しあわせ日記


8月11日(月) 冷蔵庫のある幸せ
 きょうは暑い1日だった。私の場合、クーラーより冷蔵庫があることのほうが幸せなようだ。

 いつでも冷たいウーロン茶が飲める。アイスコーヒーには氷が必要。昼食の冷し麺にも氷を使う。今も冷凍室に30分入れてキンキンに冷えた缶ビールを飲み、生きがいを感じたばかりだ。

 もし冷蔵庫がなかったらと想像してみると、不自由さを感じる。そもそも買い物を頻繁にしなければいけなくなる。すぐに腐ってしまうものがたくさんある。
 冷蔵庫があっても、もし地震で停電してしまったら同じだ。こんなことを想像するだけで、少し不安になり、イヤな気分にもなってくる。

 きょうも「死」についていろいろと考えていたが、たまに恐ろしくなってくる。人間は想像だけで、不安にも不幸にも簡単になれるのだ。そもそも何も考えなければ、不快はあっても不幸はないのだろう。

 考えてもしょうがないこと、忘れてしまいたいことを、つい考えてしまって不幸な時間を過ごしてしまうことがある。「わかっちゃいるけど・・・」ということは確かにある。でも、自分の考えることは自分ではコントロールできない、とあきらめてしまったらそれまでだ。
 イヤな気分になるような自分の考えを野放しにしないで、コントロールできることも幸せになる能力だと思う。すべての不幸は自分の想像により生じるものかもしれない。
 「死」について考える時には、冷蔵庫の中に入りこんで凍えないように気をつけましょう。暑い季節にちょっとだけなら、いいのかも。



8月12日(火) 死生観
 「死と生き方」「死生観」などに関する本を何冊か読んだ。いろいろな考え方がある、と思った。人それぞれが自分の体験をベースに自分なりに死について考えていることがわかる。

 ある本の中に、「死生観」は新造語らしい、と書いてあった。私も持っている辞書を3冊ひいてみたが、確かに見つからなかった。

 「では」とgooで「死生観」を検索してみる。なんと687件。いくつかのホームページをのぞいてみた。
 いちばんすごかったのは「いつか死ぬ私」というページ。作者の「死」についての文章に、多くの読者の声が寄せられ、ページが続いている。興味のある方は見てもいいですが、暗くなったり恐ろしくなったりする可能性もあるので見ないほうがいいかも(?)
 恐ろしくなってしまった人は、死の恐怖感を読んでみてください。

 人には恐いもの見たさというところもあります。恐い映画や小説を好む人もいます。ジェットコースターなどの身体的恐怖感を楽しむものもあります。
 暑い夏、お盆のこの時期に「死」はピッタリのテーマかもしれません。

 でも私はそろそろ、死についてもう少し幸せな考え方をしよう、と思っています。



8月13日(水) カウンセラー
 午後のワイドショー「ザ・ワイド」(日本テレビ)で、「カウンセラー」についてやっていた。
 アメリカでは、カウンセリングが一般化し、カウンセラーの地位も高いという。反面、罪を犯した人のカウンセラーが免許を取りあげられるケースもあるという。
 日本では、誰でもカウンセラーの看板をあげて商売できる。臨床心理士、産業カウンセラー、認定カウンセラー、心理相談員、認定心理士、精神対話士、応用心理士などの資格を持つ人はいるが、開業に必要な国家免許がない。
 小田晋さんは、「新興宗教の教祖と同じだ」と言う。本人がそう名乗ればいいらしい。

 日本では、カウンセリングを受けることは、自分にとっても、世間に対しても恥ずかしい、という思いがあるようだ。生活に支障がでるほどの悪癖や精神の不安定な場合以外には、お金を払ってまで相談するという慣習がない。

 私も少しはカウンセリングの勉強をしたことがある。カウンセリングを勉強することは、精神的に強くなりたい、人間として成長したいという人にはいいと思う。
 でも、現在の日本ではカウンセラーとして食べていくことを安易に考えないほうがいい。いっぱい稼ぎたいという人には、カウンセラーになってほしくない。

 まずは、自分で考えて幸せに暮らせること。そして、困ったときには身近に相談できる人がいてくれたらいいな。できれば、人の相談をよく聞いてあげれる人になれたら、と思う。



8月14日(木) 死刑
 夕方の「ニュースの森」(TBSテレビ)で、先日死刑が執行された永山則夫さんについて放送した。番組の中で「永山則夫氏」と紹介したところ、視聴者から多くの電話が入ったらしい。杉尾キャスターは、「死刑の執行により罪の償いは終わったものと考え、氏をつけました」と言った。

