になりたいものです。
9月14日(月) 自分を育てる
「徳川家康」で、本多作左衛門が家康に言いました。
「何によらず未熟者は見苦しい。達人におなりなさい」
本多作左衛門は、“鬼”とあだ名される、口の悪い頑固者。
松平(徳川)の家臣には、本多姓が数家系あります。私は、同姓のよしみか、大好きな本多○○が3人います。そのうちの1人が作左衛門重次です。
自分を叱ってくれる人、過ちを指摘してくれる人、苦言を呈してくれる人が存在することは幸せなことだと思います。
そういう人たちが、未熟な自分を育ててくれます。
そうでした。「我以外、皆我が師」と思えればよかったのでした。
そしてもう1つ、「自分を育てる最良の師は自分自身」だと思います。
少しずつでも、幸せの達人に近づけたらいいな、と思います。
9月18日(金) 大切に生きたい
3日間、日記をお休みしてしまいました。
火曜日はくやしくて、水曜日はいそがしくて、木曜日はせつなくて、日記を書く気になれませんでした。
私もまだまだ未熟者です。
きのうのことを想うと、その前の2日のことはささいなことでした。
今は、1日1日を大切に生きたい、と思っています。
私にとって、“大切に生きる”とは、幸せに暮らすということです。
9月19日(土) おとといのこと
やはり、おとといのことを書くことにします。
木曜の朝、事務所に立ち寄りメールを読むと、勉強会の仲間の奥さんの訃報があり、夕方にお通夜という。
動揺したまま仕事場へ向かう。電車の中で、いろいろ考え・迷ったが、とにかく行くことを決めたら、少し落ち着いた。
その友達の家で勉強会をやったこともあったし、家族そろっていっしょにキャンプに行ったこともあった。2人の女の子はまだ小学校低学年以下だと思う。
夕方、仕事を終えて、お通夜に向かう。途中で白いワイシャツと黒いネクタイを買った。なんとか間に合った。
焼香に向かって歩いていく途中で、友達と目があった。「ありがとう」と目が言っていた。その微笑んでいるような表情を見て、私はかえってドギマギしてしまった。
その友達は人一倍気を使う人なのだ。奥さんはがんだったと、後で他の仲間から聞いた。その友達は1年半前からわかっていたが、仲間の誰にも気を使わせないように隠していた。そして、この日も気丈だった。
自分より年下の知人の死ははじめてだった。
いろいろと考え続けています。
9月20日(日) 正しいこと<幸せになること
くよくよしない方法・その12は、「たいていは相手が正しい」。
人のまちがいを指摘しない、ということらしい。
相手のためを思ってまちがいを指摘してあげるのは、いいと思います。でも、自分の正しさ・知識をひけらかすだけのためなら、やめたほうがいいと思います。
人が何か言ったことは、ハオハオ(そう言ったということは事実)です。その人にはその人なりの事情や考えがあって、そう言っているのです。
「私は正しいことを求めているか、幸せになることを求めているのか?」