 私は死刑よりは無期懲役(世の中には出さない)でいいと思う。
 きょう読んだ本の中に、「刑務所の中で、死刑囚はイキイキとしていて、無期囚は無気力だ」と書いてあった。私は、未熟な人間にとっては死刑よりも無期懲役のほうが重い罰だと思う。
 死刑制度が犯罪の抑止力となるという考え方がある。確かに人は死について想像すると恐ろしくなる。でもほとんどの人は死について考えない。
 死刑の判決はあっても執行をしなければいいのかもしれない。それは制度としても、お役人にも認められない。みんながそれを知ってしまったら意味がない。
 実は、すべての人は生まれた時に死刑を宣告されているが、執行は猶予されている。だったら、死刑囚のようにイキイキと暮らせばいい。

 永山さんは刑務所の中で小説を書き、出版された。その印税は、被害者の遺族が受け取っているという。
 遠藤弁護士が、「死刑執行を言い渡された39分後に処刑され、遺言を残す猶予も与えられなかった」と言う。異例なことらしい。
 もちろんこれらのことと、罪は関係ない。4人を殺した罪は罪、罰は罰。

 でも、人の死を人が決めていいのだろうか?

 ところで、なぜ死刑囚はイキイキと刑務所暮らしができるのだろうか?
 「死」を受け入れ、限られた時間を幸せに暮らそう、と考えられるからではないだろうか。



8月15日(金) お盆
 お盆の季節です。休みに帰郷したり、お墓参りに行かれる方も多いと思います。

「大往生」(永六輔・岩波新書)の中に、次のような文章がありました。
「お彼岸、お盆、法事・・・
 そういうチャンスに、できるだけ死について、死者について話をするべきです。それが死を受けいれるトレーニングになるんです。みんな死ぬんですから」
 ふつうの人は「死」について考えずに生活していると思います。私は今週、いろいろと「死」について考えました。日記も多くは「死」に関することでした。とりあえず、きょうで終わりです。

 「死ぬための生き方」(新潮文庫)の中に、笠智衆さんが書いた「『生と死」芝居と本番」というエッセイがある。そのラストは、「今朝の秋」(山田太一脚本・昭和62年NHKテレビ)の中での笠さん演じる老人が息子に言うのセリフだった。

「先のことばかり言うな。今を楽しめ」

 先の心配、先の幸せばかり言っていたら、いつまでたっても幸せな時はこない。今の幸せを楽しみながら先の幸せを考えればいい。



8月16日(土) フリーセル
 午前中、ちょっと気分転換にと、Win95についているゲーム「フリーセル」を起動した。まったくはじめてなのだ。
 ヘルプを少し読み、とにかく始めてみた。。
 ぜんぜんうまくできない。ヘルプには、必ずできるらしい、のようなことが書いてあった。

 私などは、できないカード配列の例を考えてしまう。しかし、逆にゲームを作る立場になって考えれば、簡単なことだ。完成形から逆にカードを動かして、ゲーム開始の配列を作ればいいのだ。

 5回めくらいに、たまたまうまくできた。でも、どうしたらうまくいくかわからない。「わからない」と「負ける」ことが悔しい。
 はまってしまった。午後まで5時間以上やってしまった。
 やっと50%くらいは勝てるようになった。1度でできなくても、3回くらいやり直せば、ほとんどできるようになった。

 これで明日からは、気分転換程度にできるだろう。きょうは疲れてしまった。



8月17日(日) 私なりに
 今月の人生相談の中に「人生」について書こうと、いろいろ考えて少し書いたのだが、結局ボツにした。

 先週の「死」を受けて、「(死を前提とした)限られた人生」について書くつもりだったのだが・・・。
 どこかに書いてありそうな内容になっちゃうし・・・。
 今の私には、とても自信たっぷりに書ける内容ではないことがわかった。

 考え直した結果、私は「幸せな人生」について自分なりに書くしかない、という結論に達した。新たに考えましたが、まだまとまっていません。明日、書き上げるつもりです。

 今週の人生相談は、「生きている実感がない」という悩みに決めました。かねてから気になっていた「透明な存在」にもふれることになると思います。難しい問題ですが、私なりに考えてみようと思います。

 今月は、本をたくさん読んでいる。そのわりには、たいした量の文章は書いていない。でもたくさん考えているので、すごく自分のためになっていると思う。少しずつ消化して出していけたら、と思っています。



8月18日(月) バカになる
 先日、みのもんたさんの「おもいっきりテレビ」(日本テレビ)の人生相談コーナー「おもいっきり生電話」を見ていたら、嫁姑問題で悩む姑が「私がバカになればいいんでしょうか?」と言った。つまり、嫁の言うことにさからわずに、「ハイハイ」と聞いていればいいのか、というような意味です。
 余計なこと、小さなことに悩まないということでは、ときには「バカになる」のもいいと思う。

 きょう、今月の人生相談「なんのために生きるのかわからない」に「幸せな人生」について書きました。
 読み直してみると、いつものワンパターン(実は5つの方法)。

 私は、「幸せは星の数ほどある。幸せになる方法もたくさんある」ということを基本にしています。だから、その場・その時・その事・その相手によって幸せになる方法を考え実践すればいい、と思っています。そのため、私は幸せについて場当り的に雑多なことを書いています。
 しかし、そこには常に「幸せになる5つの方法」が反映されています。無数の幸せがあるから、それを探すための方針とヒントがほしいのです。1つのヒントでは「自分の幸せ」のひと言になってしまい、用をなしません。ヒントがたくさんありすぎても、すぐに応用できません。5つくらいがちょうどいい、と考えています。

 「バカの1つおぼえ」という言葉があります。私の場合には、「幸せオタクの5つおぼえ」でしょうか。「犬の卒倒」でも(わぁ、古いギャグ)、「バカの5つおぼえ」でも、役に立てばいいのです。もっともらしいことや立派なことを書いても、人の役に立たなければ意味がない。
 バカにされたってかまわない、むしろバカになって、自分の幸せな人生を歩みたい。



8月19日(火) ポケベル症候群
 きのうときょうの午前中に放送された、「ティーンズ・ビデオ’97」(NHK教育テレビ)をみた。NHK全国高校放送コンテストの中の番組制作部門の入選作ビデオの紹介。
 きのうのテーマは「高校生ってなんだ」、きょうのテーマは「私たちと社会」。あす・あさってはドラマの予定。

 きのう放送の「高校生ってなんだ」の3位が、「ポケヴェール シンドローム」(長野・松商学園高校放送部制作)だった。
 ポケベルがないと生きていけない、というようなポケベル症候群。
 そこには、友達が何をしているか気になる、まわりの人の状況がわからないと不安、というような意識があるらしい。
 その反面、人によく思われたい、自分の心のうちを知られるのが恐い、という思いもあるようだ。
 そのため、友達づきあいに気を使い、演技をして疲れてしまう。
 そこに登場したのがポケベル。人とのつながりを保ちながら、それほど疲れなくてすむ。
 それに慣れると、直接会って話をすることがうっとうしくもなる。人間づきあいが希薄になってくる。
 本来、人とつながるための道具だったポケベルが、心を閉ざしてしまう道具にもなってしまう。

 昨晩の「TVタックル」(テレビ朝日)の中でビートたけしさんが、「最近の若い子は、寂しいことが悪いこと・不幸なことと思いすぎ。寂しいのは当り前だと思わなくちゃ」と言っていた。
 (ハオハオ)



8月20日(水) よく見えない相手
 今週の人生相談「生きている実感がない」について書くために、「アダルトチャイルドネットワーク」(ACN)の掲示板を読む。私は、ちょくちょくアクセスし、掲示板の内容をプリントアウトしていた。その中には、アダルトチャイルドの生きづらさを表現するたくさんの悩みや思いが書かれている。それらを受け入れた上で、幸せになる方法を考えるヒントとしてきた。

 実はACNの掲示板は、7月いっぱいをもって閉鎖された。(過去の記録を読むことはできる) 利用者間で起きた大きなトラブルのためだ。
 インターネット上では、掲示板・チャット・ネットニュース・メールによる過激な意見・中傷等により、時おりトラブルが発生するようです。
 姿の見えない相手、しかし確実に手元に残る言葉。1つのイヤな言葉を繰り返し読み、相手の悪さを自分の心の中で強調してしまう。さらに相手への悪い想像を加え、どんどんふくらませてしまう。
 中には、匿名性を利用して、人を傷つけることを喜ぶ人もいるようだ。

 世の中にはいろいろな人がいるのだ。特によく知らない相手に対しては、過剰に自分の悪い想像や感情をふくらませないことだ。どんな人がいても、ハオハオ。どんなことを言っても、ハオハオですませてしまえばいいのだが・・・


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